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2009年4月12日 (日)

サラエヴォの思い出

先日、長い間整理しないで放置していた写真を整理しようと思い立った。30数年の間、後からアルバムに整理しようと箱の中に放り込んでいたのだが、何回かの引越しの途中でなくなってしまったものもある。

30歳代の半ばから41歳の頃まで、会社で海外プロジェクト部というところに所属し、主として中近東、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、イラク、更には中国やインドネシアなどへ仕事の関係で行った。

とりわけ思い出深いのは、最初に携わったアラブ首長国連邦、アブダビでの電化プロジェクトの国際入札の仕事であった。入札の準備のためアブダビでの現地調査を終え、ジョイントベンチャー(企業合弁)の候補の一つであったユーゴスラビアのエネルゴインベスト社という会社を訪問した。同社の本社はサラエボ(サラエヴォ=Sarajevo)にあった。

S商事のA氏と一緒に、アブダビからローマをへて首都ベオグラードへ、そこで一泊し、国内航空でサラエボへ向った。サラエボは静かで落ち着いた美しい街であった。初対面のエネルゴイインベスト社の方は女性を含む7人程のメンバーで、日本から来た我々を遠来の客として歓迎してくれ、夕食にも招いてくれた。

静かな雰囲気が漂う洒落たレストランであった。サラエボは多民族、多宗教(イスラム、カトリック、正教徒、など)の街であるが、当時はそれぞれのアイデンティティを維持しながらも仲良く暮らしていたのだと思う。我々を歓迎してくれた人も色々な民族、宗教を背景に持つ人達であったのであろう。

アブダビでの国際入札の結果は競合が厳しく落札しなかったので、エネルゴインベスト社の人々とは、その後会う機会がなくなったのので淋しく思っている。

サラエボで撮影した写真が幾つかあったはずなので、先日も探して見たがやはり見つからなかった。非常に残念だ。唯一サラエボの思い出として形として残っているのは、サラエボの街の土産物屋で買った飾り皿だ(添付写真)。この飾り皿を見るたびに街の様子を思い出す。

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ところで、ユーゴスラビアという国名は現在、存在しない。当時の正式な名称は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国であった。東欧共産主義国家のひとつであったが、カリスマ性とバランス感覚を有したチトー(ティトー)大統領の下で、ソ連とは一線を画し、ネールインド首相等と共に非同盟運動の指導者として、西側とも友好的に付き合い、独自路線を歩んだ偉大な人物であった。人間実のある社会主義者であった。私が訪れたのは、ティトーは1980年に亡くなっているが、ほぼ同じ頃であったように思う。

ティトー亡き後、この国は多民族・多宗教国家ゆえの問題を抱え、紛争が続発。1991年に発生した紛争後、スロバニア、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、セルビア(コソボ)、モンテネグロ、マケドニアの7~8カ国に分離したことは皆様ご存知の通りである。

バルカン半島に位置した他民族国家、ユーゴスラビアのサラエボ。その歴史は15世紀のオスマントルコに遡る。サラエボの呼称はトルコ語の「宮殿」を意味する言葉を語源としているらしい。1914年のオーストラリア帝位継承者の暗殺事件を契機として第一次世界大戦が引き起こされた「サラエボ事件」の街として有名だ。また1984年には冬季オリンピックの会場ともなった。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

Img_0871

思いでの
飾り皿

250pxbkmap

現在の

ボスニア・ヘルツエゴビナ
の首都

サラエボ

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