前回のブログでは、トルコの思い出として、親しく接してくれたトルコの人々について記したが、今回は現地のガイド・YAVYZさんが話してくれた内容を中心として印象に残ったことについて記す。
<トルコ全般に関すること>
トルコへの観光客は、年間2,500万人。ドイツ、ロシア、イギリス、日本の順に多い。国土は日本の約2倍で、人口は逆に日本の1/2。生育している植物については日本に見られるものが多い。特に松の木が多く、松に覆われている山が多かった。また、ピラカンサの木が多いのも目立った。チューリップはトルコが原産で国花となっている。チューリップといえばオランダが思い浮かぶが、トルから伝わったものだ。
絨毯はトルコが原産で、イラン(ペルシャ)絨毯はトルコから伝わったという。トルコ絨毯は、2重結びで自然彩色で編み目が細かいのが特徴だ。青いトルコ石は、ノアの箱舟で有名なアララト山が原産地。青(blue)は天の色を表し、イスラム化以前に原住民が空の神を崇拝していたことに通じるらしい。トルコ料理はフランス料理、中華料理と並ぶ世界3大料理のひとつ。料理の数も多い。茄子料理だけでも40種類あるという。
国民の約99%がイスラム教(スンニ派)であるが、宗教色はイランなどと比べると弱い。これは建国の父、ケマル・アタチュルクが定めた世俗主義に起因している。
トルコの歴史:現在、トルコが位置する地域には、紀元前6000年頃から人が住み始め、鉄を使ったといわれるヒッタイト人が、最初に王国を築いた。その後、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)に支配される。もともとは中央アジアの遊牧民(6世紀頃建国の突厥)であったトルコ民族は、9世紀後半に中央アジアに移動し、セルジューク朝を開く(首都はコンヤ)。そして小アジアにも進出してビザンティン帝国と対峙し、これを破った。その後、オスマントルコ帝国が覇権を握り、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、ウイーンにも及び大帝国を築いた。しかしオスマン帝国は次第に衰退し、第一次世界大戦の結果、領土を削られるなどしたが、オスマントルコの将軍であったムスタファ・ケマル・パシャの努力の結果、オスマントルコのスルタン制を廃止するなど、国内の民主化を進め、アンカラを首都とするトルコ共和国を樹立した。
<トロイ遺跡>
ホメロスの叙事詩「イリアス」に出てくる「トロイ戦争」で有名な伝説上の都市と信じられていたが、これを実在の都市であると、ひとり信じ続けてきたドイツの考古学者シュリーマンが私財を投げ打って発掘を続け、1870年、ついに遺跡を発掘した。(写真1)
写真1:
トロイの木馬
(復元されたもの)
<エフェソス都市遺跡と聖母マリアの家>
小アジア最大の古代都市遺跡群。紀元前11世紀、ギリシャからやってきたイオニア人によって建設された都市。この都市の黄金期はローマ帝国支配下の紀元前130年頃。当時はローマ、アレキサンドリアに次いで3番目の都市として栄えた。この都市は、キリストの死後、使徒ヨハネが聖母マリアを伴って移り住み、余生を過ごした地としても知られている。聖母マリアの家は18世紀末、ドイツ修道女アンナ・カテリーナが天啓を受け、聖職者たちによって発見された。(写真2)
写真2:
聖母マリア
の家
<カッパドキア>
カッパドキア地域には、非常に珍しい形のキノコ岩、谷、クレパスが見られる。他にこのような風景が見られるところは世界中にない。紀元後4世紀にビザンティン帝国の領土となってから、この地方に移住して来たキリスト教徒によって岩窟住居が作られた。11世紀に入るとイスラムの支配下に置かれたが、カッパドキアはアラブからの攻撃の砦となり、住民は身を守るために多くの洞窟を掘り、頑丈な石の扉の下に隠された地下都市なども建設した。
カッパドキアはきれいな「馬の国」という意味。紀元前13世紀、ヒッタイト人はここで最初にワインを作った。また、当地でカエサルが「来て・見て・勝った」という言葉を発したところだという。当地で、ガイドさんが知り合いの家庭に連れていってもらった時の写真は、前回のブログに掲載済み。数年前、ウルルン滞在記で竹内結子さんもこの家庭にお世話になったという。(写真3)
写真3:
カッパドキア
の風景
<アタテュルク廟>
トルコ共和国創立者ムスタファ・ケマル・アタテュルクが眠る霊廟。随所にガードマンが配置されていた。霊廟の前面には「若者に告ぐ」の言葉が刻まれている。子供達を連れた先生の見学が絶えないそうだ。トルコ国民は彼をアタテュルク(トルコの父の意味)と呼ぶ。彼は独裁者でなく、国民に愛された。身内に私財を残さず、政治権力を引き継がなかった。(写真4)
写真4:
アタテュルク廟:
霊廟を前にして
警備の人と
撮った写真は
前回のブログ
に掲載
<イスタンブール>
イスタンブールは、古来より歴史と文化の大舞台であり、アジアとヨーロッパにまたがる東西文明の接点であり、交通の要衝であった。トルコ最大の都市で、様々な人種、様々な文化が混ざり合っている。イスタンブールはボスポラス海峡で、アジアサイドとヨーロッパサイドに大きく分けられる。ボスポラス海峡は黒海とマルマラ海を結ぶ全長35kmの海峡。海峡沿いには、ブルーモスクやアヤソフィアなどの宮殿や寺院、城塞、別荘などが立ち並ぶ。アジアとヨーロッパの二つの世界を見ながらのクルージングは東西交流の歴史を思い出させ感動的だ。(写真5)
写真5:
ボスポラス海峡:
左側はヨーロッパ、
右側はアジア、
この先を行くと
黒海がある
<アヤソフィア:イスタンブールにあり>
ビザンティン帝国の最盛期を統治した皇帝ユスティニアヌス1世の命により、537年に完成したキリスト教の大聖堂。震災や略奪、モスクへの改築など、その波乱に満ちた歴史はイスタンブールの変遷を物語っている。現在は無宗教の博物館として公開されており、2つの帝国(ビザンティンとオスマン)、2つの宗教が同居する不思議な空間である。モスクに転用された後、偶像崇拝を禁じるイスラム教の教えに背くことから、モザイクの数々は500年もの間、漆喰で塗りつぶされていたが、トルコ共和国になってからの大修復によって、現在は「キリストを抱いた聖母マリア」のモザイク画などが、昔の姿をほぼ取り戻した。(写真6)
写真6:
アヤソフィア:
歴代のスルタン
によって建てられた
4つの尖塔が
異彩を放つ
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