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2009年5月30日 (土)

和歌を通じて歴史を想う

最近、古来の日本文化を知りたいと言う気持ちに加え、記憶力を維持しようと始めたばかりのひとつに小倉百人一首の暗記がある。この百人一首は、撰者・藤原定家の小倉山荘(京都奥嵯峨の別荘)の障子(ふすま)の色紙に書かれていたと言われることより、このように呼ばれているという。

さて、歌の内容を見ると、勅撰集別には古今集や新古今集が多く、また、部立(ぶだて)(分類)別には恋や秋などの季節の歌が圧倒的に多い。離別や羇旅(きりょ)(旅のこと)、雑(その他)の歌は非常に少ない。これは色紙和歌として、ふすまに張られるものであったことから、多分に装飾的な美しさを生み出したものが選ばれたことが原因らしい。
さて、百人一首の歌を眺めていて、しみじみと感じる歌があった。
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ひとつは、羇旅(きりょ)に属する次の歌である。

「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」
(海原の多くの島々をめざして漕ぎ出していったと、都にいる恋しいあの人に伝えておくれ、漁師のつり舟よ)

これは、小野篁(おののたかむら)の歌である。漢詩文で名声高く、21歳で文章生になった。後、遣唐副使になったが、遣唐大使と争って乗船せず勅命に違反したとして、隠岐の国に流罪となった。この歌は、その時の孤独感と都の人への思慕の情のせつなさを訴えた歌である。
余談であるが、遣唐使は630年に始まり894年に中止されるまでの間、18回派遣されたが、無事に渡れたのは12回だったという。このように遭難が多かったわけは、船の構造がよくなかったことと、気象学といったものがなく、出発の日は陰陽師が占いで決め、その日の天候の良し悪しにかかわらず出航していたこと、にあるそうだ。そのような危険な渡航を小野篁は嫌って乗船を拒絶したのだと言われている。

もうひとつは、雑に属する次の歌である。

「ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
(宮中の、古びた軒端(のきば)のしのぶ草を見るにつけても やはりしのびきれない(栄えていた)昔の御代(みよ)であることよ)

これは、順徳院・第84代の天皇の歌である。後鳥羽天皇第3皇子。承久の変によって譲位、佐渡に流された。承久の変というのは、後鳥羽上皇が、源実朝の死後、鎌倉幕府討幕計画を進めたが、幕府軍に敗れた乱である。その結果、朝廷の力は衰え、北条氏執権体制が進展した。このような中、佐渡に流された順徳上皇が栄えていた昔をなつかしみ朝廷の現在の衰微を嘆いている歌である。8年ほど前、佐渡を訪れた時、順徳上皇の真野御陵(火葬塚)というものがあったことが想いされた。当時はこの歌の存在を知らなかったが、知っていたならば、もっと感傷にひたることができたと思われてならない。

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これらの歌を詠むと、昔も今と同じような人間模様が起きていたということであり、変わらぬ人の世の浮き沈みと情が感じられる。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

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