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2008年5月

2008年5月31日 (土)

企業存続のヒント・近江商人の智恵

◆最近、不祥事により社会的信用をなくし、社会から消えていく企業が後を絶たないが、このようなことを避けるには、どのようにすればよいのか? と考えるこの頃である。

◆そのヒントらしいものが、末永國紀著「近江商人」(現代を生き抜くビジネスの指針にあった。
以下は、その書籍からの引用である・・・・・・・

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・全国を商圏とし、天秤棒を担いだ一介の商人から豪商へと成長した近江商人の到達した境地や、会得した極意にふれるには、その遺言こそふさわしい。また、近江商人の

体験の真髄は、成分化された家訓・店則のなかに盛り込まれていることがあり、何気なく伝えられた座談や覚書、書簡等の文言からも汲み取ることができる。

という前書きがあり、下記に続く内容が述べられている(一部抜粋)

天秤棒精神:
もっぱら天秤棒を担いでいた小商人の段階にあった近江商人が、どのような心構えで
いたのか、ということを追憶談として語ったものに、丁吟の初代小林吟右衛門の述懐が

ある。この述懐は、安政元年7月に78歳で没した吟右衛門が亡くなる4ヶ月前に述べた
ものである。

「たとえ天秤棒を担いだ小商人といえども、自分のことばかりでなく、世の中の一員としての自覚を持って、不義理や迷惑をかけないように絶えず周囲や世間の人々のこと を

思いやりながら、労苦を厭わず懸命に働けば、立派に商人として認められ、やがて相当の身代を築くことができるものである・・・・・(中略)・・・・始めから欲にかられて大金を願望しても、無駄であり何の益にもならない」

成功後の述懐といえ、この挿話は、近江商人が小商人の段階からすでに社会の一員としての自覚を持って活動する重要性をわきまえていたことを伝えている。

★近江商人・中村治兵衛宗岸は、晩年、妻と息子に先立たれが、継がせた養嗣子の
宗次郎へ次のような書置をしたためている。

「他国へ麻布などの行商へ出かけるときは、気分よく商品を購入活用してもらうために、まずその土地の人々のことを大切に考えること、自分のことばかり計算して高利を望む

ようなことをしてはならない。日頃から神仏への信心を厚くして欲心を抑え、行商のために他国へ入国する際には、たえず相手のことを思いやる志を持つことが第一で あ る」

この書置は、持下り行商の心得を説き、近江商人の商行為の精髄である「三方よし」
理念の原点となった条文である。

正直な利益と押込め隠居
近江商人・初代中井源左衛門は、勤勉と禁欲を自分に課し、万物の流通調整を通して、社会に貢献したことによって得られた利益は正当な利益であるという信念を持っていた。

これは他の近江商人についても同様であり、従って、このような商人の本分をわきまえず、正当な利益を積み上げて築かれた家産を危うくするような、善人にあらざる行為が

当主にあったと判断された場合は、押込め隠居の手続きをとって、後見人や親族が当主を強制的に隠居させることが家訓でも認められていたし、実際に発動された。

このように、主人を押込め隠居にする大手術が実行されたことは、積み上げられてきた家産は当主が私物として蕩尽してよいものではなく、一種の法人財産視する考え方を

生じていたとの解釈を可能とする。これも江戸時代以来の老舗が、近代企業へ転化しえた一つの要因であろう、と著者の末永國紀氏は述べている。

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◆ところで、船場吉兆が廃業に追い込まれた。
大阪の誇る老舗がなくなっていくことは淋しい限りである。

吉兆の創業は1930年であるから、歴史はそんなに古くはない。老舗と呼ぶにはまだ早いかもしれない。しかし3回にわたって東京サミットで利用され名声を得た。

吉兆の創業者は湯木貞一氏。1991年に事業承継の結果、5社に分かれた。

2007年、その内の一社である船場吉兆が不祥事(賞味期限・産地偽装)を起こし、民事再生法の適用を申請中であったが、最後には料理の使い回しで致命的な傷を負った。

私が思うには、このような事態になった原因は、ひとつには事業の分離が5社にも及び
創業者の遺訓が充分に伝わらなかったこと、もうひとつは、当主の権限が絶対的であり
その独断専行に意見を述べる人間がいなかったことに、尽きるのではないかと・・・・

近江商人の築き上げた「天秤棒精神」や「三方よしの精神」更には「押込め隠居制度」な どが存在していたら、このような事態は避けられたと思うのである。

by yagiyoshiakihttp://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

  

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2008年5月29日 (木)

中小企業総合展 2008 in Kansai

先日、インテックス大阪で開催されている中小企業総合展 2008 in Kansai に行ってきた。

この展示会は経済産業省中小企業庁の傘下にある中小企業基盤整備機構が主催して毎年行われている。

中小基盤整備機構は、中小企業者の事業活動に必要な助言、研修、資金の貸付け、出資、助成及び債務の保証、地域における施設の整備、共済制度の運営等の事業を行い、それにより中小企業者の事業活動の活性化のための基盤の整備を行っている。

今回、参加した中小企業は270社。その他、中小企業の支援機関・支援センターが多数参加している。

参加した企業の中には、音羽電機工業、竹中製作所、穴織カーボン、枚岡合金工具、等私が知っている大阪の企業も出展していたが、他の都道府県からも多くの企業が参加しており盛大だった。

展覧会の特徴として、新連携認定企業コーナー地域資源認定企業コーナーがあり、国の施策に基づいて認定された企業の展示が興味を惹いた。

新連携認定企業コーナーでは、三重県津市のおぼろタオル㈱と岐阜県の浅野撚糸㈱の連携事業体が、「ふっくらと柔らかい」「毛羽落ちが少ない」という相反する消費者ニーズをを両立させた新しいタオル地で、しかも軽くて吸水性を兼ね備えたタオルを展示していた
のが目に付いた。

地域資源認定企業コーナーでは合同会社信州自然村による、健康長寿県・長野県産の生産者の顔が見える「医食同源食」が目に付いた。

同社の展示内容紹介文は次の通り→全て生産者や加工者の顔が見える商品です。今まで培ってきた中小零細企業等40社以上との信頼関係をベースに、長野県産の農水産物を県内の加工所で商品化。農産物の栽培方法や品質にこだわり、添加物も不使用です。
食材に敏感な子育て中の母親、食習慣の改善が必要な中高年、美容や健康に関心の高い女性等にお勧めです。

新連携認定企業にしても、地域資源利用企業認定にしても、今後の中小企業が生きていくためのヒントを与えてくれる制度である。

 やぎ:HPhttp://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

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2008年5月18日 (日)

福嶋晃子選手の復活を喜ぶ

先週のワールドレディスサロンパスでプロ17年の福嶋晃子さんが韓国賞金王で20歳の申智愛(しんじえ)さんとプレーオフの末、今期初優勝。国内ツアー22勝目、
11年ぶりのメジャー(公式戦)制覇を果たした。

また、今週行われたヴァーナルゴルフでも1打差の2位に入り健闘した。

私は、福嶋選手のファンである。先週のワールドレディスサロンパスをテレビで見ていたが、その終盤における福嶋選手と申選手の熾烈な闘いには感激した。

同じホールで繰り反されるプレーオフ。4ホール目まで3度もグリーンをはずしながら必死にパーパットを沈めていく福嶋。そして5ホール目。申選手が1メートルのボギーパットを外し勝利をつかんだ。

試合が終わって、二人がお互いの健闘をたたえあい、抱き合っている姿には大変感動した。ゴルフの試合でこのような光景には殆どお目にかかったことがない。

また、試合後、それぞれがインタビューで相手をほめたたえていたこともスポーツ選手
らしく立派だった。

福嶋選手は、昨年までは持病の腰痛に悩まされたが、最近ようやく回復して来たという。
最近の女子ゴルフは、宮里愛、上田桃子、横峰さくら、等の20歳代の選手が多くを占める中、福嶋は34歳。しかし、まだ老け込む年でない。

今後も頑張ってほしい。

2

健闘をたたえあう
福嶋 選手と
申 選手

1

久しぶりの優勝に
涙ぐむ福嶋選手

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2008年5月16日 (金)

人間成長の条件

柔道の古賀稔彦さんと言えば、1992年のバルセロナピックで、試合前日10日前に大怪我したのにもかかわらず、その苦痛を乗り越えて金メダルを獲得し、当時の日本中の感動を呼んだ人だ。

その後、古賀さんは指導者として日本女子柔道チームの強化コーチを務めるかたわら、子供の人間育成を目的として、町道場「古賀塾」を開設している。コーチとしては、アテネ五輪金メダリスト谷本歩美選手、等を育てている。

その古賀さんを昨日テレビで拝見した。その時、古賀さんが言っておられた中で、2つのことが記憶に残った。

ひとつは、強くなる選手になるために必要なことは何ですか?という質問に対して、古賀さんは、“素直さですね”と簡潔に答えている。

強くなる選手の共通点は、自分の欠点や弱さを素直に認めて、人のアドバイスを取り入れて、直ぐに反省する者らしい。これは当たり前のことかもしれないが、スポーツに限らず、あらゆる分野について言えることであろう。

潜在的な能力を充分もっていながら、頑なに自分の殻に閉じこもり、人のアドバイスを聞かず、従って大成せず消えていった人を多く見てきた。

企業の経営者についても同様なことが言えるようである。自分だけの世界に閉じこもって他人のアドバイスや部下の意見を無視して経営を行っている経営者には、成功した人は非常にまれだ。

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もうひとつは、日本における柔道において、男子と女子では、今後どちらが強くなりますか? という質問に対して、古賀さんは迷わず “女子ですね” と答えている。

その理由は、男子においては、従来は、精神力=根性 を植えつける訓練が大きな役割を果たしてきたが、最近はそのような訓練は、時代逆行的なものとして採用されなくなってきたことが大きな原因らしい。即ち訓練が甘くなったということだ。

また、男子は権威に弱いという悲しい習性を持つ? 例えば、柔道で、白帯の者が黒帯の者と対戦する時、最初から勝てないと思って萎縮してしまう。

ところが女子は、あまり権威というものを意に介さないという。相手が黒帯であろうと、同じ女性同士の戦いという平等な意識で “女の闘い” に臨むということだ。

本当にそうなのかは私には分らないが、これもスポーツの世界に限らず、政治、企業経営の世界においても、最近の男性の“ひ弱さ化”の傾向をみると古賀さんのいうことが、成る程と思われるのである。

従って、男性は、このような不利な環境を自分で克服することが必要だ。

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2008年5月11日 (日)

文化の存在のありがたさ

我々は常日頃、文化的なものに接しているから、文化のありがたさというものにはあまり気づかないでいると思う。しかし一旦、今まであった文化がなくなってしまえば、何か殺伐とした気分になり元気がなくなってしまうと思われる。

そもそも文化とは何か? 
あまり難しく考えないでおこう! 作家・司馬遼太郎さんが、その著「風塵抄」の中で次のように述べている内容がわかりやすい。

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「狭義の文化は・・・・簡単にいえば、習慣・慣習のことである。
 外から家に帰ってくると、ほっとする。家は、自分がつくりあげた、自分だけの文化である。胎児が子宮にいるように、サナギがマユにくるまれているように、心を落ち着かせる。

一民族やその社会で共有される文化を、仮に狭義の文化とする。
 私どもが外国から日本に帰ってくるだけで、釣られた魚が、ふたたび海にもどされたほどの安らぎを覚える。

“文化とは、それにくるまれてやすらぐもの。あるいは楽しいもの” と考えたい。
 以下の広義の文化もかわりはない。

 国が富めば、世界一の交響楽団がやってくる。聴くと、楽しさにつつまれる。印象派の華麗な作品群にかこまれて展覧会場で座っている場合も同じである。広義の文化は、心が高められ、しばしば元気が出る。

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私も、昔、仕事でインドネシアのジャカルタに滞在していた時、文化のありがたさというものについて考えさせられたことがある。

そこには、1ヶ月ほど、滞在していたわけだが、仕事が忙しい時は気にならないが、相手先との交渉で、何日間も相手側の返事を待つために無為に待機しなければならなかったことが何度かあった。

暇を紛らすために、安くプレイできるゴルフ場が近くにあったのでよく行ったが、毎日だと飽きてくる。歴史的なモニュメントとか美術館とかがあればいいのだが、当時のジャカルタには我々日本人を癒してくれるような文化的なものはなかった。

その時、文化のありがたさをひしひしと感じた。

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ところで、現在、大阪府では橋本知事の下、全面的に予算の縮小が検討されている。これについては、私としては、将来の大阪の復興のためにはやむをえないことだと思っている。

しかし、文化的なものまで削減することは危険だ。文化は一度失うと、その再現には膨大な時間を要するだろう。

例えば、現在、その煽りをうけて国際児童文学館(大阪府吹田市)が存亡の危機にある。同館は、手塚治虫文化賞・特別賞に決まっている施設である。

関係者は、「単なる児童文学館ではない。児童文化の総合資料センターだ」と主張し、存続を訴えているが・・・・・・・

また、“中小企業のものづくり支援”などを行う体制があるというのも、大阪の誇る一つの文化なのだが、これを支援する中小企業支援センターについても、同様に存亡の危機にさらされている。

橋本府政は、「文化を消す失政」だけは思いとどまって欲しいものだ。

関連ブログ:橋本府政下における中小企業施策

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2008年5月 6日 (火)

テレビ番組・生野から世界ブランドへの挑戦

先日、関西テレビで、ドキュメント・ものつくる人々「生野から世界ブランドへの挑戦」という番組が放映された。この番組で放映されたのは、生野区のものづくり異業種交流グループ「フォーラム・アイ」の活動についてである。

当日の概要は→関西テレビ ザ・ドキュメント の2008.5.5の記事

このグループの代表幹事をされている吉持製作所の吉持剛志さんとは、今年の3月まで大阪商工会議所 東成・生野支部の経営相談員をしていた関係上、懇意にさせて頂いている。

かなり以前からテレビ局から取材を受けていることをお聞きしていたが、吉持さんのブログでいよいよ放映されることを知った。

番組では、デザイナーの山崎充昭さん、吉持さん等、フォーラム・アイのメンバーが、YOROIという生野ブランドのキャリーバックを制作するために、コラボレーションを重ねて

いく様子が克明に描かれており、ものづくりにあたって、小さな企業が生き残りをかけて
必死に頑張っている様子がひしひしと伝わってきた。

また、モリアス アイアン・ワークスの若手経営者森下徹さんが、お父さんから独立して、レース用自動車用のマフラー開発という、新分野を開拓するために、大阪産業大学等とのコラボを進めている様子も知ることができ大変感動した。

番組では、ものづくりをされている人達の人間的な側面も描かれており、大変工夫
された様子が窺えるのが素晴らしい。

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ところで、製造業を営む中小企業の町といえば、東京都の大田区や東大阪市がよく話題になるが、大阪市の生野・東成区の存在も忘れてはならない。

生野・東成区におけるものづくりの歴史は古く、江戸、明治、大正、昭和を通じてものづくりの拠点としての役割を果たしてきた。ここを拠点として巣立っていった企業も多いと聞く。

最近でも、異業種交流グループ「フォーラム・アイ」が結成されたり、数年前から「東成・生野ものづくりフェスタ」が開催されるなど、ものづくりの振興のための活動が盛んだ。

現在、多くの異業種交流会が存在するが、実際に活発に活動しているのは少ないと
いう話をよく聞く。そのような中で、今回放映された生野区の異業種交流グループ「フォーラム・アイ」の活動は活発だ。

メンバー間の連携が強く、生野を日本のミラノに!というスローガンでイタリアのミラノに視察旅行に出かけたりして、益々発展しつつあるグループだ。

フォーラム・アイのホームページはここをクリック

過去の関連ブログ→へら絞りの吉持製作所

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2008年5月 4日 (日)

司馬遼太郎さん夫人が語る韓国旅行の思い出

私は司馬遼太郎さんの書物を愛読している。龍馬がゆく、坂の上の雲、燃えよ剣、など多くのものを読んだ。また、義父と司馬遼太郎さんが知人の関係であったこともあり、我が家には司馬さんより贈呈された本も多くある。

先日、それらの本の中に読みかけて、しばらく放置しておいたものがあると記憶していたので、探していると、「司馬遼太郎さんと私みどり夫人 追悼の司馬遼太郎」(夕刊フジ・産経新聞社発行)という本があったので、もう一度読んだ見た。

この本の前半は、“福田みどり夫人インタビュー” で司馬さんの奥さんであるみどり夫人が記者のインタビューを受けている記事である。

余談であるが、司馬さんとみどり夫人は、若い頃、産経新聞社で同じ記者の仕事をされていて結ばれた仲である。

さて、司馬さんは、「街道をゆく」という記事を、週刊朝日に、昭和46年から平成8年にかけて書かれており、その取材のための旅行に出かけられていた。

みどり夫人もある時期から「きみがいる方が便利だから、どうしても一緒にい行こう」という司馬さんからの誘いがあり、一緒に行くようになったとのことである。

そして、「一番印象に残っている旅行先はどこですか?」という記者の質問に対して、みどり夫人は次のように答えている。

 「やっぱり昭和46年の春、二人の初めての海外旅行になった韓国かしら。当時の韓国はいまとは全然違いまして、牧歌的な人間のふるさとを二人で一緒に味わいました。

韓国のおじさんたちが野原で歌を歌って、柳絮(りゅうじょ=柳の熟した実から飛び散る綿毛をもった種子のこと)が春の陽光の中で舞っているの・・・・・

そのときに、豊臣秀吉の朝鮮の役(朝鮮では壬辰の倭乱)で朝鮮に降伏した日本人がずっと住んでいる村に行ったんです。本当に農村で、日本語のしゃべれるおじいさんや

おばあさんがいてね。そうしたら、どういうわけだか唐突に涙があふれ出てきてしまって・・・歴史というものが胸にこみ上げてくるような感じでした」

(筆者注):この旅行の様子は、司馬遼太郎 街道をゆく 第2巻 「韓のくに紀行」に
       書かれている。
              訪れた農村は、慶尚北道の慕夏堂(現・友鹿洞)のことである。

              晩年の豊臣秀吉は愚かな侵略戦争をした。この戦争に参加した武将の中に
      沙也可という日本人がおり、上陸後早々朝鮮軍に投じたあと、降倭を率い
      勇猛果敢に日本軍と戦ったとある。彼は秀吉の無意味な戦争に疑問を
      持っていたのであろう。

              戦後、沙也可は朝鮮王に感謝され、官位も与えれれ、土地を賜ったという。
      そして、一族郎党が一村をなし、その子孫が現在に至っているのである。

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昨年6月、韓国旅行をした時の話だ。
水原(スウオン)市にある世界遺産「水原華城」を訪れた時、案内して頂いたギルヨンスク(吉用淑)さんが、ここもかなりの部分が戦争で破壊されたが、地元の人々が協力して復興されたという説明があった。

その時、私は、韓国の歴史を殆ど勉強していなかったので、その戦争って、何という戦争? と質問した。返ってきた答えは「ひでよしの戦争」です、だった。

秀吉の戦争というものが、ちっぽけなものだと思っていた私は、秀吉軍が朝鮮の内陸部深くまで、侵攻し大規模な破壊を行った事実を知って、日本人として恥ずかしさを感じた。

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次回、韓国を訪れる機会があれば、この慕夏堂(現・友鹿洞)という村に行ってみたいと
思った。

写真は吉用淑さん(上)と水原華城(下)

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