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2008年7月

2008年7月28日 (月)

大賀ハス

岐阜羽島市にて(2008年7月某日):

岐阜・羽島市の「かんぽの宿」の前にある大賀ハス園。

昭和26年に故大賀一郎博士が千葉県の縄文遺跡発掘現場から発見した3粒の実が、シカゴ大学で世界最古のハスの種と証明された。翌年、その内の一粒が発芽し、
2000年前のハスの花として話題を集めた。

羽島市は昔から蓮根の生産地であったことから、千葉市よりこれを譲り受け増殖した。

暑い夏空の下、淡い薄紅色の神秘的な花びらの色合いが眩しい。→ 写真

最近、我流で始めた和歌です。

    ・大賀ハス鮮やかに咲く羽島の地に 古(いにしえ)のこと今に伝えて   

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大賀ハス園

に咲く
ハスの花

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2008年7月27日 (日)

渋沢栄一が行動規準とした孔子の論語

孔子の「論語」は、今まで、ためになるとは思いながらも、しっかりと味わって読んだことがなかった。味わった読まなかったのは、論語と日常生活或は現代の世の中との間に乖離があり、論語をどのように解釈し理解すればよいかがわからなかったというのが正直な気持ちである。

最近、幾つかの論語に関する書籍を買い求めて読んでいるが、その中のひとつに、竹内均著「渋沢栄一・ 論語の読み方:三笠書房」という書籍がある。

この書籍は、明治の初期に書かれたものだが、現在の世の中においても、なお通用する普遍性を感じさせる。何よりも論語が説く人生訓を、歴史上の人物などの例を挙げてわかりやすく説明しているいところが面白く興味深い。

日本における資本主義的経営を確立したと言われる渋沢栄一は、孔子の「論語」を行動規準にしていた。

現在の日本における資本主義体制の中、ただ金儲けをするだけを目的とし、社会的奉仕・貢献を忘れた経営者が多く垣間見られる中で、渋沢栄一の考えは、現代においてもなお、正しい倫理感をもって経営を行うことの必要性を教えてくれるものであり、新鮮味を感じさせる。

今回、ビジネスに関連した内容の一部をご紹介するが、今後も時々、継続してためになると思われる内容を紹介してゆきたい。
以下はその内容である。

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「論語」は一言一句がすべて実際の日常生活に応用がきく。読めばすぐに実行できるような基本の道理を説いている。これが私が儒教のうちでも特に「論語」を選んで、これを守り実践しようとしている理由である」、

更に、「私が実業界に身を委ねるようになったのは、国力を充実させ、国を富ませるためには、まず農工商、なかでも商工業を盛んにしなければならないと考えていたからである。

そこで、会社をうまく経営するにあたって、いちばん必要な要素は会社を切り回す人材である。人材が得られないならば結局その会社は必ず失敗する。そこで私は、実際の運営に当たる人に、事業上だけでなく一個人として守り行うべき規範・規準がなくてはならないと考えたのである。

このように考える時、日常の心得を具体的に説いた「論語」は、その規準にうってつけで、どう判断してよいか悩む時には「論語」のものさしに照らせば、絶対間違いがないと確信しているのである」

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 子曰く、富と貴とは、これ人の欲するところなり。その道を以ってこれを得ざれば、処(お)らざるなり。貧しきと賤しきとは、これ人の悪(にく)む所なり。その道を以ってこれを得ざれば、去らざるなり。[里仁]

 解釈:富と地位とは万人の欲するところである。しかし、これを得るためにはそれ相当の方法がある。つまり学を修め功を立て、身をつつしみ徳をそなえることだ。富貴そのものはもとより悪いものではなく、青年の目的としてもよいが、これを獲得する手段方法については、慎重な態度が必要である。

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 上の論語の教えの例として、渋沢栄一は次の例を挙げている。

三井家は徳川二代将軍秀忠時代に伊勢国松坂で、三井宗寿という人が呉服屋を始めたが、その頃すでに相応の財産を持っていたらしい。この時代の富豪はもっぱら大名に金を貸して利息を取るのが商売で、これにより利益を得ていたが、宗寿は富豪が金貸しばかりして世を渡るのはよくない、実業をしなければ真の社会奉仕ではないと考えて、呉服屋を開業したそうである。この商売のやり方が、世人の便利を計ることにあったので、大いに繁昌したのだという。「積善の家に余慶あり」という通り、三井家が今日まで繁昌したのは偶然のことではない・・・・と述べ、

次のように結んでいる。
算盤(そろばん)をとって富を図るのは決して悪いことではないが、算盤の基礎を仁義の上においていなければいけない。私は明治6年に役人をやめて、民間で実業に従事してから50年、この信念はいささかも変わらない。あたかもマホメットは片手に剣、片手に経典を振りかざして世界に臨んだように、片手に「論語」、片手に算盤を振りかざして今日に及んでいる。

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2008年7月25日 (金)

加速する「オープンソース化」の流れ

先日、仲間同士の研究会である経営情報研究会で、外部講師として、㈱アシスト 西日本支社 神戸営業所のYさんをお招きし、「オープンソースについて」というタイトルで、講演を頂いた。

Yさんの大変明快なご説明により、オープンソフト化の流れが進行している様子がよく理解できた。

㈱アシストは、コンピュータ用パッケージ・ソフトの販売・技術サポート、教育およびコンサルティングを事業として行って来ており、かってはデータベースソフト「Oracle」等を多く、取り扱って来たが、最近ではマイクロソフト社のマイクロソフトオフィスのオープン化を普及させるべく、オープンソース・ソフトウエアである、OpenOffice.Org のサポートを2007年より開始している。

OpenOffice.Org はワープロ・表計算・プレゼンテーションなどの機能を持つオープンソースの統合オフィス・スイートである。Microsoft office と互換性があるだけでなく、無償で自由に利用することができる。現在、大手企業の一部にこれを利用し始めている企業もあり、いずれは中小企業にも普及していくものと思われる。

近年、OSの分野でLinuxの利用企業が増えてきているが、これと同様な流れが今後、生じるのであろう。

ソフトの業界はマイクロソフトやオラクルという業界の大手が多くのシェアを占め、バージョンアップの度に、ユーザーが買い替えなどにより、不必要と思われるような出費を余儀なくされて来ているが、このようなオープン化の流れはユーザーのために非常に好ましいものだ。

ところで、このアシスト社のことだが、同社は1972年設立、社員数760名、売上高200億円、社長はビル・トッテン氏というアメリカ人である。この方は日本国籍を取得されており、日本人になりきっておられる。日本をこよなく愛し、同社の本社も京都においている。1990年の日米経済摩擦の最中、アメリカの姿勢を厳しく批判したことで有名だ。TBS番組「ブロードキャスター」のコメンテーターを長年務めたので、ご存知の方が多いと思う。

アシスト社の企業理念には次のように記載されている(同社のホームページ参照):
「アシストの使命は、ソフトウエア製品とサービスの提供を通じて、人々や社会の人の役に立つ会社になること」

そしてビル・トッテン氏は更に次のように述べている:

アシストが目標に掲げるのは、マーケット・シェアや四半期ごとの利益目標ではなく、企業活動を通じてお客様のビジネスのお役に立ち、それによって働く人々の生活を豊かにすること。企業は社会に奉仕する存在であってこそ、その価値があると私は考えるからです。

・・・・・・・しかし、決して変わらないものがあります。それは、アシストの「人」を基本とする考え方です。世界がどんなに変わろうとも、また技術がどんなに進歩し、他社との競争が激しくなろうとも、お客様はいつも正直で、誠実で、有能で、思いやりのある「人」と取り引きしたいと思うはずです。ビジネスは常に「人」と「人」の間に成り立つものだからです。

ですから私たちのモットーは、お客様に対して、正直に、誠実に、的確に思いやりをもって接し、行動していくこと。アシストとはこの理念に共鳴する「人」からなる企業であり続けたいと考え、People Assisting Peopleを会社のスローガンに掲げています。

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今回のYさんのご講演も、オープンソース化への流れを通じて、同社が社会に奉仕するという信念が感じられる大変印象的なものであった。

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2008年7月19日 (土)

ある小売商店さんとの雑談

空き店舗が散在し、人通りが少ない閑散とした商店街が各地に見られるようになってから久しい。しかし、商店街の中には、空き店舗などは1軒もなく、各店舗が協力して元気にやっている商店街もある。大切なのは行政に頼らず、自ら現状を克服していこうとする前向きな姿勢だ。

◆数日前、散歩用のトレーニングウエアを買うため、近くの箕面サンプラザというところにあるD店(スポーツ店)へ行った。箕面サンプラザは箕面市が運営しているのだが、今から20数年前に開店した当時は活況を呈していた。

しかし最近は箕面駅前という立地条件が良い場所にあるにもかかわらず、買い物客は少ない。私など時々、散歩の途中に立ち寄ったりするが、人が少ないので気の毒な気がする。

D店の店主さんに店の状況を聞くと、儲かっているわけではないが、何とかやっているという。そのわけを聞くと、以前はスポーツ用品全般を扱っていたが、最近はホームページを立ち上げて、取り扱う商品を野球とアメリカンフットボールの用品に重点を置いているという。

そんなわけで、野球とアメリカンフットボールについては、色んな商品を取り揃えているということで、その専門性が評判を呼び、なじみ客が結構多いという。また、今後のことについては、行政は箱物をつくることはするが、やはり商売の経験がないことでソフト面での発想が乏しい。だから、若い店舗経営者が集まり、自分達の力で現状を打開していこうということで話を進めていると言っていた。やはり、それぞれうまくやっているところは工夫をしているのだ。

◆これも、自ら現状を打開していこうとしている店の例である。
先日、私のホームページを見たからといって、家庭電化製品のチェーン店を経営している某社から電話を頂いた。コンサルテーションをしてくれないかという打診だった。

ホームページを見ると、小さな会社であるが、大手の量販店に対抗して独特の経営スタイルで頑張っておられる様子が窺える。

組織を更に活性化させ会社を発展させるために外部コンサルの力を借りたいということだ。近くテレビ番組でも同社の活躍振りが放映されるという。是非観て見たい。

ところで、本件、コンサルを引き受けるかどうか、何社かに声をかけているとのことであるが、興味があるので仲間と一緒に検討したいと思っている。

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2008年7月16日 (水)

北海道旅行記(抜粋)

洞爺湖サミットと同じ頃、北海道北部を旅行した。その時の旅行記の抜粋である。
阪急旅行者のツアーに参加。総勢31名であった。

・千歳空港からバスで稚内へ向う。日本海オロロラインを北上する。留萌を過ぎるとニシン街道がある。この辺りは昔、鰊(にしん)漁で栄えたという。旧花田家番屋で休憩。ここはニシン漁で働いていた人たちの宿場であった。その様子を描いた壁画が売店にあったが、大変興味深く鑑賞した。

・日本海オロロラインを出発した地点では米作が行われていたが、北上するにつれて牧草地に変わる。牧草地には牧草を刈り取って貯蔵目的のために作ったロールベールラップサイロ(これは牧草を円筒状に巻き、発酵させるためにラップフィルムで覆ったもの。直径2M程度)が置かれていた。

・最近は従来型の施設型サイロは建設費用が嵩むため使われなくなったという。牧草地が地平線の彼方まで続く広々とした風景は、本土から来た私にとっては感動ものだ。

・ここから稚内に至るまで、風力発電のための大風車が沢山設置されていた。
サロベツ原生花園は広大な原野だ。黄色いエゾスカシユリがけなげに咲いていた。サロベツはアイヌ語で、無限大という意味である。

・稚内から連絡船で礼文島へ向う。下船後、花ガイドさんの案内で江戸屋山道花畑を散策する。幸いにも雨が降っていなく、曇り空ながら見通しが良く景色が素晴らしい。ガイドさんの話によると、快晴の日よりはこのような天候の方が花の観賞には良いそうだ。
                                   (写真1)

しかし風が強い。風速10M程度であろうか。礼文島は1年を通じて快晴の日が少なく、概ね曇り空で風が強い日が多いという。エゾニュー、オオハナウド、オオカサモチ、エゾスカシユリ、ハマユウなどの本土では見られない珍しい草花を楽しむ。

花ガイドさんの中には、冬には仕事がないので、民宿などで働いて冬を過ごす人もいるとのことだ。

・利尻島から稚内へ戻る。船内から、昨日姿を見せなかった利尻富士が山頂に雲を抱きながらも見ることができたのは大変幸いであった。

・宗谷岬で全員の記念撮影があった。日本最北端到達証明書をもらう。日本最北端の地に来たという思いにさせられる。ここには、帝政ロシアとの戦いに備えて明治35年に建設された旧海軍望楼や樺太が島であることを確認した間宮林蔵が出港した地を記念した記念碑、1983年の大韓航空撃墜事件での遭難者慰霊のための祈りの塔、などがあった。
                                   (写真2)

・その後、オホーツクラインに沿って進み、オムサロ原生花園、流氷岬を経て網走を通過する。網走刑務所を車窓より見る。高倉健出演の映画の説明を聞きながら。近くのスーパーに入る。お土産で「網走監獄から帰りました」という銘柄のお菓子を売っていた。

・知床五湖と知床連山は美しい眺めだ。水芭蕉を初めて見たのは感激であった。 
                                  (写真3)   

・網走海鮮市場から女満別空港へ向う道は「感動の道」と呼ばれているが、畑作の風景(馬鈴薯、ビート、小麦、などを栽培している)は非常に美しく、感動の道と呼ばれるにふさわしかった。

備考:フォトアルバム「北海道旅行記」も併せてご覧下さい。

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(写真1)
礼文島

花ガイドさん
の案内で花畑
を楽しむ

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(写真2)

宗谷岬

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(写真3)

知床五個
より知床連山
を眺める

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2008年7月 3日 (木)

大阪名物「くいだおれ」間もなく閉店

昨日、ニュースで、大阪名物「くいだおれ」が間もなく閉店(7月8日)すると伝えていた。
私も大阪人の一人として、なごりを惜しむ気持ちに駆られた。

今日、外出のついでに「くいだおれ太郎」を見に行った。店の前は、「くいだおれ」の最後を見ようと大勢の人があふれており、写真に収めている人も多くいた。また、店の予約は閉店までいっぱいの様であった。

さて、「くいだおれ」であるが、創業者・山田六郎の意向により家族経営であり、支店などは存在しない。山田六郎の遺言には「支店を出すな」「家族で経営せよ」「看板人形を大切にせよ」と記されていたそうだ。焼け野原となった大阪で復興に寄与することを目指し食堂として創業されたという(昭和24年:1949年)。今年はそれから約60年だ。

「くいだおれ」という名前は、東京の「履き倒れ」、京都の「着倒れ」、そして大阪の「食い倒れ」、と江戸時代から云われてきた慣用句から名づけられているそうだ。「食い倒れ」とは、『飲み食いに贅沢して貧乏になること』と辞書にある。

「くいだおれ」のある道頓堀通りには、江戸時代から、浪花五座といわれる弁天座、朝日座、角座、中座、竹本座(浪花座)の芝居小屋があり、文化の香りに満ちていたが、最近まであった中座を最後に全て姿を消した。

そして、この「くいだおれ」も間もなく姿を消そうとしている。時代とともに街の様子は変わる。昔を知っている者は淋しさを感じる。

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なごりを
惜しみ
「くいだおれ」
の前に集まる
人たち

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2008年7月 2日 (水)

マザー・テレサが遺した精神的遺産

マザー・テレサがどのような生涯を送ったのか詳しく知りたかったので、マザー・テレサの英文の自叙伝を以前買い求めてあったが、忙しさの所為にして、ずっと積読のままであった。

先日、テレビ番組を見ると映画「マザー・テレサ」(2005年、ファブリツィオ・コスタ監督、オリヴィア・ハッセー主演)が放映されるとあったので、これはマザー・テレサを知る良い機会だと思い観た。

以下は私が、マザー・テレサに関して自分自身の記憶をとどめるために、この映画の内容及びウイキペディア百科事典の記載内容から自分に興味のある部分を抜粋したものである。

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映画の概要:

物語は、1964年、インド・カルカッタにあるアイルランド系修道会であるロレト修道女会で教鞭をとっていたマザー・テレサが、「私の居場所は修道院の中ではありません。最も貧しい人々のところです」といって院外活動を始めるところから始まる。

そして4年後、修道会に属しながらの活動に限界を感じ、新しい教団(神の愛の宣教者会)を設立する。更に1965年、ハンセン病患者のための平和の村の建設計画に着手。しかし完成までの道のりは、中傷や詐欺事件に巻き込まれたりして予想外の困難がつきまとった。

以降、ホスピスや児童養護施設を開設していくが、ケアする相手の状態や宗派を問わないマザー・テレサ達の活動は世界的な関心を呼び、いまや教団の活動は世界規模に広がり、国際的に名前が知られるようになった。

そして、1979年にはノーベル平和賞を受賞。彼女は受賞者のための豪華な晩餐会の出席は断ったが、賞金6000ドルはカルカッタの貧しい人々のために受け取った。賞金を受け取った時「このお金でいくつのパンが買えますか」といったと伝えられる。

1997年、世界が見守る中、彼女は87年の生涯を終えた。
マザー・テレサが亡くなった時、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123国、610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病患者のための施設、児童養護施設、学校などである。

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補足説明:

マザー・テレサ(Mother Teresa)
  本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(「花のつぼみ」の意)について:

「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。
死後、「カトリック教会の福者」の称号を与えられた。福者とは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号である。

オスマン帝国領のコソボ、ウシュクブ(現代のマケドニア共和国・スコピエ)でアルバニア人のカトリック教会の家庭に生まれた。

彼女は、勲章「教皇ヨハネ23世平和賞」を初めとして多くの賞を得ているが、最も有名なものは、上記に記したノーベル平和賞である。受賞時のインタビューの中で「世界平和のために私達はどんなことをしたらいいですか」と尋ねられた彼女の答えはシンプルなものだった、「家に帰って家族を大切にしてあげてください」と。

筆者注:彼女は教団の組織化を嫌ったという。それはそうだろうと思う。
善意に支えられたこの種の活動が、例えば株式会社化すると、利潤というものが前面に出てきて、儲けというものに執着する不心得者が現れる。日本においても、先日解散を余儀なくされたグッドウィルの様なとんでもない企業が介護福祉という美名の下に、活動を許されてきたことを忘れてはならない。


マザーテレサが遺した精神的遺産は、彼女が語った次の含蓄のある語録に集約される
のではないかと私は思う。

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語録:ウイキペディア百貨辞典より

  • 私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか理解できません。
  • 女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物―それが母性なのです。
  • 子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。

  (以上、北京世界女性会議へ宛てたメッセージ)

  • 愛の反対は憎しみではなく、無関心なのです。
  • この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じることです。
  • 銃や砲弾が世界を支配してはならない。大切なのは愛である。
  • 苦しみが私達の生活に訪れて来る時、ほほえみをもって受け入れましょう。神が送り給うすべて、求め給うすべてをほほえみながら受け入れる勇気は、神からの最も偉大な賜物といえます。
  • 日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります(1981年4月、初来日の際)。
  • 私は受賞に値するような人間ではないけれど、世界の最も貧しい人々に代わってこの賞を受けます(ノーベル平和賞授賞式でのスピーチ)。
  • 帰って家族を大切にしてあげて下さい(ノーベル平和賞受賞の際、インタビューで「世界平和のために私達はどんな事をしたらいいですか」と問われて)。

晩年、神の沈黙と不在に絶望し、孤独に苛まれていた事が、死後公開された書籍内容によって明らかになった。 このことは、彼女は自身の活動に対しては非常に厳しく、またラジカルな姿勢でもって臨んだとも言えるだろう。
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2008年7月 1日 (火)

事業化交流マッチング~女性経営者の企業とのマッチングイベント

大阪府の異業種交流グループが6年間にわたって続けている「事業化交流マッチング」の第25回目の会合が、6月30日、大阪府商工会館で開催された。私は今回、コーディネーターの一人として参加した。

この事業化交流マッチングは、大阪府内や大阪市の各種団体が協力して行っている事業で、毎回、10社程度が自分の事業のプレゼンテーションを行い、この企業を核に
100社ほどが販路開拓・事業連携やネットワークつくりを求めて一同に会する一大イベントである。

25回目となる今回は、これまでにない切口として、初めて、プレゼンテーションの10社を全て女性経営者とする「女性経営者の企業とのマッチングしたい方大集合!」というテーマで行われ、約130社が参加した。女性は約60%を占めた。

会合は、プレゼンテーション企業10社によるプレゼンテーションの後、参加者がプレゼンテーション企業を中心に10グループに分れ、各グループを担当する進行役のコーディネーターの下で企業対企業のマッチングが活発に行われた。

プレゼンテーションをされた女性経営者のプロフィールは→こちら

10社が取り扱う商品は、アクセサリー、工芸茶、インテリアグリーン、介護事業、保育サロン、障害者支援、女性のための資格支援、等、女性らしさを反映したものが多かった。

下記の写真は、私がコーディネーターを担当したDグループの参加者の方々で、右端がプレゼンテーターの㈱レモンバーム代表・高橋恵子さん

尚、今回の事業化交流マッチングの企画に参加された同じ中小企業診断士仲間でもあるマイミクのYUKKOさんもコーディネーター代表として参加された。
YUKKOさんの記事(女性経営者を中心とした事業化交流マッチング)は→こちら

by yagiyoshiakihttp://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/
   
 

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Dグループ
参加者
の方々

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