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2007年12月

2007年12月29日 (土)

ワーキングプワー

12月16日、NHK番組「世界に広がるワーキングプワー」を見る。日本だけの話ではない。市場経済至上主義の明らかな失敗だ。勝者と敗者の格差が広がっている。

韓国では、勤労貧困層と呼ばれ、名門大学卒業者でも正規社員になれない若者が溢れている。非正規社員率は韓国:55%、日本:33%だ。アメリカでは元ITエンジニアが、インドへの仕事のシフトで失業している。

各国では対策を講じており、その内容が紹介されている。市場原理至上主義の本元、アメリカでも、州によっては弱者に理解のあるところもある、ノースカロライナ州では、バイオテクノロジー産業を振興し、雇用促進の為の人材育成プログラムを作成。母子家庭の母親が懸命にこの制度の下で働いている姿に心を打たれた。イギリスでは、「社会的企業」という良心的な経営者が経営する企業を政府が支援し、このような企業のもとで若者の雇用を支援している。

一方、日本では、国レベル、自治体レベルの取り組みが遅れているようだ。取り組みが進んでいる例として、釧路市の自立支援プログラムがあるが、これとて国からの補助金は僅かで、支援員の新田さんという方が、塾の講師をしながら必死に頑張っている、また、ホームレスの岩井さんという若者が、三鷹市の清掃の仕事をしながら、社会復帰への道を必死で歩んでいる、等の姿を見て厳しい現実を見せ付けられ、痛々しく感じた。

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2007年12月28日 (金)

黒門市場で買い物を楽しむ

年の瀬の12月27日、日本橋にある黒門市場へ家内・娘と一緒に正月用に買出しに行った。大阪に居ながら黒門市場で買い物をするのは初めてだ。午前10時半頃から約2時間ほど買い物を楽しみ家路に着いた。
スーパーとは違って、やはりこのような対面販売の市場は、活気があり、人間的なぬくもりを感じる。新鮮な魚や野菜がところ狭しと置かれているのを見るのも楽しい。

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2007年12月26日 (水)

時代と国境を超えて生き続ける名曲

12月23日、作家、五木寛之さん主宰の番組で、私がまだ若い頃(1960年代の頃?)、良く聴いた「風に吹かれて」「花はどこへ行った」「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」という歌についてのエピソードを聞き、しんみりとした気持ちになった。


「風に吹かれて」は、いわゆる反戦歌である。ピーター・ポール・アンド・マリーによってよく歌われ有名になった歌だが、歌の原作はボブ・ディランである。前者は美声であったが、後者の声は悪声ではないが、憂いに満ちた素朴さを感じさせる声だった。

この歌は、世界的に広がり、ナチスドイツに反抗を呼びかけたドイツの女優兼女性歌手、マレーネ・ディートリッヒにより、「答えは風だけが知っている」というタイトルで、東西ドイツ分断下のドイツで歌われた。更に、お隣の韓国では、朴政権下、学生達が民主化に目覚めないように、堕落した学生街を意図的に作り出した、いわゆる愚民化政策を実施した朴政権への批判を込め、・ユスクにより「波乱に富んだ世の中」というタイトルで歌われた。



一方、「花はどこへ行った」は、これもピーター・ポール・アンド・マリーによって歌われ有名になったが、それ以前も歌われていた。この歌を作ったのは、フォークソングの父、ピート・シガーと彼の仲間との共作である。ピート・シガーはロシアの作家、ショーロフの小説「静かなドン」の中のコザックの子守唄からヒントを得て、この曲を作ったと言われている。

そして、この歌は、やはりピーター・ポール・アンド・マリーの後、ドイツの女性歌手、マレーネ・ディートリッヒによって東西ドイツ分断下のドイツで歌われ、ベルリンの壁で隔てた東ドイツの人々に希望を与え続けたと言われる。
また、フィギュアスケート、サラエボオリンピックの優勝者、カタリーナ・ビット(この時は東ドイツ所属)が、次のオリンピック、リレハンメルオリンピックで、全盛期を過ぎていたにもかかわらず出場し、この「花はどこへ行った」の曲で演技し、サラエボ紛争という悲劇を乗り越え、世界へ平和の必要性を訴えたという。この時、7位に終わったが、会場の観衆からの拍手は鳴り止まなかったと言われる。



「ヘイ ジュード」は、ビートルズの代表的バラードだ。
そして、この歌は、この歌に強い影響を受けたチェコスロバキアの女性歌手、マルタ・クビショヴァーより、1968年のプラハの春の時代(ドプチェク第一書記が政治指導者として活躍していた時代)、「マルタの祈り」という歌と共に民主化運動を鼓舞するために歌われた。当時、マルタは25歳、であった。

しかしその後、ソ連軍のチェコ侵入によってチェコは暗黒の時代に戻った。だが、彼女は初心を忘れず、体制に批判的立場を維持、その後、大統領になった民主化運動指導者ハベル氏を助け、ベルリンの壁崩壊後のビロード革命(1989年)に貢献した。
その当時、学生達がマルタを集会に招いて彼女に「ヘイ ジュード」を歌うよう頼んだと言われている。しかし、長い年月を経ていたのでマルタ自身、その歌の歌詞を忘れていた。だが学生達は言った「忘れていても口ずさんで下さい、歌詞については、僕達が覚えていますから」というエピソードがある。これほどまでに自由を求める人達に忘れずに生き続けて来て、人々の生きる支えとなって来たという歌の存在に感動した。勿論、彼女に信念を守り続けた人間としての魅力があったからだということは言うまでもない。


歌は国境を超えて伝わる不思議な共通語だ。不思議な力を持っている。しかし、全ての歌がその様であるわけではない。やはり作曲者、作詞者の人生における、或いは人間社会に対する深い使命感に満ちたものだけが永遠に生き続けるのだろう。

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2007年12月19日 (水)

関西に多い老舗企業 ~関西企業はもっと自信を持とう!

前回の記事「近江商人に学ぶ」に引き続いて、やはり野村進氏「長寿企業は日本にあり(NHK 知るを楽しむ)」からの内容を紹介しよう。

野村氏によれば、日本は世界的に見て、ずば抜けた老舗大国である。100年程度続いている老舗は1万5千軒、100年以上は3千軒を数える。因みに日本以外では、100年以上続いているのは、中国9軒、インド3軒、統計が異なるが、ドイツでは200年以上が800軒、オランダは200軒である。

製造業に関して言えば、日本においては、創業100年以上の老舗の半数近くが製造業に携わっているとのことだ。

また、日本における老舗の多くは関西を拠点にしている様だ。近年、関東勢に押されがちな関西勢であるが、これらの関西老舗企業の良さを学び、是非とも、もっと元気を出して関東勢を打ち破って欲しいものだ。

関西を拠点とした老舗企業の例を挙げると、
・金剛組(大阪):世界最長寿企業、578年(飛鳥時代創業)。聖徳太子が百済から3人の工匠を招いたそうだが、この中の一人金剛重光が初代社長だ。 ・福田金属箔粉工業:1700年創業(京都) ・西川産業(ふとんの西川):1566年(大阪) ・セロリカNODA:1832年(福岡) ・勇心酒造:1854年(香川) ・林原:1883年(岡山)等である。

野村氏は、なぜ日本には老舗企業が多いか?という疑問に対して、次の理由を挙げている。
①被侵略と内戦の期間が皆無に近かった歴史がある。
②血族よりも継続を重視する価値観が根付いている。
③モノづくりを尊ぶ文化と伝統が存在した。

③について言えば、日本には職人を尊ぶ風土がある。「職人」「職人気質」はむかしながらのほめ言葉だ。中国、韓国、西欧においては、日本に比べれば職人を尊ぶ気風が少ないと言われている。

前回の記事でも触れたが、上記の理由に加えて、老舗企業は近江商人の倫理観「三方よし」を守り、山あり谷ありの経営の試練に堪え、「不義にして富まず」「私欲起こせば家を破壊する」「良品は、声なくして人を呼ぶ」といった家訓に立ち返って、長い風雪に堪えてきたようだ、ということを付け加えておきたい。

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2007年12月16日 (日)

近江商人に学ぶ

前回の記事「企業が社会的責任を果たすためには?」の最後のところで、企業においても、ある程度、会社が大きくなった時は、それ以上大きくすることは、ひとまず一段落させ、少し立ち止まって、製品の品質を上げるとか、職場環境を良くして従業員が働きやすくする、更には社会に利益を還元する、などのことが必要だろう。と記した。

先日、「“長寿企業は日本にあり” 野村進著  NHK 知るを楽しむ 2007年12月号」を読んでいると、老舗企業「勇心酒造」の徳山社長は、「企業が存続するには、大きい倫理と理念が必要」と語っている。

また、日本の老舗企業に広く共有されている倫理観として、近江商人の「三方よし」がある。「売り手よし、買い手よし、世間よし」だ。この中で最も強調されているのは、「世間よし」だ。「世間よし」によって公的な責任が生じる。「会社は株主のもの」というアメリカ主導の市場経済至上主義に対する強烈な批判だ。

老舗企業「林原」の社員によると、研究開発の新しいプランを提案した際、社長が、「それにはいくらぐらいかかるの?」と訊いてくるのは全くないそうだ。問われるのは、「これは、よそではやっていない?」「役にたつものかな?」の2点だけだということだ。

「儲かる」か「世の中の役に立つ」かの2者選択を迫られた時、かならず役立つ方を選んで来た会社や商店が、結局は生き残って「老舗」と呼ばれるようになったようだ、と野村氏は推測されている。成るほどと思われる。

(注:勇心酒造は1854年、安政元年創業。清酒やアトピー患者のための「アトピスマイル」等を製造販売。 ㈱林原は、1883年、明治16年創業。インターフェロン-α抗がん剤、トレハロース等を製造販売)

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2007年12月 9日 (日)

企業が社会的責任を果たすためには?

今年も、企業の不祥事報道や品質不良に関する報道は留まることを知らない。ガス給湯器のパロマ社、建設業界の某社、不二家、ミートホープ、白い恋人の石屋製菓、赤福、等食品メーカーによる偽装、改竄などの不祥事だ。

日本企業の品質の高さは、我が国が世界に誇るもののひとつである。これら不祥事を惹き起こした企業が存在するからといって、日本の誇る「品質の高さという信用」は容易には瓦解はしないと思う。なぜならば、大部分の企業においては、日本人特有の細やかさや、当事者意識の高い従業員に支えられたものづくり文化が現在に至るまでも営々と続いているからである。

不祥事をおこした企業においては、創業者の時代は、自社がつくった製品に対する並々ならぬ品質向上への意欲、お客さんに喜んでもらうものをつくろうという意欲が大層強かったということは言うまでもなかろう。それが2代目、3代目となり、そのような創業時代の家風や、社是が引き継がれず、このような事態が起こってしまったことは残念なことだ。

これらの不祥事の発覚の多くが内部告発によるものだと言われている。そもそも内部告発と言うものが生まれる企業風土が問題である。本来ならば、このような内部告発がおこらないように、社員誰でもが、不正なことに対しては、たとえ相手が社長であっても自由に物が言え、それによって不当な扱いを受けないような雰囲気が必要なのだ。

会社というものは良くも悪くも経営者が持つ「影響力」により、社員の感情、生産性、更には会社の業績までも大きく左右される。
社員から見て信頼できない行動をする経営者、社員に対して高慢で、攻撃的な行動が多い経営者の下では、社員は真面目に働こうとする意欲を失い、また、社長からの攻撃や批判をかわすことに神経を使い、現場の貴重な意見や情報が入らなくなり、イエスマンのみが社長の周囲を取りまき、会社が弱体化する。当然の結果として、品質不良や不祥事が生じる。


今日、朝日新聞の記事「“みやび”の行く末 不安です」の中で、冷泉家当主 冷泉為人さんが述べていた次の言葉が印象に残った。 (冷泉家は藤原俊成、藤原定家の父子を祖にし、和歌の伝統と文化を伝えてきた。「和歌の家」と称される。)

  “京都の旧家で聞いたのですが、「商売でも自分の代でうまくいくのは、せいぜい5、6年。調子に乗って一生もうけようとせず、残りの人生、もうけた分でやっていけ。両手で握ったらあかん。片手は開いたままにして、何かあったら直ぐ別のものを握れるように」と。うわあ!、これはすごい家訓や!と、びっくりしました”

企業においても、ある程度会社が大きくなった時は、それ以上大きくすることは、ひとまず一段落させ、少し立ち止まって、製品の品質を上げるとか、職場環境を良くして従業員が働きやすくする、更には社会に利益を還元する、などのことが必要なのだろう。

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2007年12月 4日 (火)

衣料の夢屋 ~夢が叶えられるお店~

JR大阪環状線桃谷駅の近く、桃谷商店街の直ぐ南に「衣料の夢屋」という昨年7月改装オープンしたばかりの綺麗なお店がある。店主は多田羅友里子さんだ。脱サラしたご主人及びパートナーの方と一緒に元気に頑張っておられる。

彼女は、OSK日本歌劇団の出身だ。OSKと言えば、かっては大阪の春は“春のおどり”からと言われ浪速の風物詩として定着していた。その後、一時活動が停滞したが、現在、New OSK日本歌劇団として復活し、“関西の伝統文化の継承と日本文化の発展に寄与した”ということで文化庁長官特別表彰を受賞している。

このような彼女の経歴を反映して、この店で制作・販売しているのは衣装だ。とりわけ大きいサイズの婦人服や祭衣装、ハッピに注力している。また高齢者用の着やすい衣服も扱っている。いずれもオーダーメイド可能だ。

製作に当たっては、女性であれば誰でも思う「大きいサイズであっても、可愛くおしゃれな服を着たい」という気持ちを尊重すること、また、祭り衣装ではOSK時代の経験を生かして動きやすく且つ華やかな衣装を提供すること、をモットーとしているという。この店に来ればそのような夢が叶えられる。

この他、お店では、「Do it ! ステーション パソコン市民講座」を開催したり、ホームページの制作業務をしている。また、新舞踊教室や浴衣の着付け教室、も開いている。

このような本業の他に、彼女は、地域を活性化するために、生野ニュー踊り実行委員会などのメンバーとして活動するなど、街を元気にする活動にボランティア的に忙しく活動されている。 
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東成・生野ものづくり
フェスタに出展

ご主人と共に

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祭り衣装

大きいサイズ
の服

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パソコン教室

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2007年12月 2日 (日)

アンコールワット訪問記

2007年11月中旬、カンボジアのアンコールワットを訪れた。ハノイから飛行機でシェムリアップ空港に到着。空港は質素な構えだ。入国審査に異常に長い時間を要した。

アンコールワット遺跡群は想像以上に大規模だ。この遺跡群は、1863年に刊行されたフランスの博物学者アンリ・ムーオの旅行記により西欧人の興味を惹き起こしたという。

これらの遺跡群の中で最も名が知れたアンコールワットは12世紀前半にスールヤヴァルマン2世が、ヴィシュヌ神に捧げるために建立したヒンズー寺院を、後に仏教施設に宗旨替えしたものだ。3重の回廊と5基の塔を持つ壮大な姿は目を見張るものがある。回廊周壁にはスールヤヴァルマン2世率いるクメール軍や天女アプサラを描いた精緻なレリーフが絵巻のようにびっしりと刻み込まれている。十字型回廊の南側には千体仏という仏像があるが、1960年代、多くの仏像はクメール・ルージュ(ポルポト軍)により破壊された。

この近くの柱に江戸時代、父の菩提を弔い、老母の後生を願うためにはるばる肥前の国から来た日本人「森本右大夫」の墨書がある。


タプロム寺院は12世紀に建てられた仏教寺院。巨大なガジュマルの木々に回廊が押しつぶされている様子には長い歴史と長い年月の経過を感じる。

遺跡群に通じる参道で傷痍軍人と思われる人達が楽器の演奏をしており、西欧人の女性が布施をしていたのが印象的だった。


帰国後、2007/12/1の朝日新聞の記事の中で、日本人の遺跡修復工事の現場責任者である三輪悟さん(33)が約10年間、カンボジアに滞在し、現地で感謝されているという記事を読み感激した。彼は現地の女性と結婚しカンボジアに根付いた生活をしている。

彼はアンコールワットが世界遺産になったのは良いが、期を同じくして周辺に豪華な外資系ホテルが乱立し、地下水の汚染や地下水の低下が進行、これが遺跡を蝕む原因となることを憂いていた。また、急激な観光化は素朴で暖かいカンボジアらしさを薄れさせるという危険も感じると言っていた。

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アンコールワット

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日本人「森本右大夫」
の墨書

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タプロム寺院を蝕む
巨大なガジュマル
の木々

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傷痍軍人
に布施する
西欧人女性

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2007年12月 1日 (土)

ベトナム訪問記

2007年11月中旬、ハノイ市内のホテルから世界遺産ハロン湾に向かった。バスから眺める街の通勤風景は、まさにオートバイで溢れている。家族揃っての相乗りも見られほほえましい。ここではホンダが多く、ホンダはオートバイの代名詞となっている。

ハロン湾に向かう車窓から見える農村は、田圃で、その中に墓が点在している。土葬の風習があり、3年後掘り返して遺骨を洗うと言うことだ。

ハロン湾は、世界遺産で美しい。観光用のジャンク船(クルーズ船)は約100艘、世界遺産に指定されてから急増した。ヨーロッパ、中国からの観光客も多い。水上生活者が小船で物売りをしている。小さな女の子を連れた母親が小船で物売りに来た。このような生活環境にある子供の姿は痛々しく感じる。

ハノイ市の旧市街は路地が入りこんでおり、魚や肉、野菜を売る店が溢れ、生活感に溢れている。人力車、かごを担いだ農村からの物売り女性の姿も見られた。

ホーチミン市内にある統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)は1975年、人民解放軍により攻撃され降伏した。地下には司令室等がある。敷地内に、人民解放軍が官邸に突入した時に使用したというソ連製の戦車2台が記念に置かれており、当時の戦闘の様子が偲ばれた。

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(写真1)
世界遺産ハロン湾

 ・クルーズ船に
  近づく物売り小船
 

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(写真2)
世界遺産ハロン湾
の美しい眺め

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(写真3)
ハノイの
市場

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(写真4)
ホーチミン市
の通勤風景

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(写真5)
旧南ベトナム
大統領官邸
の屋上から下を
眺めると
南ベトナム解放
戦線のソ連製戦車
が見える。

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