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2009年9月10日 (木)

石見銀山紀行

8月半ば、世界遺産となった石見銀山を訪れた。ガイドさんの話しによると、世界遺産に登録された直後の熱気は一段落し、観光客で溢れるということにはなっていないらしい。私が訪れた時もそうだった。

石見銀山は戦国時代から江戸中期にかけて日本最大の銀山として栄えた。最盛期は江戸時代初期で、年間150~200トンの銀を産出したという。石見銀山の注目すべき点は灰吹法という原始的な精錬法で驚くべき生産高を上げたこと、採掘の技術者集団や精錬に使う鉛、燃料の木材、交通ルートなど、鉱山を持続的に運営する条件が整っていたこと、等が挙げられる。これらのことが高品質の銀を大量に生産・輸出できた大きな理由である。

石見銀山を巡っては、日本国内では、戦国時代、大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣秀吉による熾烈な争いが繰り広げられた。また、徳川家康が天下を取ってからは、いち早く幕府直轄地とし、銀山奉行(大久保長安)を派遣した。

世界史的に見ても、石見銀山の名は、大航海時代には世界に知れ渡り、当時のポルトガルの地図にもその名が載っている。また、かの有名なフランシスコ・ザビエルが手紙に「スペイン人が日本を銀の島・ジパングと呼んでいると記している。そして、多くの銀が明を経由して陸路ヨーロッパへ、あるいは海路で渡ったと言われる。

その他にも石見銀山にまつわる興味深い話がある。関が原の戦い後の大阪冬の陣では、徳川家康が石見銀山の堀子を使って地下道を掘り、難航不落の大阪城を地下から攻めたとか、大阪城の地下水を遮断したとか言われている。

また、ガイドさんが、ポルトガル人による種子島の鉄砲伝来に関連して、実は彼等は銀を求めて日本にやって来た途中、遭難し種子島に上陸した、と説明していたが、私もさもありなんと思った。そして若しこれがスペインであったなら、日本の運命は変わっていたかも知れない言っていたが、スペインによるインカ文明の破壊などを考えると、歴史の仮説とは言え、真実性も少しあるようにも思われた。

鉱山を支える住宅地域「大森地区」については、当日は商店街の休業日で、人通りはまばらだった。街の景観を維持するための色々な配慮が工夫されており、下記の写真にあるような木製の自動販売機が目に付いた。

 by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

Simg_1711

石見銀山
初代奉行・
大久保長安
の墓

Simg_1722

龍源寺
間歩

Simg_1744

大森区
にある
自動販売機:

街並み景観
に配慮して
いる

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