2009年7月 6日 (月)

尾道・・・坂のある風景/林芙美子

6月某日、広島県・熊野町にある白鳳堂を訪問した後、尾道を訪れた。
尾道と言えば坂のある風景と作家林芙美子が思い浮かび、それらの雰囲気に触れることが訪問の目的であった。

宿のある千光寺山荘付近の散歩を楽しむ。尾道は瀬戸内海に面しているが、対岸には向島という島があり、その間は大変狭く、尾道水道というまるで川のような海が横たわっている。このような地形の故、海運が盛んで、江戸時代、北前船の停泊地となり、海産物の集散地として繁栄したらしい。多くの回船問屋があり栄えたそうだ。

ロープウエイで展望台に上り、千光寺山頂からつづく文学のこみちを下る。
志賀直哉の「暗夜行路」、林芙美子の「放浪記」など、尾道にゆかりのある作家や作品は非常に多く、彼等の文学碑が刻まれた25の自然石があった。第9番目に志賀直哉、10番目に林芙美子の文学碑があった(写真2)。

文学碑の文字を追いながら小説が書かれた時代背景に思いを馳せる。

林 芙美子 

海が見えた。海が見える。
五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい、
汽車が尾道の海へさしかかると、
煤けた小さい町の屋根が提火のように、
拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える。
山は爽やかな若葉だ、緑色の海向こうに
ドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。
私は涙があふれていた。

林芙美子は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の名句で知られる。行商を営んでいた母と共に各地を転々としたが、最終的に港町・尾道に落ちついたそうだ。高校在学中は学費を得るため夜は帆布工場で働いていたという。そしてその後、放浪の日々を綴った私小説「放浪記」を出し、新進作家として大成した。この碑の筆者小林正雄氏は小学校当時の恩師である。

街の方へ下って行く途中で、尾道の坂道散歩を楽しんでだ(写真3)。海の対岸に見えるのは向島である。

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(写真1)

林芙美子像

JR山陽本線
尾道駅の東

商店街の入り口
にある

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(写真2)

文学のこみち
にある
林芙美子の
文学碑

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(写真3)

坂道のある
風景

対岸は、しまなみ
街道のひとつ
向島

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どこかがおかしい?国の政策

最近の国の政策はどこかがおかしい?
身近な例で言えば、定額給付金もそうだが、最近の休日の高速料金の一律1000円制度、エコポイント、などがある。

選挙目当てに国民の目を、失政からそらそうとする意図しか感じられない。やることだけはちゃんとやり、このような政策を出してくるならばわからないこともないし、何とか許せるが。

まず大切なのは、日本の将来について語る必要があるということだ。現在の政権党は、教育問題、健康・福祉、中小企業対策、等など解決すべき逼迫した問題があるのに、これに対して、適切な政策を打ち出していない。教育問題や健康・福祉などに対しては、それどころか昔の方が良かったように思われる。学力の低下、いじめ問題、最低限の人間的な生活保障の欠如など、以前にはこのような問題は発生していなかった。まさしく政策の内容が悪化して来たのである。現場を知らない官僚及び、彼らに政策立案を丸投げしている政治家はこれの共犯者だ。

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今日、新聞を見ると次のような「声」が掲載されていた。

自家用車の車検を受けた。これまでも環境にやさしいとの誘いもあり、オイル交換の時にはエコオイルにし、タイヤの交換時はエコタイヤにしてきた。今回は、とうとうエコ車に乗り換えるよう勧められた。営業マンは、登録から13年以上の車を低燃費の新車に買い換えると25万円の補助がある、と売り込みに躍起だ。
エコは確かに大切だが、その精神は「モノを大切に使う」ことだろう。エコを餌にこれまで通りの大量生産、大量消費による景気回復をもくろむやり方にうんざりする。営業マンの誘いに乗らなかった。
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また、私は思うのであるが、大型の冷蔵庫にはエコポイントが高く、小型には低い、というのもおかしなものだ。大型のものを買えない者は、この恩恵に預かることができない、ということか、また資源の節約とは矛盾する。

環境問題は大切である。しかし新車に切り替えることにより、地球資源は明らかに浪費される。環境問題はもっと総合的に考えなければならないのだが・・・・
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要は、長期的な展望をせず、思いつきや行き当たりばったりの政策で国政を行うことが大変問題なのだ。もっと国のことを真剣に考えている者に政治を委ねるべきなのである。

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2009年7月 4日 (土)

政治は若い世代に委ねるべき・・・政治の一新を

日本の将来に明るさが見えない。政治は混迷を極めている。
政治を職業とする人は、自己を犠牲にしてでも国民に尽くす人でなければならないのだが・・・

ところが多くの既存の政治家は、自分の利益や政党の利益のために行動し、国民のためを思って行動している人は少ないようだ。この国の閉塞感を打ち破るには国会議員を一新する必要がある。

若い方々は政治に無関心だと言われているが、それは自分が一人投票に行っても政治は変わらないと思うからだ。しかし、一人ひとりが投票権を行使し、上記のような国民のことを考えていない政治家を排除すれば確実に政治は良い方向に変わる。

そして、投票に当たっては、日本の将来に対して真剣に考え、ビジョンを持っている人に投票すべきである。財政・行政改革、健康・医療、教育、中小企業対策、等などに対してビジョンを持って進まなければいずれ日本は滅びてしまう。既存の堕落した政治家に期待することはやめよう。我々国民の側としても、身近なことについてはより関心を示すが、将来のことについてはそれ程関心を持たないということも問題なのである。もっと将来のことを考え、何事もそうであるが、短期的でなく、長期的な視点で考えて、投票しなければならない。

そのためには本当に将来の日本について憂える人を選ぶべきである。たとえば、何ら将来ビジョンを示さず、ただ選挙向けのバラマキ政治を行う政党、選挙のために有名な知事を取り込んで、自ら行って来た政治の不備から姑息的に国民の目をそらそうというような政党を選ぶべきではないのだ。

先日、土曜日の朝の番組で、自民党のM元官房長官が出てきて、今日は鳩山氏の献金問題の議論に参加することを楽しみにして来たのだが、あまりそのような議論にならないので残念だと言っていたことには、空いた口がふさがらなかった。多党を批判することにより、自党の問題から矛先をかわし、国政を語ろうとしないこの態度には怒りを感じた。

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また、政治においては若いリーダーが必要だ。40歳~50歳半ばの元気な人が良いように思う。人間どうしても歳をとると保守的になる傾向がある。欧米を始めとする世界の政治家を見ればわかる。皆若い。長老が政治を牛耳っているのは先進国では日本ぐらいしかない。

政治は若い人に委ねる必要がある。そのために、若い人は投票権を行使しよう!

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2009年7月 1日 (水)

奈良 明日香村 散歩

JRの駅で“奈良で歩こう”というパンフレットを見つけた。中を見ると「万葉講座・・万葉線に乗って・・・」という無料の講座が奈良県立万葉文化館であるという。
近くに住んでいながら飛鳥とか明日香と言われるところへ行ったことがなかったので、これを機会に行って見ようという気持ちになり、往復はがきで申し込んでいたところ幸いに当たったので、6月某日明日香村へ向った。そして講座の前後にタクシーも利用しながら明日香村散歩を楽しんだ。

見て回ったのは、高松塚古墳、欽明天皇陵、吉備姫王墓、亀石、天武・持統天皇陵、橘寺、川原寺跡、石舞台古墳、伝飛鳥板蓋宮跡、飛鳥寺である。

・高松塚古墳は現在復元作業中であった(写真1)。隣接している高松塚壁画館で壁画の模写、出土品のレプリカなどの展示を見る。

・天武・持統天皇陵は両天皇夫妻の合同墳。天武天皇は土葬で、棺は朱塗り、持統天皇は火葬で、骨壷は銀製という豪華さだったとされる(写真2)。

・橘寺は聖徳太子生誕の地と言われており、太子創建七寺のひとつである。境内には善悪2つの顔を持つ二面石があった(写真3)。

・石舞台古墳は蘇我馬子の墓だと言われている。この時代にこのような巨石を積み上げた古墳が築かれたことは驚きだ。石室の中に入ると一層その大きさに圧倒される(写真4)。

伝飛鳥板蓋宮跡は有名な大化改新の舞台であったという説が有力である。それまでの宮が茅葺であったのに対し、板葺きであったことからこの名がついているという(写真5)。

・飛鳥寺は蘇我馬子が建立した我が国初の大寺院である。

散歩後、万葉文化館で万葉講座を聴く。6名のこの道の専門家による講座で、物部氏に係わる話、歌によまれた飛鳥・藤原の話、香具山の話、など、約400名の参加者が熱心に耳を傾けていた。万葉集など殆ど知らないし、古文などの知識に乏しい私であるが、むつかしいながらも、素人向けにわかりやすく話してくれる話に惹き入れられた。

講師の一人、井上さやか氏(万葉古代学研究所主任研究員)が説明してくれた次の歌は、今でもありそうなやりとりであり、ユーモアたっぷりで人間性を感じさせる歌であると思った。当時の、そのような出来事があったであろう光景に思いを馳せた。
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天武天皇が妻の一人である藤原夫人(ふじわらのぶにん)とからかいの歌を
交わしたもの。

「我が里に 大雪降れり 大原の古りしに里に 降らまくは後」
(我が里には雪が降ったよ。あなたのいる大原の古ぼけた里には
                            後で降るだろうけれど)

「我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ」
(何をおっしゃるの!私のいる大原の岡の竜神に頼んで降らせた雪のあまりが、
                     そっちに降ったのじゃないかしら?)
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また、明日香宮から藤原宮に都が移った後に、志貴皇子が作った悲しみを
誘う歌があり、しみじみとさせられた。

「采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたずらに吹く」
(采女たちの袖を吹き返していた明日香風・・・・。
                  都が遠くなった今は、むなしく吹いている)

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写真1:

復元中の
高松塚古墳

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写真2:

天武・持統天皇陵

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写真3:

橘寺
(聖徳太子
 生誕の地)

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写真4:

石舞台古墳
(蘇我馬子の墓
 だと言われている)

Simg_1251

写真5:

伝飛鳥板蓋宮跡
(大化改新の舞台
 であった)

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写真6:

奈良県立
万葉文化館
での
万葉講座

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2009年6月29日 (月)

白鳳堂・・・広島県熊野町にある化粧筆の世界的企業

広島県熊野町に”白鳳堂”という化粧筆の世界的な企業があるということを数年前から聞いていて、かねてから、どのような会社であるか一度見てみたいと思っていた。2ヶ月前にアポイントを取り、6月某日、同社を訪れた。今回、化粧筆ということで家内も興味を示していたので家内同行の訪問であった。

JR広島駅から在来線に乗り矢野駅で下車、車で15分。山々と田園風景の広がりが同居する熊野町は筆づくりの集積地である。至るところに筆という文字が見られる。その中に白鳳堂があった。本社と工場を兼ねたオフィスの事務所に入ると、取締役統括部長・髙本光さん(社長の次男さん)とスタッフの方々の明るい挨拶で迎えられた。都会にある化粧品売場に見られるのと同様な明るい雰囲気に包まれた職場だ。これだけでも女性向けの世界的な化粧筆をつくっている優れた会社の一面が垣間見える。

同社の創業は1974年。創業の原点は、当時の大量生産による粗製造に流れ勝ちな業界の中で、道具としての機能を重視し(そのため顧客の使い方を研究した)、工程を省くことなく、伝統の技術にこだわって品質の高い筆をつくりたい、ということであった。

現在主力製品となっている化粧筆も創業当初から手がけていたが、当時はまだ高級な化粧筆はなかった。そこで髙本社長は奥さんの意見も聞きながら、化粧時に求められる機能を追及。筆の形状、使う毛の選択と組み合わせ等を一から工夫することで独自の高級化粧筆を開発してきた。

ところで創業当時、化粧筆は全て問屋を経由して納入されており、このような流通経路では、コンパクト性やデザイン性、低価格性のみが取り上げられ、筆の機能や使いやすさといった側面は軽視されていたという。そこで製品の良さを分ってもらうには直販しかないと感じた社長は、卸業者を外して直販に切り替えることを決意。しかし切り替えた直後は売上が急激に減少し大変であったという。

このような局面を打破出来たのは、髙本社長が活路を求めてアメリカへ渡り、そこで会ったメーキャップアーティストからカナダのメイクアップアートコスメティックス(M・A・C)社を紹介してもらい、M・A・C社と化粧筆に関する考えで共鳴したからである。同社の試作品を使ってみて、顔に合う化粧筆として大変気に入ってもらえた。

そしてMAC社にOEM納入された化粧筆がハリウッド女優などにも使われるにつれ、M・A・Cの化粧筆の良さは口コミで伝わり、マスメディアでも採りあげられるようになった。そしてそれをつくっているのはどこかということで、白鳳堂の名前もこの業界で知れ渡るようになった。そして今、同社の製品は世界の高級化粧筆の市場で6割以上のシェアを占めているという。

また、同社にとって、インターネットの登場も追い風となった。ホームページを開設した当時は、反応は芳しくなかったが、2000年頃から効果が出始めたという。また2001年に口コミサイト「アットコスメ」と連携して、消費者の声を聞きながら商品を開発したことは大変効果があった。

以上はマーケティング及び販売面の話であるが、これを支えたのは生産である。機械を使わない手作業が基本であるが、工程の工夫によって量産と品質の安定を同時に実現しているのが特徴だ。製造工程を細分化し、作業を単純化することで、各工程にプロを育てることで仕事が均一化され、安定した品質の製品をつくっている。このような生産体制であるから、小口の注文から大ロットまでに受注にも対応できるという。

最後に、化粧筆の機能や使いやすさのことだが、化粧のノリが上手く行くには、筆の毛先が肌の凹凸に沿って柔軟に動くことが必要だという。同社はこの点を究極的に追及している。顔の場所(眉、頬、唇、など)、化粧品の種類(粉、液体)、骨格、などにより、それに相応しい筆があり、現在500種類の化粧筆を自社ブランドとして持っている。

家内も同社の化粧筆を買い使ってみたが、感触はビロードのように滑らかで、チクチクしたり、引っかかることが全くないので驚いていた。気に入って娘の土産にと買い求めていた。

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白鳳堂
広島本社

Simg_1095

化粧筆の
製作現場

・・・・・・
清潔感
溢れる
職場だ

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同社オフィス
入り口
・・・・
数々の賞を
受賞されている

・・・・
ものづくり
日本大賞の
楯が見える

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オフィス内
にある
化粧筆展示

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2009年6月21日 (日)

アラビアのロレンス・・・・サウジアラビアの思い出

先日、テレビの「世界史発掘・時空タイムス」という番組で、映画「アラビアのロレンス」を題材としたドキュメントが放映されていた。アラビアのロレンスに関しては、学生時代、そのような映画が上映されていたことは覚えているが、実際観たことはなかったので、興味を感じ最後まで観続けた。

実は、なぜ興味があるかと言えば、アラビアのロレンスが昔、居合わせた歴史的な現場に私も時代を隔てて訪れたことがあるからである。
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40歳の頃より約3年半の間、中近東のサウジアラビアに仕事で滞在していた。仕事というのは、サウジアラビア紅海沿岸の都市・ヤンブにある工業地帯の電化・配電プロジェクトというもので、そのプロジェクト管理の仕事であった。プロジェクトは、私の所属する会社と西ドイツのBBC社(ブラウン・ヴォバリー)とのジョイント・ベンチャーであった。

サウジアラビア滞在中は、サウジアラビア政府が外国人のために建設したプレハブ式家屋からなる居住区域があり、ひとつの村を形成していたが、その中で生活していた。

日本と違って、仕事を終わってからや休日には、飲みにいくところもないし、またこれといった行く所もなく、ましてや歴史的・文化的施設もあるわけではないので、日本人の仲間と雑談したり、休日には紅海の珊瑚礁に恵まれた美しい海で、スノーケルを付けて熱帯魚を観賞したり、貝や伊勢海老を採って食べたり、また時々は英語会話の勉強を兼ねて欧米人の家に遊びに行ったりしていた。

もうひとつの楽しみと言えば自動車での砂漠の探索があった。サウジアラビアには、大昔の居住者が残した石碑や文字を刻んだ岩などが、何ら管理されずに放置されている。それらを見て回るのが楽しみであり、まとまった休日には仲間と一緒に探索旅行に出かけた。

ある時、長期に滞在しているドイツ人から、昔、1914年の第一次世界大戦頃の鉄道の遺骸がどこそこにあると聞いたので、自動車で探索に出かけた。自動車で行くといっても、道路からはずれた脇道に入ると、いつ軟弱な砂漠に突入するかも知れないので注意が必要である。難波した時に備えて、脱出するためのロープやウインチなどを常に保有していた。ある時、砂地に入り込み、通りがかりの車に牽引してもらい脱出したことが幾度かあった。砂漠から脱出できず、炎天下の下で疲弊し亡くなった人がいるとの話も聞いたことがある。

そのような危険を伴う探索だけにそこにたどり着いた時の喜びはひとしおだった。下記の写真はアラビアのロレンスがアラブ反乱軍を支援して爆破したと言われている鉄道の機関車と駅舎の残骸を前に撮影した写真である。この鉄道については後述する。

この探索旅行の時はヤンブ(Yanbu)から内陸にある幹線道路を経て、ヨルダンとの国境であるアカバまで行った。アカバの海は限りなく青いブルーで、その美しさは今でも私の脳裏に残っている。海の彼方に、預言者モーゼがさ迷ったと言われるシナイ半島が見られたのが大変印象に残っている。

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前述の鉄道のことについてウイキペディアの資料からも参考にして説明しておきたい。
この鉄道はヒジャーズ鉄道という。

アラブの反乱(1916~1918)は第一次世界大戦中に、オスマン(トルコ)帝国からのアラブ人独立と、アラブ国家の樹立を目指して、メッカの太守(シャリーフ)・フサイン・イブン・アリーが起こした戦いである。

フサインは三国協商の側について協力することによりエジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国建国という報奨をうけることができると確信し、オスマン帝国との戦いのため連合国側のイギリス、フランスとの同盟を結んだ。

エジプトにあったイギリス軍はこれに協力するため、1916年、俗に後年「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・エドワード・ロレンスをアラブ軍に派遣した。ロレンスはアラブ指導者に対し、ヒジャーズ鉄道終点のメディナに拠点を構える強大はオスマン軍と戦って追い出すのではなく、その代わりにヒジャーズ鉄道を各地でゲリラ的に破壊するように指導したと言われている。

また、ロレンスはアラブ人を率いて、アカバ湾奥の港町アカバを攻撃した。アカバはアラブ反乱軍の補給港となるだけではなく、イギリス側の補給港としても重要であったからである。

このフサインが主導するアラブ諸部族は、イギリスの支援を受けてオスマン帝国軍と戦いその支配からの脱却には成功したが、世界大戦の終盤に、イギリスやフランスの利権を巡る争いから、これらの国の委託統治領となり分断され、統一国家として独立することはなく現在に至っている。また、イスラエル誕生により、アラブとイスラエルの新たな争いにも発展している。

後年、ロレンスはこのような状態を嘆いていたと言われている。
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Ssaudi5

サウジアラビアの地図

「私は西海岸の
ヤンブ(Yanbu)
に滞在していた」

Ssaudi4a

オスマン帝国が
建設した
ヒジャーズ鉄道の
残骸

(アラビアのロレンス
が率いるアラブ
反乱軍によって
破壊された)

写真は
私とSさん

                      

                 Ssaudi7                             

アカバにて
(車窓からの撮影)

海の彼方に
シナイ半島が
見える

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ヒジャーズ鉄道
の路線図
(ウイキぺディアより)

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2009年6月20日 (土)

セールスプロモーションフェア

大阪産業創造館でセールスプロモーションフェアが開催されていたので、どんな商品やサービスが発表されているか興味があり覘いてみた(6月17日)。

イベントは、「中小企業の“魅せ方・売り方の課題”を解決!」というタイトルで、商品やサービス、企業の真の魅力を正しくアピールしたり、新しい視点で需要を掘り起こせるに役立つ販売促進ツールやサービスについて約17社ほどがプレゼンターとして参加していた。

幾つか目に留まったものを挙げると、

①売上に繋がるホームページ作成術-WEBプロモーション ②消費者のこころを活気と真心でキャッチすることにより商品PRや店頭応援を行うスペシャリスト女性集団
③パワーポイントの機能を究極的に活用し僅か3分で忘れられない会社として
アピールするもの ④AISAS時代において、メディアの原点を声として、音と映像で呼びかけ、人が声で伝えるもの ⑤デザインを重視した企業案内やビデオの作成 
⑥写真を基に作成する3D・PVR(Panorama Virtual Reality)により製品や
サービスに臨場感を与えるもの

等々、色んなものがあった。モノやサービスが飽和状態になって来た現代、販売促進の技術や手法が進化せざるを得ないことになって来たことをひしひしと感じる。

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2009年6月19日 (金)

高松丸亀町商店街の視察 

先日、東大阪商工会議所主催の高松丸亀町商店街 視察会に参加した。
東大阪市民会館前を午前8時に貸切バスで出発。総勢30人。好天に恵まれ有意義な一日であった。

高松市は人口42万人の都市で、都心には2つのデパートと約800の専門店で構成された8つの商店街があり、この丸亀町商店街は位置的に、その中心にある高松のメインストリートである。

この丸亀町商店街は、高松城築城とともに開発された古い商店街であり、400年の歴史を持つ。後年、丸亀城の廃城に際し丸亀の商人がこの地に移りこみ、これに伴い町名が丸亀町と改名されたという。
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そもそも丸亀町商店街の再開発の検討が始まったのは、昭和58年、鹿庭前理事長の発案により「100年後を目指した街づくり」の必要性が叫ばれた時からだという。しかし当時の丸亀町は通行量が休日3.5万人、平日2万人と、まだまだ全盛期とも言える時代であった。なぜこのようなまだ繁栄していた時期に将来の危機を感じたのか?それには青年会を中心にまとめられた次のような答申が影響を与えたという。

①物販に特化し過ぎた丸亀町が今後、100年間、市民の支持を受け続けることは困難である。②物販以外の機能も充実する必要がある。、例えば市民広場、公園、イベントホール、駐車場、休憩施設、公衆トイレ、レストラン等の飲食機能、生鮮市場または食品スーパー、ホームセンター等の生活雑貨店、マンション等の居住施設、交通の利便さ、等の生活空間を設ける必要がある。③モノを買うだけの街から時間消費型の街に作り替えることが必要である。

これらを実現することにより、将来、郊外の巨大SC(ショッピングセンター)などに対して十分競争力を持てるという結論に達し、この答申に基づき昭和59年から街づくり事業を開始した。開始にあたり全国の商店街の失敗例を勉強したという。

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高松丸亀商店街は延長約470m。これをA~G街区に区分し、全体の方針と各街区ごとの街づくりの方針を合意して整備を進めることにし、平成18年、ようやくA街区が竣工したばかりだ。

同商店街再開発の特徴と言えるのは、所有権と使用権の分離だ。地権者の全員による定期借地契約によって所有者の権利を保全するが、適正なゾーニングとテナントミックス(業種構成改善)を行うので、その使用に関しては、地権者であっても現状位置にこだわらず、テナントとしてゾーニングに従ってもらうということだ。これにより商店街の最も大きな障害(ゾーニングとテナントミックス)を取り除くことができたという。

この原則を貫徹するため、出店者による共同出資会社設立、また街全体のタウンマネジメント会社として、第3セクター「高松丸亀町まちづくり㈱」を設立し、運営受託している。第3セクターの設立に際しては、他地域での第3セクター方式の失敗を鑑み、行政の出資は極く僅かに止め、行政からの口出しを封じているのが特徴だ。あくまで民間主導だ。

ところで昭和63年の本四架橋・児島坂出ルート開通を契機として、長い間、社会経済的に無風状態であった四国における流通を取り巻く環境は、特に平成7年以降一変した。物流体制を整えた大手流通チェーンによる郊外大型店立地が加速し、当商店街もダメージを受けたが、先行した再開発事業のお蔭で何とか苦境を切り抜けたという。そして、現在、リニューアルした街区は年間売上が約3倍に、通行量は2割増加している。

最後に、高松丸亀商店街振興組合の古川理事長が強調されていたことは、他の地域にも当てはまることでもあるので下記に記しておきたい:

大型SCは強力である。このまま何もせずに街を放置すれば、日本の中都市は、大型SCに地域を荒らされて必ず死んでしまう。
そのようなことが生じないように、商店街の皆が、お客様のニーズを捉えて、全てを大型SCの所為にせず、自らが行って来た過去を反省して、自ら立ち上がらなければならない。そして、全ての面で自給自足できる地域づくりを目指し、そこに生まれ暮らしたことを幸せであり、誇りであると感じながら一生を終えることのできるような地域にしたい!

印象的な言葉である。

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高松丸亀町
商店街
A街区

平日であるが
人通りはかなり
あり賑やか

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古川理事長
の説明を聴く

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高松丸亀町
商店街A街区

ドーム
(歴史的な都市
の結節点である
札の辻を現代に
蘇らせたもの)

                                                         

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2009年6月13日 (土)

私のブログの本が完成

ココログ出版に注文していた自分のブログ記事の製本が完了し送られてきた。
なかなかいい出来映えだ。安価なので校正とかが十分というわけにはいかないが、ほぼ満足している。

前の記事に書いた様に、いままで、ネット上にある自分の記事が自分の元にあるという安心感を与えてくれるのが一番だ。

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2009年6月12日 (金)

出石(いずし)・但馬の美しい町

先日、兵庫県朝来市和田山町にある、日本のマチュピチュ・竹田城へ行った時、少し足を伸ばして豊岡市出石(いずし)を訪れた。
出石は「古事記」「日本書紀」にも登場する古い町だ。このような山間に、これほど美しい町があるとは期待していなかっただけに喜びはひとしおだ。

そもそも、出石へ行った目的は、出石皿そばが有名であると聞いていたので、一度それを食べに行こうというわけであった。タクシーの運転手さんの推薦で「甚兵衛」という店に入る。中庭のある綺麗な店で、写真のように白地の小皿に盛られたそばを、タクシーの運転手さんも一緒になって頂く。10皿程度食べるのが普通だというので、皆な10皿ほど頂いた。

なぜ出石にそばがあるのか?ということだが、出石藩主が交代した時、信州上田の仙石氏が、信州からそば職人を連れてやってきたからだ。今では約50軒の皿そば屋が並んでいる。

町並みは非常に美しい。出石の観光案内図には“但馬の小京都”と書かれているが、確かにそのような町の佇まいだ。

辰鼓楼(時計台)、家老屋敷、石川五右衛門を捕らえたといわれる仙石権兵衛を祀る社、近畿最古の芝居小屋、酒蔵、桂小五郎が当地で潜伏していたといわれる廣江屋跡(荒物屋)など、歴史的に興味を惹くものが沢山あった。

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<出石皿そば>

白地の小皿に
盛られたそばが
新鮮で美しく
映る


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<出石の町並み>

山の麓に山城である
出石城跡がある。

中央に見える櫓は
出石のシンボル的な
存在である辰鼓楼。

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出石家老屋敷

江戸時代の
三大お家騒動の
あった仙石左京の
屋敷がここにあった。

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2009年6月10日 (水)

吉持製作所のブログ記事に掲載頂きました

日頃、お付き合い頂いている吉持製作所の代表取締役社長・吉持さんが、大阪府産業デザインセンターのBMB(ビジネスマッチングブログ)で、私のことも記載頂いているブログがあったので紹介させて頂きます。

このブログは4月末、吉持さんからの依頼で、堺刃物素形材研究所さんを紹介させて頂いた時の記事です。

尚、吉持さんは異業種交流会・フォーラムアイの代表をされており、昨年放映された、関西テレビのドキュメント番組 「ものをつくる人々-生野から世界ブランドへの挑戦-」に出演されました。その時の私のブログ→ここをクリック

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吉持製作所

ヘラ絞り製品は生活用品、工業製品等に多岐にわたって利用されています。
弊社では、長年にわたってダウンライトの反射板を得意としてきましたが、最近はお客様の多様化でさまざまな製品を手がけております。

  • 試作、数量の少ない加工もいたします。
  • アルミ加工が得意です。
  • 外径20ミリから400ミリまで加工いたします。
  • http://yosimoti.com
[吉持製作所のブログページへ行く]
堺刃物研究所へ、お邪魔しました。
  2009/05/01 19:00
投稿者: yoshimoti 

八木先生の仲介で、堺刃物研究所へお邪魔しました!




先日、八木先生の仲介で堺刃物研究所の高田様の所に、お邪魔いたしました。
うちもステンレスの切削の時の超硬のもろさに泣いておりましたら、

BMBの八木先生のページを読んでいると新素材が開発されたと書いてあるので
興味深く読むと、 BMB仲間の堺刃物研究所というところと分かり

八木先生に仲介をお願いしました。 同じく刃物で問題を抱えている友人と
お伺いしましたが、すぐに、問題解決とはならないようですが、

これからの高田さんの研究に期待する次第です!
高田さんもBMBに入っておられますが、 まだ、BMBの初心者といったところでしょうか?

これからは、オフ会にも参加して下さるようですから、 また、お目にかかれる機会も
増えることでしょう!

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2009年6月 8日 (月)

大阪・鶴橋の活性化と情報発信/鶴橋・スーク

大阪・鶴橋と言えば、キムチや焼き肉で有名だ。。
この街で、鶴橋の活性化のために頑張っておられる方がいる。「まるひ食品」という食品の卸売業を営んでおられる石本俊治さんだ。私が大阪商工会議所の経営相談員をしていた時、訪れたのが契機となって、今でも、鶴橋近辺に来た時は時々立ち寄らせてもらっている。

石本さんの店は、昔は加工工場もあったが、現在は、寿司屋、仕出屋、割烹向けの仕入専門である。しかし、一般客用の商品も扱っている。店には全国から仕入れた食材が陳列されているが、その中には、岩塩とか湯布院のジャムとかの珍しい商品もある。

同氏は仕事の傍ら、鶴橋の活性化のために活動されており、現在、鶴橋市場・商店街の再開発のための再開発協議会の理事などをされている。鶴橋の将来のためにご自分の時間を割いて活動されている元気なお姿を見て私は元気を頂いている。

また、ご自分でパソコンとかネットの勉強をされており、その知識は玄人肌だ。私など時々、お会いする毎に最近のネット関係の動向について教えてもらったりしている。
そのような石本さんであるから、鶴橋からの情報発信については以前から注力されており、最近では、今年に入って「鶴橋・スーク」というブログを立ち上げられた。スークとはアラビア語で市場の意味である。

その中に、興味を惹く二つの記事があったのでご紹介する。いずれも石本さんのブログからの引用である。

S1_2

ひとつは、大阪芸大が卒業制作ロケに鶴橋にやってきた記事。
完成したら、日本だけでなく、海外のコンクールにも応募するという。

詳細はここをクリック

 

   S2_2                                                                 もう一つは、アメリカ領事館職員5名が鶴橋の視察にやって来たという記事。
大西市議を中心とした日米友好議員連盟の市議、等総勢20名が、「大阪らしさの生の姿を見る」という目的で鶴橋を訪れたとのこと。この時、石本さんが案内役を引き受けられた。

詳細はここをクリック

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2009年6月 4日 (木)

竹田城・天空の城

6月初日、兵庫県朝来市和田山町にある、かねてからの念願であった竹田城へ家内と一緒に出かけた。福知山線和田山駅で播但線に乗り換え一駅で竹田へ。そこからタクシーに乗り約10分で城跡に到着。

期待していた以上の素晴らしい絶景であった。城そのものはなく、あくまでも城跡であるが、好天に恵まれて、今まで見たことのない素晴らしい風景を満喫できた。さすが“日本のマチュピチュ”と比喩されるだけあって、写真で見たペルー・インカ帝国の遺跡“マチュピチュ”に非常によく似ていた。澄み渡った青い空、素朴な石垣と周囲の木々の緑、背後に見える青々とした山並みとの美しい調和は筆舌に尽くしがたい。

標高354Mの古城山の山頂に築かれた南北400M、東西100Mに広がる縄張りは広大で、そこから下界の景色を眺めていても飽きない。石垣の脇に紫色のアザミがけなげに咲いている姿が可愛い。

竹田城は冬季の晴れた日、山麓を流れる円山川からの朝霧に包まれた姿が有名で、天空の城という異名を持ち、この時が最も美しいと言われているが、今回訪問した、6月始めの好天に恵まれたこの季節においても、それに劣らず美しいと感じた。

竹田城の歴史については、以前のブログで一度述べたが、但馬の守護大名・山名宗全が、播磨、丹波、但馬の国境近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で築城したものである。その後、山名氏の被官・太田垣氏が5代にわたって城主となったが、織田信長の命令による秀吉の但馬征伐で1580年、落城した。更にその後、羽柴秀長、赤松広秀が城主となったが、関が原の合戦後、廃城となった。

尚、最後に、竹田城は日本100名城のひとつであるということを付け加えておきたい。

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竹田城跡
遠景

Simg_1030

天守閣
を望む

Simg_1036

天守閣
からの眺め

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2009年6月 1日 (月)

文化が街を活かす

大阪・天神橋筋商店連合会会長の土居年樹さんは、今年の年頭所感で、「文化が街を活かす」というタイトルで次のように述べられている。
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水が呑みたくなって井戸を掘るような愚はやめ、前を向く積極姿勢の商人、江戸時代の商人訓「利は義の和なり」を貫くほんまもんの商人が勝つ時代背景を創ることが今の社会に必要なことかも知れません。

「文明が文化を駆逐する時代」に「街は文化の宝庫である」という思いを持ち続けて30年、商店街(天神橋筋商店街)の活性化に励んできた成果物として、上方落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」が完成した(平成18年)のも天満が持つ文化を掘り起こした結果であります。「芸能文化が商店街の活性化に貢献する」と考えた人は少ないでしよう。

芸能文化はお金を生まないものだという観念があるものですが、このことを逆手にとったのがこの事業です。1)上方落語会の若手芸人が活性化され、2)商店街(天神橋筋)の来街者が増え、3)大阪に齎す経済効果が116億円(1年目)、4)天神さんとその周辺が活気づいてくる。このようなことを誰が予測したでしよう。

このことを踏まえ私が感じたことが3つあります。ひとつは人の和(桂三枝さん、天満宮の寺井宮司、私・土居)の人間関係が功を奏したこと。二つ目は地の利、往年は天満宮の周辺に八軒の小屋があり、そのひとつでも取り戻そうとする執念が多くの人々に感動を与えたこと。そして、最後は時の運。落語ブームが復活しNHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」が始まり一気に落語が日本中に広まったこと。・・・・・改めて人間関係の大切さを思い知らされたものです。この教訓を大切に精進したいものです。
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土居さんの述べられていることで感動したのは、「文明が文化を駆逐する時代」に「街は文化の宝庫である」という思いを持ち続けてこられたことである。文明と文化はどのように違うか?広辞苑によれば、文明と文化とは同義に用いられることも多いが、「文明」が技術的発展のニュアンスが強いのに対し、「文化」は人間の精神的生活にかかわるものである、とある。
文明という名において、科学技術の進歩が必ずしも人間の幸福に結びつかず、また人間の生活を無味乾燥なものにし、また人間同士のいたわりの気持ちを少なくさせていることを否定できないことは悲しいことである。この悪い意味での文明の暴走に歯止めをかけるのは文化なのであろう。そういった意味で文化が切り捨てられないように我々は行政のやることが正しいものかどうかを常に監視する必要がある。

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2009年5月30日 (土)

和歌を通じて歴史を想う

最近、古来の日本文化を知りたいと言う気持ちに加え、記憶力を維持しようと始めたばかりのひとつに小倉百人一首の暗記がある。この百人一首は、撰者・藤原定家の小倉山荘(京都奥嵯峨の別荘)の障子(ふすま)の色紙に書かれていたと言われることより、このように呼ばれているという。

さて、歌の内容を見ると、勅撰集別には古今集や新古今集が多く、また、部立(ぶだて)(分類)別には恋や秋などの季節の歌が圧倒的に多い。離別や羇旅(きりょ)(旅のこと)、雑(その他)の歌は非常に少ない。これは色紙和歌として、ふすまに張られるものであったことから、多分に装飾的な美しさを生み出したものが選ばれたことが原因らしい。
さて、百人一首の歌を眺めていて、しみじみと感じる歌があった。
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ひとつは、羇旅(きりょ)に属する次の歌である。

「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」
(海原の多くの島々をめざして漕ぎ出していったと、都にいる恋しいあの人に伝えておくれ、漁師のつり舟よ)

これは、小野篁(おののたかむら)の歌である。漢詩文で名声高く、21歳で文章生になった。後、遣唐副使になったが、遣唐大使と争って乗船せず勅命に違反したとして、隠岐の国に流罪となった。この歌は、その時の孤独感と都の人への思慕の情のせつなさを訴えた歌である。
余談であるが、遣唐使は630年に始まり894年に中止されるまでの間、18回派遣されたが、無事に渡れたのは12回だったという。このように遭難が多かったわけは、船の構造がよくなかったことと、気象学といったものがなく、出発の日は陰陽師が占いで決め、その日の天候の良し悪しにかかわらず出航していたこと、にあるそうだ。そのような危険な渡航を小野篁は嫌って乗船を拒絶したのだと言われている。

もうひとつは、雑に属する次の歌である。

「ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
(宮中の、古びた軒端(のきば)のしのぶ草を見るにつけても やはりしのびきれない(栄えていた)昔の御代(みよ)であることよ)

これは、順徳院・第84代の天皇の歌である。後鳥羽天皇第3皇子。承久の変によって譲位、佐渡に流された。承久の変というのは、後鳥羽上皇が、源実朝の死後、鎌倉幕府討幕計画を進めたが、幕府軍に敗れた乱である。その結果、朝廷の力は衰え、北条氏執権体制が進展した。このような中、佐渡に流された順徳上皇が栄えていた昔をなつかしみ朝廷の現在の衰微を嘆いている歌である。8年ほど前、佐渡を訪れた時、順徳上皇の真野御陵(火葬塚)というものがあったことが想いされた。当時はこの歌の存在を知らなかったが、知っていたならば、もっと感傷にひたることができたと思われてならない。

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これらの歌を詠むと、昔も今と同じような人間模様が起きていたということであり、変わらぬ人の世の浮き沈みと情が感じられる。

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2009年5月24日 (日)

新型インフルエンザへの我々の対応

大阪、神戸での新型インフルエンザの発生に対応して、学校や保育所が一時的に休みとなったが、5月23日頃にはインフルエンザ患者が減少方向に転じたとして学校などの休校処置が解除された。

先週の大阪は異常な雰囲気であった。電車に乗っている人、街を歩いている人、殆ど、80%程度の人がマスクをかけていた。話によれば、ニューヨークなどでは、マスクをしている人は非常に少ないということだ。なぜ日本人はこのようにマスクをしている人が多いのであろうか?

これには我々日本人の2つの国民性が関係しているように思われる。
ひとつには、日本人の清潔を好む国民性である。風呂好きがその例である。江戸時代、日本にやってきた外国人が日本人の清潔好きに感心している様子が当時の文献に見られる。

もうひとつは、集団活動が得意な?日本人の国民性である。もっとも、感染しないための安全処置としてマスクをすることは悪いことではないが、日本人は、西欧人と異なり、団体行動をすることには抵抗感がない。逆にあまり個人行動をすると変人扱いをされる社会である。

今回の新型インフルエンザへの対応についても、役所や学校からの指示には皆、忠実に従う。これはいいことだ。しかし、ひとりだけマスクをしないと常識人として扱われなくなる、との意識があることも働いているように思われる。私にも残念ながら同じ日本人として、このような面があることは否定できない。

しかし、付和雷同という言葉があるが、自分自身の見解を持つことも大切だ。今回のインフルエンザ対策に対しては、どちらかと言えばよい方向に向ったと思われるが、政治・経済問題などでは、我々は自分自身で正しく判断した意見を持つことにより、マスコミや政治家の刹那的な、その場限りの論評や政策(例えば、選挙対策から出た思いつきのバラマキ政策など)に惑わされず、長期的な観点から、我が国の未来を見据えて適切かどうかを判断し、間違った流れに流されないように注意しなければならない。

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2009年5月23日 (土)

仁張工作所 多様な顧客ニーズに応える箱物板金加工

先日、東大阪市にある㈱仁張工作所を訪問させて頂いた。訪問の目的は以前から同社の優れた経営スタイルが多くのメディアで紹介されているのを見て、一度、現地にお伺いし、直接お話を聞かせて頂こうと思ったからである。因みに同社は、中小企業白書に“優良企業事例企業”として紹介されたり、東大阪商工会議所「優良企業表彰」受賞など、数々の栄誉に輝いている。また、2008年には経済産業省「知的資産経営の開示ガイドライン」に基づく“知的資産経営報告書”を発行している。

同社の誕生は、1964年10月1日、折りしも東海道新幹線が開通した日である。金庫製作メーカーに勤めておられた先代社長(現会長)が独立して創業。1974年に法人化。その後現社長の仁張正之さんが引継ぎ、組織つくりに着手。以後、改善提案制度の導入やマーケットイン志向の経営スタイルなどを採用し、経営改革を図って来られた。

大量生産ラインを抱える大手メーカーでは採算が合わず、小さな町工場では技術的に難しい別注スチール家具のニッチ市場で、こだわりのモノづくりを通して培った技術力とコスト対応力を発揮し、日夜、新たな進化に挑み続けてきた。そして、顧客の多様なニーズに応えて、郵便局の仕訳棚、消防署の防火ロッカーなど、特色ある製品を手がけ、最近では、自社オリジナル製品である貴重品ロッカー、スポーツロッカー、スチール家具等を開発し、インターネットを通じて販売されている。

同社は事業領域として、あくまでも板金加工主体に事業を行っていく方針で、受注生産以外の自社製品の販売にも注力している。自社製品は顧客から特注で開発した製品の中から一般にもニーズがあると思われるものを選び、自社ブランドとして進化させ、自社ホームページ上で紹介し、販売している。SEO対策を重視していることもあり、ホームページのアクセスは千件/日を超え、ホームページを通じた受注は現在15%にも上る。

同社がこのように多様な顧客ニーズに応えられる背景には、優れた生産体制とそれを支える品質管理の裏づけがある。生産面について言えば、提案、設計、切断、プレス、組立、塗装、仕上げ、完成までを多品種変量体制の下、一貫体制で行っている。また、同社は完成品を提供できるメーカーである。
これは東大阪の企業間ネットワークに支えられている。

例えば、博物館などでよく見かける展示ケースの場合(下記の写真)、同社が保有しないフローガラスや機密性を維持するためのゴムパッキン、蛍光灯、など、他社による供給と協力に支えられている。

品質管理面では、2001年より、小集団活動をスタートさせ、改善提案制度の導入、QC7つ道具の駆使などにより、QC活動を活発に行って来た。改善提案は年間1000件にも上る。これらの効果は金額に換算し評価している。

同社は、その他、環境対策にも注力。エコアクション21を取得、毎年、環境活動レポートを作成している。また、65歳までの継続雇用を促進、これにより古参社員から若手社員への職人的技能の伝承にも役立てている。

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  同社の製品
「展示ケース」

              

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社長の
仁張さん 

Simg_1017_2

QC活動の

状況を示す

掲示板

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2009年5月20日 (水)

まいど1号成功に至る苦労話

先日、日本品質管理学界の集まりで、東大阪宇宙開発協同組合・専務理事の棚橋秀行さんの講演を聴いた。棚橋さんは当組合の理事長もされていた(初代の理事長は青木豊彦さん)。棚橋さんは現在、棚橋電機の2代目社長である。まだお若い。自らを体育系と自称されているだけあって、講演もお上手で迫力があった。

東大阪市の製造業は、東大阪市が合併によってできた頃には約1万社あったが、現在は6500社と減少している。そもそも東大阪市で人工衛星の話が持ち上がったのは、このような退潮傾向を止めるため、中小企業の活性化と次代の若者の育成を図ることであったが、順調には行かなかったらしい。とにかく人工衛星を打ち上げると言う理念には賛成する者が多いが、いざお金が絡むと話がややこしくなるという。13社でスタートしたこの事業は、少しずつ脱落し、最終的に残った6社だったという。この6社の協力で何とか苦難を切り抜けて来たという。

Sohla2_earth_base_2 そして苦しい次代、特に支えられたのは若者が労苦を惜しまず協力してくれた姿だったという。利害を超越した学生達の協力。これがなければ今日の成功はなかった、と述べておられた棚橋さんの言葉には実感がこもっていた。棚橋さんは好きな言葉として次の言葉を挙げられていた。


「百忍千鍛事遂全(百を忍び、千回鍛えれば、物事は遂に全うすることができる)、これはトヨタの前身、豊田織機創業者・豊田佐吉の言葉だそうだ。心に響くいい言葉だ。

因みに、東大阪宇宙開発協同組合は理念として、「夢で始まり、情熱を結集し、こころ豊かな社会を創る」を掲げて頑張っておられる。写真は同組合のHPより引用させて頂きました。

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みかんの花咲く丘

6月始めに予定されている小学校6年生のクラス同窓会の打合わせをブティックのお店を経営されているYさん宅で行った。落ち着いて重厚な感じのする雰囲気の店だった。

私がつくった同窓会進行の原案を基に幹事4人で打ち合わせた。適当なところで懐かしい歌を唄うことを提案したところ、女性陣から、最初の乾杯の音頭の後に校歌を唄おうということになり、まず決定。しかし小学校の校歌なんて誰も覚えていないので、どうしようかということになったが、メロディと若干の歌詞はO君が覚えていたので、同窓会当日、O君が歌唱指導をすることに決定。歌詞の方はインターネットで検索すると載っていたので、懐かしい校舎の写真をスキャナーで読み込んだものに歌詞を入れることにした。

次にパーティの最後の方で唄う歌について、小学校の校長先生を長らくやって来た女性のEさんから“みかんの花咲く丘”がいいという提案があり、満場一致で決定した。この“みかんの花咲く丘”は確かに我々の小さい時によく聴いたものだ。
Kokoronoutamikanumi
あとで調べたことだが、この歌は終戦直後に生まれた歌で(1946年、作詞:加藤省吾、作詞:海沼寛、歌手:川田正子さん)、終戦直後に生まれた日本を代表する童謡の一つとして歌い継がれてきた。私もこの歌を聴くと、小学校に入る前の頃、四国の多度津の海辺の丘で塩田風景を眺めながら散歩している時、姉がこの歌を唄っていた光景を思い出す。

もうひとつ現代風な歌として私の方で、松任谷由実さんの“卒業写真”を選ぶことにした。歌というのは皆で懐かしい思いを共有できるところが素晴らしい。

下記に添付の写真は私にとって“みかんの花咲く丘”という歌の思い出の原風景に類似していますので、「こころのうた」より引用させて頂きました。

みかんの花咲く丘の歌詞:

一  みかんの花が 咲いている
   思い出の道 丘の道

  はるかに見える 青い海
  お船が遠く かすんでる

二  黒い煙を はきながら
   お船は どこへ行くのでしょう
   波に揺られて 島のかげ
   汽笛がぼうと 鳴りました

三  何時か来た丘 母さんと
   一緒にながめた あの島よ
   今日も一人で 見ていると
   やさしい母さん 思われる

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2009年5月15日 (金)

大企業の社会的責任

この不況下、中小企業の倒産が相次いでいる。景気回復の兆しが今年の末頃には見えるだろうという見通しもあるが、それを待たずしての倒産である。

特に自動車産業関連の部品をつくっている中小企業の経営は厳しいようだ。例えばトヨタ依存度の高い名古屋地区や東大阪などの中小企業は厳しいようだ。このような部品メーカーが倒産によって消えていくことは、そのまま日本のものつくり基盤の低下につながる。

かっての良識ある大企業は、協力会社である中小企業の協力があってこそ自分の会社も存在するのだという謙虚な態度を持ち合わせていた。しかし最近は、そのように中小企業を守ろうと言う意識が希薄になって来ているようだ。自社がお世話になった中小企業が倒産するのを見捨てず、何らかの支援の手を差し伸べるのが大企業の社会的責任である。

日本が独自に築き上げてきた、人間性尊重に基づく日本的な経営を棄て、アメリカ的な企業改革に安易に取り組んで来た結果がこれである。グローバリズム、行き過ぎた自由主義の蔓延の下、かっては世界的に見れば比較的平等で階級差の少ない社会であった我が国は、最近、格差が拡大している。これにより日本の競争力の源泉であった「現場力」や「労使協調」、「協力会社との一心同体」というような日本的経営の特徴が失われつつあることは残念だ。この流れをできるだけ早く断ち切って、我が国に合った企業経営を取り戻さなければならない。

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2009年5月11日 (月)

仲間との共同出版の準備

昨年末から仲間と進めている共同出版の企画が、世話人のSさんを始めとする方々の献身的なご尽力により、順調に進行している。そもそもこの書籍の目的は、中小企業の皆様の経営に何らかのお役に立って頂こうと始めたもので、既存の書籍とは若干異なる視点で、経営者の方に、今後経営に必要なものが何かを気づいて頂こうというものである。

多人数による共同出版は大変だ。思想の統一、経験の違いの克服、等。
先日、会合があり、第2回目の読み合わせがあった。皆様の出来具合はまずます。因みに私は、「なぜ今、日本的品質管理が必要なのか?」というタイトルで執筆中。3月末より書き始め、この程、大まかな輪郭が完成した。6月末までの原稿締切期限まで更に推敲の予定。

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ブログ記事の製本

ブログを書き始めてから2年を経過した。1年目の時、今までの記事を製本化し、それからも1年ごとに製本にしようと思っていたのであるが、忙しかったこともあり、今まで来た。今年は時間的余裕も出来たので、製本化を思い立ち、昨日、製品サービスについて調べて見た。

ブログの製本サービスについては、各プロバイダーが行っているが、私の場合、ニフティのココログでブログを書いているので、やはりニフティにお世話になろうと思い、ニフティのホームページを見るとココログ出版というのがあった。

ココログ出版の内容を見ると、全てネットで注文できるようになっており、製本にする記事の期間、表紙デザイン、印刷色(カラー 又はモノクロ)、目次の有無、文字組/記事ごとの改ページの有無、写真掲載の有無、引用した他のライターの記事の掲載の有無、しおりの有無、等、ある程度細かに設定できるようになっていた。早速、設定を完了し注文。

後日、見積と確認用PDFが送られてくるので、それを見て正式に注文することになるが、出来上がってくるのが楽しみだ。価格はそんなに高くない。

ブログを書いていると、やはりネットには情報があるが、自分の手元には情報が残っていないので少々不安になる。そのような意味で製本化は自分の元に情報を集めるという満足感を充足してくれる。また、私の場合は、あくまで自分が書いてきた歴史を残しておきたいという気持ち、もうひとつは過去に書いた記事を再利用したい時に利用したい、という2点が叶えられるのでありがたい。人によっては、製本したものを親しい人に贈呈するとか、仕事のPRのために使用する、等の方法があると思う。

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2009年5月 5日 (火)

金剛山・千早城跡へ

5月1日、かねてからの念願であった千早赤坂村を訪れ、金剛山登山と千早城跡等の見学を家内と共に楽しんだ。南海電鉄のガイド案内には一般向けと家族向けの二つのルートがあったが、先ず最初は楽な方ということで家族向けルートを選ぶ。

南海線河内長野駅からバスで40分、徒歩10分のところで金剛山ロープウエイに乗る。乗車時間6分で山上へ。大阪湾の眺望が素晴らしい。そこから約1.5KM緩やかな山道を歩く。途中、ブナ林の壮大な眺め等を楽しむ。約50分で国見城跡へ到着。そこには先に到着した多くの登山者がいた。若い人、年配の人様々だ。夫婦、男性だけのグループ、女性だけのグループなど色んな人たちがいた。

ここは金剛山の山頂で標高1125M、奈良県御所市と大阪府千早赤坂村との境界にある。「国見」という名前は、摂津・河内・和泉の3国を眺められるという意味で付けられた名前らしい。山上には5月始めが見ごろという金剛桜の木があり、二分咲きの状態であった。この桜は日光東照宮にもあると誰かが言っているのが聴こえた。

Simg下山は、国見城跡から千早赤坂城跡まで2.2KM、そこから金剛登山口バス乗り場まで0.7KM.で、殆どのルートが階段となっているので、山登りには不慣れな我々には辛い道のりであった。何人もの人に追い抜かれる。しかし、神々しい森の雰囲気や小鳥のさえずり(鶯など)、すみれ等の高山植物を楽しみながら念願の千早赤坂城跡に到着。南北朝の武将・楠正成が築いた千早城に思いを馳せる。城自体はないがその後に千早城址の碑が立っている。若いカップルに出会う。日本の名城100選を訪れることを趣味にしているそうだ。

楠正成については土橋治重氏「大儀に生きた武将の実像 楠正成」等の小説を読んだことがあり、かすかに覚えている物語の情景を思い浮かべる。帰途、バスで駅へ向う途中に観心寺というお寺があった。あとで調べると、この寺は正成の菩提寺で、少年期を過ごした記録が残っているそうだ。

ところで今回の金剛山登山?(ハイキングといった方が正しい)で、幾人かの登山者とお話しする機会があった。登山する人は良い人ばかりの様だ。金剛山は初めてだったので行き先を確かめるために道を聞いたことがきっかけだ。皆さんいずれも金剛山登山のベテランであった。最初に道を尋ねた男性は700回、次に道を尋ねた女性は900回、最後の男性は1000回、金剛山に登ったという。もともとは健康のために始めたが、登っている内に楽しみになり、やめられなくなったという。仲間も出来競い合うことでますます刺激を受け元気に登っておられる。Simg_2962_2

金剛山の登山者数は富士山と争うほどであるらしい。健康登山、回数登山の山として有名だ。金剛山練成会というものがあり(立派なホームページもある)、入会するとスタンプ帖をくれ、登山毎に捺印してくれる。また、登山回数100回、1000回・・・と表彰制度がある。最高1万回という人もいるということで驚きだ。これだと毎日登山しても25年以上を要する。

Simg_0999

「千早城址」
その昔、
南朝側の武将楠正成が
急峻な地形を利用した城で
戦った場所

Simg_0992

金剛山練成会
登山回数捺印所

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2009年4月30日 (木)

一風堂  ラーメン屋業界のカリスマ

先日、”ラーメン屋業界のカリスマ”と称されている一風堂の店が大阪梅田にもあると家内が言うので一緒に行ってきた。阪急メンズ館裏にこの店がある。昼時だったこともあるが、入り口は順番を待つ客の列だ。

一風堂は河原成美氏がつくった店である。ラーメン屋と言えばなんとなくダサくおっさんが行く店というイメージしか湧かないが、女性でも気軽に入れるラーメン屋を、と考え
つくったのが一風堂であるらしい。客の4割が女性だと聞いていたが、実際そうであった。

人気の秘密は味だけでなく、店の雰囲気を大切にしていることだ。味が大切なのはいうまでもないが、”店は舞台だ”という河原氏の信条に基づいているそうだ。店の者は、演劇人とした振る舞い客にサービスを提供するべきだということだ。同氏には演劇を志した時代があったと聞く。演劇という芸術をラーメン屋の世界にも取り入れたということだ。確かに店の人は表情豊かでてきぱきと働いておられた。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

Simg_0890

一風堂
梅田店

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2009年4月28日 (火)

匠の技を持つお二人の対談

先日、匠の技をお持ちのお二人が一同に会す場面を設定させて頂いた。
お一人は㈱小西金型工学社長の小西智實雄さん。
もう一人は仏師(仏像彫刻師)山田国行さん。

小西さんは金型製造の権威であられる。若い頃、九州から大阪に出て来られ幾つかの会社で金型技術の修業をされた後、現在の㈱小西金型工学を設立された。自動車の車体、電器製品、精密機器、更には造花などをつくる種々の金型を作って来られた。一方、山田さんは奈良仏師の系譜をひくお父さんの技を継承する2代目で、工芸高校を卒業後、仏像彫刻に従事され、主として金剛力士像、大国天像など、約1200体から1500体の修復を手がけて来られた。

そもそも今回、お二人がお会いすることになったのは、小西さんの息子さんで小西金型工学の取締役をされている小西修史さんが、昨年行われた大阪府異業種グループ交流促進協議会主催の異業種交流会「事業化交流マッチング」に参加された時に、コーディネーターの一人として出席していた私と小西修史さんが同じグループのテーブルでご一緒したご縁による。その時、色々と熱心に質問される小西さんの会社に私が興味を覚え、後日、訪問させて頂いた。

その時、お父さんの小西智實雄さんがご専門の金型とは別に、仏像彫刻のご趣味があるとお聞きしたので、そのことであれば私が山田さんという仏師さんを知っていますよ、とお伝えすると、それでは是非山田さんを紹介して欲しいという話があり、今回の対談となったもの。尚、小西さんは趣味の彫刻を活かし、寺院等へ彫刻物を寄付しておられる。

お二人のお話は仏像彫刻に関するかなり専門的な内容に踏み込んだものであり、私自身理解できない点もあったが、仏像と金型とは「彫る」という点では共通点があり、切削工具や切削刃のこと、仏像修復後の色調整、材料の割れ対策、等について、意見交換をされていた。

また、”熟練の域”においては、手加減=力の微妙な入れ方や作業するタイミング、等、言葉や文章では言い表されないものがあり、それらは体で覚えるしかない、という共通認識を持たれていることも印象に残った。更には仏像にしろ、金型にしろ、依頼人(顧客)への責任を果さなければならないと思うと、眠れない時もあるという思いも語って頂いたが、匠にもそういった側面があるのだなあと改めて感じた。

余談だが、この不況下、大黒さんの注文が多いと山田さんが言われたのを受けて、小西さんが、不況の時は大黒さんにお祈りをする人が多いからですよ、と言われていたが、早く景気回復の兆しが見えて欲しいものだと思った。

仏師 山田さんに関する以前のブログは→ここをクリック
(注)山田さんのお名前は正式には「國行」だが同氏のブログでは「国行」を用いておられるのでこれに従った。

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山田さん(左)
小西さん(右)

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2009年4月26日 (日)

「大阪の教科書 大阪検定公式テキスト」を読んで

大阪商工会議所からのFAXで、「なにわなんでも大阪検定」と称した受験案内が来た。最近、各地で「ご当地検定」が行われるようになったが、大阪でも行われるという。そして公式テキストとして、「創元社編集部編 橋本紳也監修 大阪の教科書」というのがあり、出題は主としてそこから出されるという。

この検定試験を私自身、今更受けるつもりはないが、歴史や文化といった書籍には大いに興味があるので、購入して通読してみた。なかなか良い本である。大阪人として、我々が住んでいる大阪のことについて広く知っておく必要がある常識的なことが網羅されていて大変勉強になる。

よく外国人とのコミュニケーションにおいて、日本人が外国人から信頼・尊敬されるには、外国のことよりも日本のことをまず知っておくことが必要であると言われるが、同様なことが日本国内において、他府県の人とのコミュニケーションについても言える。江戸時代、上方文化を生み出し、また、学問面でも、産業面でも日本の発展に大いに尽くした大阪の地盤が低下している折、郷土愛といっては大げさだが、大阪の真の姿を知らしめることが必要でないか。吉本興業のお笑いも必要だが、それだけが大阪だと思われるようなことは避けなければならない。

そういった意味で、この書籍の監修者・橋本紳也氏が、序言で、実に上手く次の様に述べられていることに大阪人として大変共鳴した。

・・・たとえばテレビのワイドショーやバラエティ番組をみれば良い。しばしば大阪人が、笑い者として晒される。この街で成功した人でさえ、自虐的に大阪をほめることが少なくない。それが「愛情の裏返し」であり、ユーモアの範疇であれば許せるが、度を過ぎると腹立たしくもなる。東京のメディアが求める典型的な大阪像、すなわち、お笑い・こなもの・阪神タイガースに象徴される大衆的で親しみやすい都市像を、私たち自ら増幅して来た。それも確かに大阪の一面だろう。41wgctev9bl__ss500_しかし大阪の個性は、より多様であるはずだ・・・・・・・

ということで、大阪の方にも、あるいは他府県の方にも、大阪の真の姿を知って頂くためにお薦めできる本である。教科書と聞いたとき、”堅苦しい”という反面、”わかりやすい”という響きがあると思うが、この本には堅苦しさを感じない。気楽に読める本である。また辞書的に、その都度、必要な時に読めるという利点もある。

さて、内容だが、大阪のことば、歴史、文化、経済などを含みながらも、食文化や街歩き、芸術・娯楽、スポーツ、等を網羅している。また巻末には「大阪」に関する参考文献があるの大変役に立つ。

因みに第一回の大阪検定試験は本年6月21日(日)に開催される。詳細は大阪商工会議所にお尋ね下さい。

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2009年4月24日 (金)

㈱丸十 精密板金加工の先端を行く会社

先日、兵庫県加古川市にある ㈱丸十さん を訪問した。同社は鉄、アルミ、ステンレス等の精密板金の先端を行く会社である。同社とのご縁は、昨年末、異業種交流促進協議会主催の「事業化交流マッチング」という会合に、同社がプレゼンターとして参加された時、私がプレゼン後の同社を中心としたグループ討議のコーディネーターを勤めさせて頂いたことにある。

JR加古川駅で営業徳賀さんと待ち合わせ、車で北へ20分、農村風景が続く中に、センスの良い美しい本社兼工場があった。松尾社長の出迎えを受ける。同社は1931年、松尾清市鎌製作所として創業、1972年、㈱丸十として法人化し現在に至っている。従業員70名、平均年齢35歳という若さ溢れた会社だ。

2005年、新工場完成を契機として、第3の創業と称し「伝統原点!使って喜ばれる超精密板金」をスローガンとして頑張っておられる。社訓の中に、信用を重んじ誠実を尽くし・・・、勤労を喜び和をもって社員の幸福を築く、という言葉があるが、3代目である松尾社長はこの精神を受け継いでおられる。工場を歩いて驚かされるのは、中小企業としては広い工場エリアに整然として並んだ生産システムとそこで働く人達の明るい表情だ。社訓と照らし合わせて見て成る程と思わせるものがあった。

同社は板金加工が専門であるが、板金加工のみならず、メッキ・塗装、組立・配線まで対応可能であるというのがセールスポイントで、受注後、図面・金型の検討→NCプログラム作成→抜き→曲げ→溶接→塗装・メッキ→組立→検査→出荷、という一貫生産を行っている。同社が誇る設備は、3次元CAD/CAMシステム、レーザー機、プレス機、溶接機、レーザーQCシステム等、多種多様だ。それらの設備によって作られる製品は、ETC用車両検知器、高速道通行券発行機、自動販売機、医療機器関連機器、物流装置関連機器等、多種多様で、約70社との取引実績がある。

良き製品を供給するために日夜努力されており、今回の工場見学においても、工程の改善活動が現場で行われている様子をお見受けした(写真)。また、顧客からのクレームや社内不適合については、発生後、30分以内に通報すると共に、2日以内にグループ長が対策書を作成し社長に提出しなければならないというルールを徹底している、等品質管理が徹底している様だ。

最後に、同社は、インターンシップや地域祭りへの参加、等、地域への貢献も積極的におこなっており、地元に愛される会社として存在しているとお見受けした。

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明るい事務所

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整然とした工場と

改善活動の状況
を示す掲示板

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2009年4月20日 (月)

北海道旭川市での森林再生NPO活動

北海道旭川市で森林再生のNPO活動をされている陣内さんという方のブログを時々拝見する。陣内さんはマイミクの一人だ。

私の住む大阪府箕面市にも森林があるので、かねてから森林の間伐には興味があったこともあり、昨年、mixiで陣内さんの活動を知った。

お会いして直接お聴きしたことはないのだが、ブログを拝見していると、森林間伐活動と地元産業(観光も含む)との結びつきを考えて、長期的なビジョンで北海道をよくしようと考えられているようで、感心させられる。

先日、「薪とり」といタイトルで、間伐作業の様子を記されていたのでご紹介する。
下記の写真は陣内さんのブログの写真を借用したもの。

詳細は→ブログ名:どろんこ&森の日記

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間伐作業

 

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2009年4月19日 (日)

不況の今こそ内部固めを

今年4月より、公的な仕事はひとまずやめ、フリーな立場で中小企業の方のお役に立とうと活動を始めた。この不況下で何とか苦境を耐え景気回復を待ちわびている企業が多い。

過去、大阪商工会議所、大阪産業振興機構(中小企業支援センター)の経営相談員として知り合った企業を中心として話を聞いているが、この不況下で何とか以前と変わらぬ程度の受注を確保している企業もあれば、雇用調整助成金をもらいながら、生産を調整しつつ雇用を維持している企業もある。

このような企業に対し、不況を逆にチャンスと見て、組織を立て直したり、経営基盤を強化したりするために利用すべきだとアドバイスしている。そして私自身、そのための支援をボランティア的に行うことを申し出ている。現在、O社、S社、K社については、早速、近日中に経営基盤のための活動のお手伝いを始めることを決めた。

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2009年4月15日 (水)

小学校同窓会の幹事

今年から小学校クラス会の同窓会幹事を引き受けることになり、6月初めの同窓会に向けて準備をしている。幹事は男性陣2人、女性陣2人で、一応私が主幹事を務めさせて頂いている。

我々は○○年、堺市にある堺市立浜寺小学校を卒業した6年1組に属し、56人のクラスである。卒業以来、歴代の幹事さんのお世話で時々クラス会を開いているが、私自身は、就職後、関東地方での勤務が長く、出席する時間的余裕がなかったので、殆ど出席できなかった。

大阪に戻って来てからは、前々回のクラス会ぐらいから出席し、前回のクラス会で幹事を代わって欲しいという話があったので、喜んで引き受けた。そして前回、皆年をとって来たので2年に一度、クラス会を開こうということになり、今回の開催となった。

56名クラスの同窓会であるが、前回は22人の出席であった。友人に聞くと、小学校の同窓会でこれくらいの人が集まるのは驚きであると言っていたが、彼の場合、小学校の同窓会などは開催されたことがなく、皆、どこでどのように暮らしているか全くわからないと言っていたので、我々は恵まれたいるのだと思った。同窓会が継続して開催されるには、世話役の存在が不可欠だ。

皆に楽しんでもらい満足してもらおうと務めるのが幹事の役目である。場所は、従来、堺市内でやっていたが、今回は大阪難波の法善寺横町の近くにフェローズというパーティ専門の店があったので、そこに決める。遠来からの参加者にとって便利だと思ったからだ。カラオケ付で、プロジェクター設備もある。懐かしい写真や現在小学校周辺がどのように変化しているかを写そうと思っている。

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2009年4月12日 (日)

サラエヴォの思い出

先日、長い間整理しないで放置していた写真を整理しようと思い立った。30数年の間、後からアルバムに整理しようと箱の中に放り込んでいたのだが、何回かの引越しの途中でなくなってしまったものもある。

30歳代の半ばから41歳の頃まで、会社で海外プロジェクト部というところに所属し、主として中近東、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、イラク、更には中国やインドネシアなどへ仕事の関係で行った。

とりわけ思い出深いのは、最初に携わったアラブ首長国連邦、アブダビでの電化プロジェクトの国際入札の仕事であった。入札の準備のためアブダビでの現地調査を終え、ジョイントベンチャー(企業合弁)の候補の一つであったユーゴスラビアのエネルゴインベスト社という会社を訪問した。同社の本社はサラエボ(サラエヴォ=Sarajevo)にあった。

S商事のA氏と一緒に、アブダビからローマをへて首都ベオグラードへ、そこで一泊し、国内航空でサラエボへ向った。サラエボは静かで落ち着いた美しい街であった。初対面のエネルゴイインベスト社の方は女性を含む7人程のメンバーで、日本から来た我々を遠来の客として歓迎してくれ、夕食にも招いてくれた。

静かな雰囲気が漂う洒落たレストランであった。サラエボは多民族、多宗教(イスラム、カトリック、正教徒、など)の街であるが、当時はそれぞれのアイデンティティを維持しながらも仲良く暮らしていたのだと思う。我々を歓迎してくれた人も色々な民族、宗教を背景に持つ人達であったのであろう。

アブダビでの国際入札の結果は競合が厳しく落札しなかったので、エネルゴインベスト社の人々とは、その後会う機会がなくなったのので淋しく思っている。

サラエボで撮影した写真が幾つかあったはずなので、先日も探して見たがやはり見つからなかった。非常に残念だ。唯一サラエボの思い出として形として残っているのは、サラエボの街の土産物屋で買った飾り皿だ(添付写真)。この飾り皿を見るたびに街の様子を思い出す。

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ところで、ユーゴスラビアという国名は現在、存在しない。当時の正式な名称は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国であった。東欧共産主義国家のひとつであったが、カリスマ性とバランス感覚を有したチトー(ティトー)大統領の下で、ソ連とは一線を画し、ネールインド首相等と共に非同盟運動の指導者として、西側とも友好的に付き合い、独自路線を歩んだ偉大な人物であった。人間実のある社会主義者であった。私が訪れたのは、ティトーは1980年に亡くなっているが、ほぼ同じ頃であったように思う。

ティトー亡き後、この国は多民族・多宗教国家ゆえの問題を抱え、紛争が続発。1991年に発生した紛争後、スロバニア、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、セルビア(コソボ)、モンテネグロ、マケドニアの7~8カ国に分離したことは皆様ご存知の通りである。

バルカン半島に位置した他民族国家、ユーゴスラビアのサラエボ。その歴史は15世紀のオスマントルコに遡る。サラエボの呼称はトルコ語の「宮殿」を意味する言葉を語源としているらしい。1914年のオーストラリア帝位継承者の暗殺事件を契機として第一次世界大戦が引き起こされた「サラエボ事件」の街として有名だ。また1984年には冬季オリンピックの会場ともなった。

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思いでの
飾り皿

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現在の

ボスニア・ヘルツエゴビナ
の首都

サラエボ

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2009年4月 7日 (火)

ほんのりした温かみを感じる母と子の話

4月4日の朝日新聞の「声」欄に久保さんという35歳の主婦の方の投稿文が掲載されていた。それを読んでほんのりとした温かみを感じた。

やさしいお母さんとその愛情の下で健全な成長を遂げていく子供の姿を見た。
現代は親子の断絶を助長するような社会環境に満ちているが、日常の少しの心がけ次第で、このようないたわりあう親子関係が維持されていくのではないかと思った。

以下は朝日新聞の記事である。
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「男3人、子育て大変でも幸せ」

夕食の後片づけをしていると、8歳の長男が「ぼく、女の子の方がよかった?」と聞いてきました。努めて明るく振る舞っているようでしたが、その表情は不安げに揺れていたので「何いうとん。男も女も関係ないよ。お母さんは、あんたがほしかったんよ」といって、ぎゅっと抱きしめました。

私には3人の男の子がいます。次男は5歳、三男は1歳。外出先でバタバタしている私達の姿に、見知らぬ人から「大変ね!」「女の子が1人ほしかったわね!」と、しばしば同情的にいわれます。その度に相手に合わせて、あまり考えず、「そうですね!」と答えていました。

この言葉に、長男は傷ついていたようです。その夜、深く反省した私は、これからこう答えようと決めました。「確かに大変ですけど、とっても幸せです」。そして、私の手足にまとわりついて寝ている子供たちを順番にまた、ぎゅっと抱きしめました。

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2009年4月 4日 (土)

自然とお客が集まる大衆居酒屋

大阪難波、千日前1丁目。千日前通り北に位置し、相合橋筋に沿ったところにこの店がある。店の名は「正宗屋」。大衆居酒屋だ。

この店には時々、大学時代からの友人某氏に誘われて来る。最初、誘われて来た時は、難波にしては人通りが少なく、少し暗い感じのする通りにあるこの店に入る気にならず、もっと賑やかな通りにある洒落た店に行こうと抵抗を試みたが、この店は美味しいものが沢山揃っているので是非、と彼が譲らないので、やむを得ず店に入った。そしてその後、何度か、彼と会う時はこの店を愛用している。

昨日もその友人と難波高島屋の入り口で待ち合わせた後、この店に入った。この店は、毎回来るごとに思うのだが、いつも満員で活気に満ちている。それも席を確保するのが難しいくらいなのだ。店の外観とは少し異なり、店内は明るく、6人程の店の人がいて、忙しく働いている。

なぜこのように人気があるのか? と昨日、改めて考えてみた。まず、注文した食べ物の味が本物であることがわかる。とにかく美味い、心がこもっている・手を抜いていない、新鮮でしっかりとした食材を使っている、ということは食べ物に素人の私でもわかる。いわゆる製造業でいう品質管理が徹底していているのだ。また店の人のサービスが良い。注文してからの時間が短い。しかもメニューが豊富である。

このような店であるから、口コミで人が集まることは十分に理解できる。特にPRしなくても自然と人が集まる・お客が探してでも行く飲食の要だ。まさに日本的品質管理のキーワードである「品質第一」だ。すなわち、品質を第一に考えていれば、いつかはお客にその気持ちが伝わり、お客を呼ぶのだ。

因みに昨日、店の人に聞くと、この店にも一応ホームページがあるというので帰宅後見てみた。簡素なホームページではあるが、そこには、「美味しい・安い・早い」をモットーとしていますという言葉があった。偽らざる真実であると思った。

余談だが、いつもこの店に一緒に行く友人は、名前を言えば、その業界では誰でも知っている会社の元専務である。そのような彼ではあるが、現役時代にも、一個人として名前を明かさず、この店によく来たという。私は、彼とは大学時代、ボランティア活動をしていた時知り合った仲間だ。

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これも余談だが、この店がある場所は、昔、坂町と呼ばれていた。江戸時代、京都の伏見から最初、玉造に移住してきた人が、「伏見坂町」と命名し、その後江戸時代中期、現在の地に移住、「元伏見坂町」となり、更に前を省略して「坂町」に、更に「阪町」となったそうである。その後行政区画の変更が頻繁に行われ、坂町や阪町という名前は消えていった。

現在、阪町という名前を継承し、「阪町屋」という、大阪千日前で、小さな旧家で雑貨店(とんぼ工房・手作り雑貨)を営んいる女性の方がおられる様なので、ご覧下さい。私もいつか訪問したい。

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正宗屋

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2009年4月 3日 (金)

不況の今こそ、社員のアイデアを集め全社一丸の経営を

先々月、産業情報化新聞社「日本一明るい経済新聞」の竹原編集長さんにお会いした。

その時、この不況の時代に中小企業として、何をしておけばよいと思いますか、という質問を頂いたので、不況の時こそ社員のアイデアを集めた全社一丸となった取組が必要です、お答えした。

下記は、その時の様子を伝える記事です。

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2009年
2月号
第1面

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私に関する
記事

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人を考課するむつかしさ

企業における人事評価制度において、人が他人を評価する難しさについては管理者の皆様はよく実感されていると思う。

私も会社に勤めていた時、管理職として部下を評価することの困難さを味わったものである。また同僚の管理職が、自分のことを棚上げして、感情的に、自分の趣味を全面に出して随分恣意的に部下を評価している現実を見てきた。

先日、仲間同士の研究集団であるSAVS支援センターの会合で、H氏が発表された「やさしい考課制度の作り方」は、同氏の中小企業支援の豊富な経験に基づいて考え抜かれた独創的なものであり共感を覚えた。

同氏によれば、人事考課を難しくしているのは、「能力考課」とその「考課基準」であり、「能力」よりも「働き」をストレートに評価できる方法がよい、と提唱されている。

そして、中小企業においては、「やさしい、なっとくの考課」が相応しいのではないかと、すなわち結局は感情の問題があるので、被評価者が「自分で判断」する方法が良く、当人が約束した「働き」を評価の対象にすればよいということである。

具体的には、「能力考課」を廃して、「業績考課」を採用すること。その内訳は、成績評価とプロセス考課より構成されている。そして、これは絶対評価であるから、当然ながら部門間調整は行わない。プロセス考課とは、業績に至るプロセスはどうであったか、を問うもので、責任性や協調性などを含む。

====================
この世の中、行き過ぎた成果主義が横行し、そのために社内がぎすぎすした雰囲気になり問題となった企業や問題となっている企業も多いと思うが、日本的経営の良さである協働意識を再度見つめなおすという観点から、この考課制度は一考の余地があると思うものである。

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2009年4月 1日 (水)

オーストラリア紀行(その2)

前回からの続き

世界遺産・土ボタル洞窟は、土ホタル(みみずのような生き物)が暗闇の中で明るく輝き幻想的だ。その辺りの空を眺めると南十字星が非常にはっきりと認められた。南十字星がオーストラリア国旗の一部を構成していることを始めて知る。

シドニーは、1770年、オーストラリアの歴史が始まった都市である。ミセスマッコリーズポイントで一行全員で記念撮影。ここは、オペラハウスとハーバーブリッジを望む展望スポットである。軍港も隣接している。オペラハウスは1973年完成したシドニーのシンボルである。海に浮かぶ帆船をイメージしてデザインされた姿は素晴らしい。外観の美しさと構造的強度に工夫が施されているという点が特徴らしい。オーストラリア人は、この建築物を大変誇りにしている。

シドニーで案内頂いた中尾さんという女性の方のご主人はオーストラリア人だ。先祖はマケドニアから移住して来たそうだ。中尾さんは青年の船で20数年前、当地にやって来た。そこでご主人に見初められ、そのまま当地にとどまりガイドをしながら生活している。ご主人との共稼ぎだ。日本には老いた母親がいるので年に一度は日本に帰国されているという。

中尾さんは観光以外にも、オーストラリアの社会生活について色んなことを話してくれた。中でも記憶に残っているのは高速道路の話である。オーストラリアには国を1周する高速道路があるが、全長14、000KM.。通行料は無料。但し途中のサービスステーションのようなサービスは一切ないという簡素なものである。
また、我々が若い頃はオーストラリアの主要な産業は羊毛だと教えられたが、今は鉄鉱石やオパールなどを採掘する鉱業が主力である。因みにオパールの世界シェアは98%にも達する。

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オペラハウス

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オーストラリア紀行(その1)

3月末、初秋のオーストラリアを旅する。今回、向ったのは阪急交通社・トラピックスのツアーで、東海岸のゴールドコーストとシドニー周辺の地域だ。オーストラリアは新しい国なので、歴史的史跡等は少なく、見て回る主な対象は自然である。

ゴールドコーストでは、日中は美しい砂浜の海岸やサーフィンに興じている若者を眺め楽しむ。夜はアウトバック・スペキュラクターというオーストラリア版西部劇の様なショーを見せるところがあり楽しむ。

アウトバック(outback)とは、オーストラリアの内陸部に広がる砂漠を中心とする広大な人工希薄地帯である。ワーナーブラザースが巨額の費用をかけて建設したもので、四方が観客席に囲まれた闘牛場のような劇場で、土は土埃が立たないように特殊な工夫が施されている。そこで見るオーストラリア開拓史の映画は、雷などのシーンも散りばめ、リアル性を感じさせる。ウエスタンミュージックのような哀愁を帯びた歌や乗馬の曲芸などがあり、オージービーフを食べながら、これがオーストラリアだと思った。

花に関しては、オーストラリア原産のものは少ないようだ。殆どが外来種である。名前を忘れたが、橙色の花が唯一の原産だそうだ。

先住民族アポリジニは、約2万年前、東南アジア経由で当地にやって来た。当時は、海面が現在よりも200M近く低く、オーストラリアとは陸続きであったそうだ。大陸が孤立化してからはオーストラリアは乾燥が進んでいる(砂漠化)。

ユーカリの木は乾燥化につれて誕生した。ユーカリの木は乾燥に強い。コアラはユーカリを常食とする。コアラはアポリジニの言葉で「水を飲まない」から名付けられたそうだが、このユーカリの中から水分を含む限られた要素を選んで食べているという。今年のオーストラリアの山火事でコアラが消防員の差し出すペットボトルの水を飲み干している映像が日本でもテレビを通じて映し出されたが、水を飲まないコアラであるが、余程のどが乾いていたのであろう。

ブルーマウンテン国立公園で見たアポリジニの伝説が残る奇岩・スリーシスターズとその辺りの原生林に覆いつくされた景色の美しく壮大な眺めは筆舌に尽くしがたい。ブルーマウンテンの名前の由来は、ユーカリの木から発する油分の粒子に陽光が当たり、プリズム作用を起こして青く見えるのだそうだ。オーストラリアでは森林の3/4はユーカリで覆われている。

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ゴールド
コースト
の海岸

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ブルーマウンテン
3姉妹の奇岩

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コアラ

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2009年3月20日 (金)

ローマ人の物語・ユリウス・カエサル 

私はこのところ、仕事の往復の電車の中でかばんに忍ばせてある塩野七生さんの単行本、「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル」を読むのが楽しみだ。

この物語「ユリウス・カエサル」(我々の時代は学校で、ジュリアス・シーザーと習った)はルビコン以前とルビコン以後に分けられ、それぞれ3冊で全部で6冊ある。今、ルビコン以後を読み始めたところだ。

有名な言葉、「賽(さい)は投げられた!」を発し、民衆派と元老院派の争いの中で、民衆派であるカエサルがガイア戦役を終え、保守派の元老院最終勧告を無視し、国賊と呼ばれるのを覚悟で、自軍とともにルビコン川を越える。

ルビコン川とは、当時のローマとローマ属州との境界線である。当時のローマの国法では、属州勤務を終えてローマに帰る時は、ルビコン川を越える前に軍隊を解体しなければならなかった。この法をカエサルは敢えて破ったのだ。

そしてポンペイウスとの長期に亘る戦いが始まったところを読んでいる。クレオパトラとの出会いは、もう少し後の方だ。

このような物語を読むと、現代政治における、政党間の争いが重なり合って見え、大変興味深い。

塩野七生氏はユリウス・カエサルを大変好意的に捉えている。民衆派と元老院派との争いの中で、私利私欲を抑え民衆派に組し、最終的には強大な権力を手中にして、帝政を樹立した直後、ブルータス等に暗殺されるが・・・・・

カエサルは、随分野蛮な殺戮も行ったが、ガリア戦役などでは敵軍に対しある種の寛容も持ち合わせていたらしいことがわかる。そしてヨーロッパに多大なローマ的文化の痕跡を残した。何しろ壮大なドラマだ。

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2009年3月15日 (日)

経済学者・中谷巌氏「転向」の波紋

現在の内外の経済不況を憂慮し、市場経済至上主義の行き過ぎを批判した書籍「資本主義はなぜ自壊したのか」を発表した中谷巌氏のことについては、前回のブログで紹介し、同氏の主張に共感を覚えたことを述べた。

同書は昨年末発売され、経済書では異例の13万部の部数に達し、ベストセラーを更新中とのことだ。

新聞報道によると今、同氏の著作が経済学者らの間で賛否両論の波紋を広げているという。「日本人の気質に合った日本にふさわしい経済構造の構築を訴えかけている」と好意的に論評している人もあれば、「経済学者ならば、経済学的知見をもって語るべきだと」と中谷氏が欧米の一神教思想との比較論などを持ち出して説明している手法を批判している人もいる。

これに対して、中谷氏は人間は成長と共に意見を変えるものではないか。間違っていたことは率直に認めて改めるべきだ、と言われている。

私もその通りだと思う。そもそも人間の思想などというものは、あらゆる思想を知り尽くした上で選択したものではないわけである。その人が生きていた環境が、たまたまある思想を持っていた人が多い環境であったから、その影響を受けたというようなことが多い。

また、経済学者が経済とは異なった知見を基に説明するということは、何もおかしなことではない。社会的、歴史的、宗教的、等の知見も取り入れて経済を語るべきであろう。経済学と言う狭い領域に閉じこもっているから、金融工学とかいう様なうさんくさいものに感化され、世の中を混乱させる者が出てくるのだと思う。

”過ちては改むるに憚ること勿れ” である。間違ったことは無理に固執することなく、正直に反省することが人間の道である。

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2009年3月14日 (土)

農業のことでタクシー運転手さんから聞いた話

先日、セミナーの講師の仕事を終えて自宅に帰る途中、タクシーに乗った。雨が降っていた。乗車してからお互いに何も話さなかったが、暫くしてから運転手さんから話しかけてきた。

最近、この頃、雨がよく降りますね。野菜を作っているんですが、種を蒔くタイミングが難しく困っているんですよ。

黙って聞いていた私は、肯いて、野菜を作っているんですか? 趣味でやっているんですか?と聞いた。

いいえ、タクシーの運転をしながら、これだけでは足らないので、農業を始めたのですよ。兵庫県の田舎に土地を買って、そこで家内と野菜を作ることにしたんですよ。たいした額にはなりませんが、年金と合わせて何とかやっていけそうで・・・、 個人タクシーなので、適当にタクシーで稼ぎ、週末は農業をやることにしました。

野菜は売れるのですか?と質問すると、みちの駅とかで買ってくれるんですよ。米も作るんですか?という質問に対して、米は作っても安すぎて・・・・

将来的には、近所の農家が無料で土地を貸してくれるので、もっと野菜栽培の範囲を拡大する予定だという。農家の方は、荒地にしておくよりもこの方が農地として維持できるからいいのだという。

このような会話を通じて、運転手さんも生活のために必死に頑張っているんだなあ、という様子が伝わって来た。また農業行政の曖昧さを感じた。

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