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2008年5月 4日 (日)

司馬遼太郎さん夫人が語る韓国旅行の思い出

私は司馬遼太郎さんの書物を愛読している。龍馬がゆく、坂の上の雲、燃えよ剣、など多くのものを読んだ。また、義父と司馬遼太郎さんが知人の関係であったこともあり、我が家には司馬さんより贈呈された本も多くある。

先日、それらの本の中に読みかけて、しばらく放置しておいたものがあると記憶していたので、探していると、「司馬遼太郎さんと私みどり夫人 追悼の司馬遼太郎」(夕刊フジ・産経新聞社発行)という本があったので、もう一度読んだ見た。

この本の前半は、“福田みどり夫人インタビュー” で司馬さんの奥さんであるみどり夫人が記者のインタビューを受けている記事である。

余談であるが、司馬さんとみどり夫人は、若い頃、産経新聞社で同じ記者の仕事をされていて結ばれた仲である。

さて、司馬さんは、「街道をゆく」という記事を、週刊朝日に、昭和46年から平成8年にかけて書かれており、その取材のための旅行に出かけられていた。

みどり夫人もある時期から「きみがいる方が便利だから、どうしても一緒にい行こう」という司馬さんからの誘いがあり、一緒に行くようになったとのことである。

そして、「一番印象に残っている旅行先はどこですか?」という記者の質問に対して、みどり夫人は次のように答えている。

 「やっぱり昭和46年の春、二人の初めての海外旅行になった韓国かしら。当時の韓国はいまとは全然違いまして、牧歌的な人間のふるさとを二人で一緒に味わいました。

韓国のおじさんたちが野原で歌を歌って、柳絮(りゅうじょ=柳の熟した実から飛び散る綿毛をもった種子のこと)が春の陽光の中で舞っているの・・・・・

そのときに、豊臣秀吉の朝鮮の役(朝鮮では壬辰の倭乱)で朝鮮に降伏した日本人がずっと住んでいる村に行ったんです。本当に農村で、日本語のしゃべれるおじいさんや

おばあさんがいてね。そうしたら、どういうわけだか唐突に涙があふれ出てきてしまって・・・歴史というものが胸にこみ上げてくるような感じでした」

(筆者注):この旅行の様子は、司馬遼太郎 街道をゆく 第2巻 「韓のくに紀行」に
       書かれている。
              訪れた農村は、慶尚北道の慕夏堂(現・友鹿洞)のことである。

              晩年の豊臣秀吉は愚かな侵略戦争をした。この戦争に参加した武将の中に
      沙也可という日本人がおり、上陸後早々朝鮮軍に投じたあと、降倭を率い
      勇猛果敢に日本軍と戦ったとある。彼は秀吉の無意味な戦争に疑問を
      持っていたのであろう。

              戦後、沙也可は朝鮮王に感謝され、官位も与えれれ、土地を賜ったという。
      そして、一族郎党が一村をなし、その子孫が現在に至っているのである。

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昨年6月、韓国旅行をした時の話だ。
水原(スウオン)市にある世界遺産「水原華城」を訪れた時、案内して頂いたギルヨンスク(吉用淑)さんが、ここもかなりの部分が戦争で破壊されたが、地元の人々が協力して復興されたという説明があった。

その時、私は、韓国の歴史を殆ど勉強していなかったので、その戦争って、何という戦争? と質問した。返ってきた答えは「ひでよしの戦争」です、だった。

秀吉の戦争というものが、ちっぽけなものだと思っていた私は、秀吉軍が朝鮮の内陸部深くまで、侵攻し大規模な破壊を行った事実を知って、日本人として恥ずかしさを感じた。

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次回、韓国を訪れる機会があれば、この慕夏堂(現・友鹿洞)という村に行ってみたいと
思った。

写真は吉用淑さん(上)と水原華城(下)

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