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2009年6月

2009年6月29日 (月)

白鳳堂・・・広島県熊野町にある化粧筆の世界的企業

広島県熊野町に”白鳳堂”という化粧筆の世界的な企業があるということを数年前から聞いていて、かねてから、どのような会社であるか一度見てみたいと思っていた。2ヶ月前にアポイントを取り、6月某日、同社を訪れた。今回、化粧筆ということで家内も興味を示していたので家内同行の訪問であった。

JR広島駅から在来線に乗り矢野駅で下車、車で15分。山々と田園風景の広がりが同居する熊野町は筆づくりの集積地である。至るところに筆という文字が見られる。その中に白鳳堂があった。本社と工場を兼ねたオフィスの事務所に入ると、取締役統括部長・髙本光さん(社長の次男さん)とスタッフの方々の明るい挨拶で迎えられた。都会にある化粧品売場に見られるのと同様な明るい雰囲気に包まれた職場だ。これだけでも女性向けの世界的な化粧筆をつくっている優れた会社の一面が垣間見える。

同社の創業は1974年。創業の原点は、当時の大量生産による粗製造に流れ勝ちな業界の中で、道具としての機能を重視し(そのため顧客の使い方を研究した)、工程を省くことなく、伝統の技術にこだわって品質の高い筆をつくりたい、ということであった。

現在主力製品となっている化粧筆も創業当初から手がけていたが、当時はまだ高級な化粧筆はなかった。そこで髙本社長は奥さんの意見も聞きながら、化粧時に求められる機能を追及。筆の形状、使う毛の選択と組み合わせ等を一から工夫することで独自の高級化粧筆を開発してきた。

ところで創業当時、化粧筆は全て問屋を経由して納入されており、このような流通経路では、コンパクト性やデザイン性、低価格性のみが取り上げられ、筆の機能や使いやすさといった側面は軽視されていたという。そこで製品の良さを分ってもらうには直販しかないと感じた社長は、卸業者を外して直販に切り替えることを決意。しかし切り替えた直後は売上が急激に減少し大変であったという。

このような局面を打破出来たのは、髙本社長が活路を求めてアメリカへ渡り、そこで会ったメーキャップアーティストからカナダのメイクアップアートコスメティックス(M・A・C)社を紹介してもらい、M・A・C社と化粧筆に関する考えで共鳴したからである。同社の試作品を使ってみて、顔に合う化粧筆として大変気に入ってもらえた。

そしてMAC社にOEM納入された化粧筆がハリウッド女優などにも使われるにつれ、M・A・Cの化粧筆の良さは口コミで伝わり、マスメディアでも採りあげられるようになった。そしてそれをつくっているのはどこかということで、白鳳堂の名前もこの業界で知れ渡るようになった。そして今、同社の製品は世界の高級化粧筆の市場で6割以上のシェアを占めているという。

また、同社にとって、インターネットの登場も追い風となった。ホームページを開設した当時は、反応は芳しくなかったが、2000年頃から効果が出始めたという。また2001年に口コミサイト「アットコスメ」と連携して、消費者の声を聞きながら商品を開発したことは大変効果があった。

以上はマーケティング及び販売面の話であるが、これを支えたのは生産である。機械を使わない手作業が基本であるが、工程の工夫によって量産と品質の安定を同時に実現しているのが特徴だ。製造工程を細分化し、作業を単純化することで、各工程にプロを育てることで仕事が均一化され、安定した品質の製品をつくっている。このような生産体制であるから、小口の注文から大ロットまでに受注にも対応できるという。

最後に、化粧筆の機能や使いやすさのことだが、化粧のノリが上手く行くには、筆の毛先が肌の凹凸に沿って柔軟に動くことが必要だという。同社はこの点を究極的に追及している。顔の場所(眉、頬、唇、など)、化粧品の種類(粉、液体)、骨格、などにより、それに相応しい筆があり、現在500種類の化粧筆を自社ブランドとして持っている。

家内も同社の化粧筆を買い使ってみたが、感触はビロードのように滑らかで、チクチクしたり、引っかかることが全くないので驚いていた。気に入って娘の土産にと買い求めていた。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

(写真)
上:白鳳堂広島本社
中上:化粧筆の製作現場(清潔感溢れる職場だ)
中下:オフィス入り口(数々の賞を受賞されている。ものづくり日本大賞の楯が見える)
下:オフィス内にある化粧筆展示

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2009年6月21日 (日)

アラビアのロレンス・・・・サウジアラビアの思い出

先日、テレビの「世界史発掘・時空タイムス」という番組で、映画「アラビアのロレンス」を題材としたドキュメントが放映されていた。アラビアのロレンスに関しては、学生時代、そのような映画が上映されていたことは覚えているが、実際観たことはなかったので、興味を感じ最後まで観続けた。

実は、なぜ興味があるかと言えば、アラビアのロレンスが昔、居合わせた歴史的な現場に私も時代を隔てて訪れたことがあるからである。
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40歳の頃より約3年半の間、中近東のサウジアラビアに仕事で滞在していた。仕事というのは、サウジアラビア紅海沿岸の都市・ヤンブにある工業地帯の電化・配電プロジェクトというもので、そのプロジェクト管理の仕事であった。プロジェクトは、私の所属する会社と西ドイツのBBC社(ブラウン・ヴォバリー)とのジョイント・ベンチャーであった。

サウジアラビア滞在中は、サウジアラビア政府が外国人のために建設したプレハブ式家屋からなる居住区域があり、ひとつの村を形成していたが、その中で生活していた。

日本と違って、仕事を終わってからや休日には、飲みにいくところもないし、またこれといった行く所もなく、ましてや歴史的・文化的施設もあるわけではないので、日本人の仲間と雑談したり、休日には紅海の珊瑚礁に恵まれた美しい海で、スノーケルを付けて熱帯魚を観賞したり、貝や伊勢海老を採って食べたり、また時々は英語会話の勉強を兼ねて欧米人の家に遊びに行ったりしていた。

もうひとつの楽しみと言えば自動車での砂漠の探索があった。サウジアラビアには、大昔の居住者が残した石碑や文字を刻んだ岩などが、何ら管理されずに放置されている。それらを見て回るのが楽しみであり、まとまった休日には仲間と一緒に探索旅行に出かけた。

ある時、長期に滞在しているドイツ人から、昔、1914年の第一次世界大戦頃の鉄道の遺骸がどこそこにあると聞いたので、自動車で探索に出かけた。自動車で行くといっても、道路からはずれた脇道に入ると、いつ軟弱な砂漠に突入するかも知れないので注意が必要である。難波した時に備えて、脱出するためのロープやウインチなどを常に保有していた。ある時、砂地に入り込み、通りがかりの車に牽引してもらい脱出したことが幾度かあった。砂漠から脱出できず、炎天下の下で疲弊し亡くなった人がいるとの話も聞いたことがある。

そのような危険を伴う探索だけにそこにたどり着いた時の喜びはひとしおだった。下記の写真はアラビアのロレンスがアラブ反乱軍を支援して爆破したと言われている鉄道の機関車と駅舎の残骸を前に撮影した写真である。この鉄道については後述する。

この探索旅行の時はヤンブ(Yanbu)から内陸にある幹線道路を経て、ヨルダンとの国境であるアカバまで行った。アカバの海は限りなく青いブルーで、その美しさは今でも私の脳裏に残っている。海の彼方に、預言者モーゼがさ迷ったと言われるシナイ半島が見られたのが大変印象に残っている。

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前述の鉄道のことについてウイキペディアの資料からも参考にして説明しておきたい。
この鉄道はヒジャーズ鉄道という。

アラブの反乱(1916~1918)は第一次世界大戦中に、オスマン(トルコ)帝国からのアラブ人独立と、アラブ国家の樹立を目指して、メッカの太守(シャリーフ)・フサイン・イブン・アリーが起こした戦いである。

フサインは三国協商の側について協力することによりエジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国建国という報奨をうけることができると確信し、オスマン帝国との戦いのため連合国側のイギリス、フランスとの同盟を結んだ。

エジプトにあったイギリス軍はこれに協力するため、1916年、俗に後年「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・エドワード・ロレンスをアラブ軍に派遣した。ロレンスはアラブ指導者に対し、ヒジャーズ鉄道終点のメディナに拠点を構える強大はオスマン軍と戦って追い出すのではなく、その代わりにヒジャーズ鉄道を各地でゲリラ的に破壊するように指導したと言われている。

また、ロレンスはアラブ人を率いて、アカバ湾奥の港町アカバを攻撃した。アカバはアラブ反乱軍の補給港となるだけではなく、イギリス側の補給港としても重要であったからである。

このフサインが主導するアラブ諸部族は、イギリスの支援を受けてオスマン帝国軍と戦いその支配からの脱却には成功したが、世界大戦の終盤に、イギリスやフランスの利権を巡る争いから、これらの国の委託統治領となり分断され、統一国家として独立することはなく現在に至っている。また、イスラエル誕生により、アラブとイスラエルの新たな争いにも発展している。

後年、ロレンスはこのような状態を嘆いていたと言われている。
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サウジアラビアの地図

「私は西海岸の
ヤンブ(Yanbu)
に滞在していた」

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オスマン帝国が
建設した
ヒジャーズ鉄道の
残骸

(アラビアのロレンス
が率いるアラブ
反乱軍によって
破壊された)

写真は
私とSさん

                      

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アカバにて
(車窓からの撮影)

海の彼方に
シナイ半島が
見える

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ヒジャーズ鉄道
の路線図
(ウイキぺディアより)

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2009年6月20日 (土)

セールスプロモーションフェア

大阪産業創造館でセールスプロモーションフェアが開催されていたので、どんな商品やサービスが発表されているか興味があり覘いてみた(6月17日)。

イベントは、「中小企業の“魅せ方・売り方の課題”を解決!」というタイトルで、商品やサービス、企業の真の魅力を正しくアピールしたり、新しい視点で需要を掘り起こせるに役立つ販売促進ツールやサービスについて約17社ほどがプレゼンターとして参加していた。

幾つか目に留まったものを挙げると、

①売上に繋がるホームページ作成術-WEBプロモーション ②消費者のこころを活気と真心でキャッチすることにより商品PRや店頭応援を行うスペシャリスト女性集団
③パワーポイントの機能を究極的に活用し僅か3分で忘れられない会社として
アピールするもの ④AISAS時代において、メディアの原点を声として、音と映像で呼びかけ、人が声で伝えるもの ⑤デザインを重視した企業案内やビデオの作成 
⑥写真を基に作成する3D・PVR(Panorama Virtual Reality)により製品や
サービスに臨場感を与えるもの

等々、色んなものがあった。モノやサービスが飽和状態になって来た現代、販売促進の技術や手法が進化せざるを得ないことになって来たことをひしひしと感じる。

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2009年6月19日 (金)

高松丸亀町商店街の視察 

先日、東大阪商工会議所主催の高松丸亀町商店街 視察会に参加した。
東大阪市民会館前を午前8時に貸切バスで出発。総勢30人。好天に恵まれ有意義な一日であった。

高松市は人口42万人の都市で、都心には2つのデパートと約800の専門店で構成された8つの商店街があり、この丸亀町商店街は位置的に、その中心にある高松のメインストリートである。

この丸亀町商店街は、高松城築城とともに開発された古い商店街であり、400年の歴史を持つ。後年、丸亀城の廃城に際し丸亀の商人がこの地に移りこみ、これに伴い町名が丸亀町と改名されたという。
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そもそも丸亀町商店街の再開発の検討が始まったのは、昭和58年、鹿庭前理事長の発案により「100年後を目指した街づくり」の必要性が叫ばれた時からだという。しかし当時の丸亀町は通行量が休日3.5万人、平日2万人と、まだまだ全盛期とも言える時代であった。なぜこのようなまだ繁栄していた時期に将来の危機を感じたのか?それには青年会を中心にまとめられた次のような答申が影響を与えたという。

①物販に特化し過ぎた丸亀町が今後、100年間、市民の支持を受け続けることは困難である。②物販以外の機能も充実する必要がある。、例えば市民広場、公園、イベントホール、駐車場、休憩施設、公衆トイレ、レストラン等の飲食機能、生鮮市場または食品スーパー、ホームセンター等の生活雑貨店、マンション等の居住施設、交通の利便さ、等の生活空間を設ける必要がある。③モノを買うだけの街から時間消費型の街に作り替えることが必要である。

これらを実現することにより、将来、郊外の巨大SC(ショッピングセンター)などに対して十分競争力を持てるという結論に達し、この答申に基づき昭和59年から街づくり事業を開始した。開始にあたり全国の商店街の失敗例を勉強したという。

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高松丸亀商店街は延長約470m。これをA~G街区に区分し、全体の方針と各街区ごとの街づくりの方針を合意して整備を進めることにし、平成18年、ようやくA街区が竣工したばかりだ。

同商店街再開発の特徴と言えるのは、所有権と使用権の分離だ。地権者の全員による定期借地契約によって所有者の権利を保全するが、適正なゾーニングとテナントミックス(業種構成改善)を行うので、その使用に関しては、地権者であっても現状位置にこだわらず、テナントとしてゾーニングに従ってもらうということだ。これにより商店街の最も大きな障害(ゾーニングとテナントミックス)を取り除くことができたという。

この原則を貫徹するため、出店者による共同出資会社設立、また街全体のタウンマネジメント会社として、第3セクター「高松丸亀町まちづくり㈱」を設立し、運営受託している。第3セクターの設立に際しては、他地域での第3セクター方式の失敗を鑑み、行政の出資は極く僅かに止め、行政からの口出しを封じているのが特徴だ。あくまで民間主導だ。

ところで昭和63年の本四架橋・児島坂出ルート開通を契機として、長い間、社会経済的に無風状態であった四国における流通を取り巻く環境は、特に平成7年以降一変した。物流体制を整えた大手流通チェーンによる郊外大型店立地が加速し、当商店街もダメージを受けたが、先行した再開発事業のお蔭で何とか苦境を切り抜けたという。そして、現在、リニューアルした街区は年間売上が約3倍に、通行量は2割増加している。

最後に、高松丸亀商店街振興組合の古川理事長が強調されていたことは、他の地域にも当てはまることでもあるので下記に記しておきたい:

大型SCは強力である。このまま何もせずに街を放置すれば、日本の中都市は、大型SCに地域を荒らされて必ず死んでしまう。
そのようなことが生じないように、商店街の皆が、お客様のニーズを捉えて、全てを大型SCの所為にせず、自らが行って来た過去を反省して、自ら立ち上がらなければならない。そして、全ての面で自給自足できる地域づくりを目指し、そこに生まれ暮らしたことを幸せであり、誇りであると感じながら一生を終えることのできるような地域にしたい!

印象的な言葉である。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/


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高松丸亀町
商店街
A街区

平日であるが
人通りはかなり
あり賑やか

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古川理事長
の説明を聴く

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高松丸亀町
商店街A街区

ドーム
(歴史的な都市
の結節点である
札の辻を現代に
蘇らせたもの)

                                                         

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2009年6月13日 (土)

私のブログの本が完成

ココログ出版に注文していた自分のブログ記事の製本が完了し送られてきた。
なかなかいい出来映えだ。安価なので校正とかが十分というわけにはいかないが、ほぼ満足している。

前の記事に書いた様に、いままで、ネット上にある自分の記事が自分の元にあるという安心感を与えてくれるのが一番だ。

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2009年6月12日 (金)

出石(いずし)・但馬の美しい町

先日、兵庫県朝来市和田山町にある、日本のマチュピチュ・竹田城へ行った時、少し足を伸ばして豊岡市出石(いずし)を訪れた。
出石は「古事記」「日本書紀」にも登場する古い町だ。このような山間に、これほど美しい町があるとは期待していなかっただけに喜びはひとしおだ。

そもそも、出石へ行った目的は、出石皿そばが有名であると聞いていたので、一度それを食べに行こうというわけであった。タクシーの運転手さんの推薦で「甚兵衛」という店に入る。中庭のある綺麗な店で、写真のように白地の小皿に盛られたそばを、タクシーの運転手さんも一緒になって頂く。10皿程度食べるのが普通だというので、皆な10皿ほど頂いた。

なぜ出石にそばがあるのか?ということだが、出石藩主が交代した時、信州上田の仙石氏が、信州からそば職人を連れてやってきたからだ。今では約50軒の皿そば屋が並んでいる。

町並みは非常に美しい。出石の観光案内図には“但馬の小京都”と書かれているが、確かにそのような町の佇まいだ。

辰鼓楼(時計台)、家老屋敷、石川五右衛門を捕らえたといわれる仙石権兵衛を祀る社、近畿最古の芝居小屋、酒蔵、桂小五郎が当地で潜伏していたといわれる廣江屋跡(荒物屋)など、歴史的に興味を惹くものが沢山あった。

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<出石皿そば>

白地の小皿に
盛られたそばが
新鮮で美しく
映る


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<出石の町並み>

山の麓に山城である
出石城跡がある。

中央に見える櫓は
出石のシンボル的な
存在である辰鼓楼。

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出石家老屋敷

江戸時代の
三大お家騒動の
あった仙石左京の
屋敷がここにあった。

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2009年6月10日 (水)

吉持製作所のブログ記事に掲載頂きました

日頃、お付き合い頂いている吉持製作所の代表取締役社長・吉持さんが、大阪府産業デザインセンターのBMB(ビジネスマッチングブログ)で、私のことも記載頂いているブログがあったので紹介させて頂きます。

このブログは4月末、吉持さんからの依頼で、堺刃物素形材研究所さんを紹介させて頂いた時の記事です。

尚、吉持さんは異業種交流会・フォーラムアイの代表をされており、昨年放映された、関西テレビのドキュメント番組 「ものをつくる人々-生野から世界ブランドへの挑戦-」に出演されました。その時の私のブログ→ここをクリック

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吉持製作所

ヘラ絞り製品は生活用品、工業製品等に多岐にわたって利用されています。
弊社では、長年にわたってダウンライトの反射板を得意としてきましたが、最近はお客様の多様化でさまざまな製品を手がけております。

  • 試作、数量の少ない加工もいたします。
  • アルミ加工が得意です。
  • 外径20ミリから400ミリまで加工いたします。
  • http://yosimoti.com
[吉持製作所のブログページへ行く]
堺刃物研究所へ、お邪魔しました。
  2009/05/01 19:00
投稿者: yoshimoti 

八木先生の仲介で、堺刃物研究所へお邪魔しました!




先日、八木先生の仲介で堺刃物研究所の高田様の所に、お邪魔いたしました。
うちもステンレスの切削の時の超硬のもろさに泣いておりましたら、

BMBの八木先生のページを読んでいると新素材が開発されたと書いてあるので
興味深く読むと、 BMB仲間の堺刃物研究所というところと分かり

八木先生に仲介をお願いしました。 同じく刃物で問題を抱えている友人と
お伺いしましたが、すぐに、問題解決とはならないようですが、

これからの高田さんの研究に期待する次第です!
高田さんもBMBに入っておられますが、 まだ、BMBの初心者といったところでしょうか?

これからは、オフ会にも参加して下さるようですから、 また、お目にかかれる機会も
増えることでしょう!

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2009年6月 8日 (月)

大阪・鶴橋の活性化と情報発信/鶴橋・スーク

大阪・鶴橋と言えば、キムチや焼き肉で有名だ。。
この街で、鶴橋の活性化のために頑張っておられる方がいる。「まるひ食品」という食品の卸売業を営んでおられる石本俊治さんだ。私が大阪商工会議所の経営相談員をしていた時、訪れたのが契機となって、今でも、鶴橋近辺に来た時は時々立ち寄らせてもらっている。

石本さんの店は、昔は加工工場もあったが、現在は、寿司屋、仕出屋、割烹向けの仕入専門である。しかし、一般客用の商品も扱っている。店には全国から仕入れた食材が陳列されているが、その中には、岩塩とか湯布院のジャムとかの珍しい商品もある。

同氏は仕事の傍ら、鶴橋の活性化のために活動されており、現在、鶴橋市場・商店街の再開発のための再開発協議会の理事などをされている。鶴橋の将来のためにご自分の時間を割いて活動されている元気なお姿を見て私は元気を頂いている。

また、ご自分でパソコンとかネットの勉強をされており、その知識は玄人肌だ。私など時々、お会いする毎に最近のネット関係の動向について教えてもらったりしている。
そのような石本さんであるから、鶴橋からの情報発信については以前から注力されており、最近では、今年に入って「鶴橋・スーク」というブログを立ち上げられた。スークとはアラビア語で市場の意味である。

その中に、興味を惹く二つの記事があったのでご紹介する。いずれも石本さんのブログからの引用である。

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ひとつは、大阪芸大が卒業制作ロケに鶴橋にやってきた記事。
完成したら、日本だけでなく、海外のコンクールにも応募するという。

詳細はここをクリック

 

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大西市議を中心とした日米友好議員連盟の市議、等総勢20名が、「大阪らしさの生の姿を見る」という目的で鶴橋を訪れたとのこと。この時、石本さんが案内役を引き受けられた。

詳細はここをクリック

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2009年6月 4日 (木)

竹田城・天空の城

6月初日、兵庫県朝来市和田山町にある、かねてからの念願であった竹田城へ家内と一緒に出かけた。福知山線和田山駅で播但線に乗り換え一駅で竹田へ。そこからタクシーに乗り約10分で城跡に到着。

期待していた以上の素晴らしい絶景であった。城そのものはなく、あくまでも城跡であるが、好天に恵まれて、今まで見たことのない素晴らしい風景を満喫できた。さすが“日本のマチュピチュ”と比喩されるだけあって、写真で見たペルー・インカ帝国の遺跡“マチュピチュ”に非常によく似ていた。澄み渡った青い空、素朴な石垣と周囲の木々の緑、背後に見える青々とした山並みとの美しい調和は筆舌に尽くしがたい。

標高354Mの古城山の山頂に築かれた南北400M、東西100Mに広がる縄張りは広大で、そこから下界の景色を眺めていても飽きない。石垣の脇に紫色のアザミがけなげに咲いている姿が可愛い。

竹田城は冬季の晴れた日、山麓を流れる円山川からの朝霧に包まれた姿が有名で、天空の城という異名を持ち、この時が最も美しいと言われているが、今回訪問した、6月始めの好天に恵まれたこの季節においても、それに劣らず美しいと感じた。

竹田城の歴史については、以前のブログで一度述べたが、但馬の守護大名・山名宗全が、播磨、丹波、但馬の国境近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で築城したものである。その後、山名氏の被官・太田垣氏が5代にわたって城主となったが、織田信長の命令による秀吉の但馬征伐で1580年、落城した。更にその後、羽柴秀長、赤松広秀が城主となったが、関が原の合戦後、廃城となった。

尚、最後に、竹田城は日本100名城のひとつであるということを付け加えておきたい。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

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竹田城跡
遠景

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天守閣
を望む

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天守閣
からの眺め

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2009年6月 1日 (月)

文化が街を活かす

大阪・天神橋筋商店連合会会長の土居年樹さんは、今年の年頭所感で、「文化が街を活かす」というタイトルで次のように述べられている。
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水が呑みたくなって井戸を掘るような愚はやめ、前を向く積極姿勢の商人、江戸時代の商人訓「利は義の和なり」を貫くほんまもんの商人が勝つ時代背景を創ることが今の社会に必要なことかも知れません。

「文明が文化を駆逐する時代」に「街は文化の宝庫である」という思いを持ち続けて30年、商店街(天神橋筋商店街)の活性化に励んできた成果物として、上方落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」が完成した(平成18年)のも天満が持つ文化を掘り起こした結果であります。「芸能文化が商店街の活性化に貢献する」と考えた人は少ないでしよう。

芸能文化はお金を生まないものだという観念があるものですが、このことを逆手にとったのがこの事業です。1)上方落語会の若手芸人が活性化され、2)商店街(天神橋筋)の来街者が増え、3)大阪に齎す経済効果が116億円(1年目)、4)天神さんとその周辺が活気づいてくる。このようなことを誰が予測したでしよう。

このことを踏まえ私が感じたことが3つあります。ひとつは人の和(桂三枝さん、天満宮の寺井宮司、私・土居)の人間関係が功を奏したこと。二つ目は地の利、往年は天満宮の周辺に八軒の小屋があり、そのひとつでも取り戻そうとする執念が多くの人々に感動を与えたこと。そして、最後は時の運。落語ブームが復活しNHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」が始まり一気に落語が日本中に広まったこと。・・・・・改めて人間関係の大切さを思い知らされたものです。この教訓を大切に精進したいものです。
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土居さんの述べられていることで感動したのは、「文明が文化を駆逐する時代」に「街は文化の宝庫である」という思いを持ち続けてこられたことである。文明と文化はどのように違うか?広辞苑によれば、文明と文化とは同義に用いられることも多いが、「文明」が技術的発展のニュアンスが強いのに対し、「文化」は人間の精神的生活にかかわるものである、とある。
文明という名において、科学技術の進歩が必ずしも人間の幸福に結びつかず、また人間の生活を無味乾燥なものにし、また人間同士のいたわりの気持ちを少なくさせていることを否定できないことは悲しいことである。この悪い意味での文明の暴走に歯止めをかけるのは文化なのであろう。そういった意味で文化が切り捨てられないように我々は行政のやることが正しいものかどうかを常に監視する必要がある。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/


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