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2009年8月14日 (金)

紀行・・・明日香村・豊浦寺跡

先に藤原京跡を訪れた後、万葉文化館へ行こうとタクシーに乗って、運転手さんと色々と話をしていると、明日香に来た時には必見のところがあるというので連れて行ってもらった先が豊浦寺跡(とゆらでらあと)である。この運転手さんは脱サラして今の仕事をされているということで考古学を趣味としており、歴史上興味深いことを沢山教えてくれた。

さて、豊浦寺。現在は向原寺(こうげんじ)という。
552年(欽明天皇13年)百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦像(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目(そがのいなめ)が賜って向原の自宅に持ち帰り、自宅を浄めて寺としたのが日本最初の寺とされている。

しかしその後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、仏像は、廃仏派である物部氏により難波(なんば)の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。後、再興され、豊浦寺の前身となった。因みにこの堀江は寺の直ぐ横にある。

ところで、この辺りは推古天皇の宮殿があったと伝えられ豊浦宮跡ともいわれている。

そして前述の仏像は、その後長野県の善光寺に祀られたという善光寺縁起として語り継がれている。仏教伝来が538年と歴史の授業で教えられたが、その後、蘇我氏と物部氏の仏教信仰を巡る争いなどを経て、仏教文化が繁栄していく様子が窺え、興味深く感じた。

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さて、万葉文化館での話であるが、上野誠先生の「歌木簡は語る」というお話を聞いた。
話の内容は、歌を刻んだ木簡が多く発見されているが、木簡は何のために作られたのであろうか?ということについて、万葉集や日本書紀の話を交えながら面白おかしく話して頂いた。結論的には、何かの儀式があった時、聴衆が一緒に歌うために、歌の内容を詳しく知らない人々にも知らしめるため、会場のどこかに掛けておく歌詞カードであったのではなかろうか、というのが上野先生の説明であった。

古代の人々の文化的?な側面が思い浮かび、古代へのロマンを感じる一日であった。

Simg_1652

豊浦寺
(向原寺)

Simg_1656

物部氏により
仏像が捨て
られた池
(難波の堀江)

Simg_1655

難波堀江
の由来を
記してある





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