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2009年11月

2009年11月28日 (土)

奥丹波での野菜収穫体験

奥丹波で、11月23日の勤労感謝の日に、秋の野菜収穫体験ができるイベントがあるという話を知人から聞き、家内と一緒に出かけました。

場所は、篠山市より少し北側の丹波市市島町にある「農園奥たんば」である。11時頃到着し、早速、農作業。経営者の青木千代江さんの指導で、大根、白菜、かぶら、にんじんなどをSimg_2351生まれて始めて収穫。好天にも恵まれ、紅葉に覆われた山々の麓にある農園での快い汗をかきながらの作業は楽しかった。

昼食は青木さんの手作りで、コシヒカリのおにぎり、野菜たっぷりの豚汁と丹波小豆のおぜんざいと、都会では味わえない新鮮な味覚を味わった。

帰りにはお米と、もち米のお餅で作ったおはぎを頂く。

帰途、奥丹波の地酒「山名酒造」を見学し帰路についた。

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2009年11月21日 (土)

伊賀の里・モクモク手作りファーム

三重県・伊賀の里に「モクモク手作りファーム」という少し珍しい名前の農事組合法人がある。先日、農工商連携のセミナーの一環として、同法人を見学する会合があり、受講者の一人として参加した。私としてはこのような農業関係の企業を訪問することは少ないので、大変新鮮で興味深く感じた。

Simg_2346現在、同法人は、農業・牧畜全般にわたって広く事業を行っている。1987年、伊賀の養豚農家19名でハム工房を始めたのがビジネスの起点だという。しかしハムを作ろうにも売れず、物を売るだけでは駄目だと痛感。転機となったのは、手作りウイナー教室を開いてからだという。この教室の評判が良かったこともあり、同社の名前は口コミで伝わった。その後、来客の増加もあって、食事をサービスする必要性もあり、レストランを開設するなど、事業の範囲を拡大した。1995年には現在の姿であるファクトリーファーム「モクモク手作りファーム」をオープンした。

現在は農場全般にわたっての事業を手がけている。自社保有の農場や近隣農家との連携により、そこで生産された米、野菜、ハム、ビール、ワイン、ジャージー牛乳などを販売すると共に、農産物を使った直営レストランの経営、宿泊ロッジの運営、農学舎の運営、などを行っている。お話をお聞きしたM理事さんは、同社の事業はあくまでもモノづくりであり、観光事業ではないと言い放っておられる。1996年には通信販売も開始した。

設立当初からそうであるが、営業的には口コミが頼りで、またこれで十分だというところが興味深い。事業にはつきもののクレームは殆どなく、顧客から愛される存在であるらしい。顧客からの手紙(感謝の手紙が多いという)が格好の従業員の教育材料となっているというところも面白い。

そこで働いている方の平均年齢は32歳と若さに溢れている。社内結婚も多い。学歴不要で誰でも応募でき、霞ヶ関に勤めていた元官僚の若者もいるという。事業の性格上、給料は高いといえないが、皆働き甲斐を感じているという。実際、彼等の様子を見ているとそのように感じた。

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Simg_2350
野菜の
直売場

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2009年11月14日 (土)

奈良・桜井 纒向遺跡

今年になって、明日香での万葉セミナーを聴講したことをきっかけとして、古代への興味をもった。それ以来、遺跡発見などのニュースには素早く惹きつけられる。

先日、邪馬台国の有力候補地とされている奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半(弥生時代末~古墳時代初め)の大型建物跡1棟が見つかったというニュースを聞いた。

Img

11月14日、15日には現地説明会があるというので、行こうと思っていたが、残念ながら他に所用があり都合がつかなかったのは残念だ。このような現地説明会には数回行ったことがある。最初は、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳に近い黒塚古墳で三角縁神獣鏡が発見された時だ。1998年1月のことだ。この時感じたのは考古学ファンが思ったよりも多いということだ。寒中というのにJR柳本駅から現地まで延々と行列が続き、現場にたどり着いたのは4時間後であった。

新聞の報道によると、今回の現地説明会には1万人以上の人出が見込まれ、JRは巻向駅までの臨時電車を運行し、桜井市も職員50人を派遣するという。

さて、この纒向(まきむく)遺跡の発見を機に、邪馬台国の所在地論争がまた活発化するのであろう。邪馬台国は、3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝」に記載されている。宮殿や物見櫓、城柵があったと記載されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土されておらず、畿内説の弱点とされてきただけに、今回の発見により、どのような論争に発展するか面白い。

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Photo_3

写真は
某新聞社
撮影
2009.11.14

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2009年11月12日 (木)

セキスイハイムにおける顧客満足経営

我が家はセキスイハイムにお世話になった。阪神淡路大地震の時、住んでいる箕面市はそんなに被害を被ったわけではないが、我が家は少々老朽化していたこともあって、この時をきっかけに建替えすることにして、セキスイハイムを選んだ。

セキスイハイムを選んだのは、地震に対し強い構造であったこと、建替え時間が短いという2点が大きな理由であった。特に後者は、その時の我が家族の種々の事情を考えると必須条件であった。

建替えてから感心したことは、セキスイハイムの顧客サービスの良さである。定期的な無料点検サービスがあり、悪くいえばひつこいくらいの“御用聞き”サービスがあった。セキスイハイムを選んだ他の人からも、同社のサービスの良さを幾度となく耳にした。悪い評判は聞いたことがない。

このようなセキスイハイムの工場を一度見てみたいと思っていたので、先日、営業担当の方にその旨、問合せしたところ、1年に一度、「お客様感謝祭」というイベントを行っているという。私が問合せするまでもなく、それまでもそのようなイベントが行われていることは、営業の方より我が家に何度も話があったのであろう。しかし多忙であったので、そのようなことを聞いても聞き流したいたものと思われる。

そこで、先日の日曜日、始めてセキスイハイム近畿が主催する大感謝祭に参加し、同社の奈良県にある工場まで行って来た。近くの営業所まで行くと、そこからはバスツアーのような雰囲気である。お弁当付きで、バスで送り迎えしてくれ、現地では工場見学、色んな景品が当たる抽選会や福引、リフォーム相談会、太陽光発電セミナー、リフォーム税制セミナー、また、地震体験コーナーでの地震体験、ユニット落下実験見学、奈良特産品販売コーナーでの野菜や果物の廉価販売、等々、子供さん連れの方も来ていたが、子供さんを連れて来ても充分楽しめる一日であった。

このイベントは2日間にわたり行われ、1日約800名もの人が、来場したという。バスも一日20数台もチャーターし、営業・技術人員も多数動員していた。これを顧客満足経営の点からみると、新規顧客のみならず、既存の顧客も大切にし、顧客のフォローを充分に行っている同社の顧客戦略が窺い知れるというものだ。マーケティング用語でいえばリレーションシップ・マーケティングのモデルを見ているように思われた。

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Simg_2313

工場見学

及び

リフォーム
事例展示
見学

Simg_2316

各地より
観光バス
で到着する
参加者

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2009年11月10日 (火)

酒田市からの講演依頼・酒田市に関する余談話

10月末、山形県酒田市商工観光部から講演依頼のメールを頂いた。ホームページなどを見て、私が適任だろうということで講演依頼のメールをお送り頂いたとのこと。早速、こちらからお電話を差し上げ、内容とか日程とかについて確認後、講演の企画書をお送りしてあったが、先日、開催が決定しましたとの連絡を頂いた。

日程は1月末、講演内容は『非製造業・製造業ともに役立つ「ものづくりにおけるマーケティングと新製品開発について考える」 ~売れるものをつくるには、今後、マーケティングを重視する考え方が大切だ~ 』ということに決まった。

酒田市にも中小企業が多く、それぞれ悩みを抱えておられるということであるので、少しでも地域の活性化のお役に立つことができればと思っている。今から、講演の準備だ。このような機会を頂いた酒田市に感謝。

余談であるが、酒田市といえば、日本三大急流のひとつ最上川が日本海に注ぐところだ。天下に聞こえた庄内米と紅花の集散地で、江戸時代から、海路、京大阪とを結ぶ北前船による貿易で栄えた。このあたりの様子は司馬遼太郎作の「菜の花の沖」にも描かれている。

また、偶然にも最近観た映画「おくりびと」のロケが行われた地である。映画での酒田市の情景が思い起こされた。

Okuri04_2 この映画は、2008年アカデミー賞外国語映画賞を始めとして数々の賞を受賞した。監督は津田洋二郎。本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子、吉行和子さん等の素晴らしい演技力が強く印象に残る映画であった。

元々は青木新門著「納棺夫日記」が原案であったが、本木さんと著者との話し合いの中で、原作とは別名の「おくりびと」で映画化されることとなり、ロケ地も原作の富山県から、ロケにより好適であるとのことで、山形県の酒田市が選ばれたとのことである。


更には、これも最近朝日新聞に掲載されていた岸洋子さんのことについても触れずにはいられない。それによると、彼女は酒田市生まれだそうだ。17年前にお亡くなりになったので若い方には知らない人も多いと思うが、東京オリンピックの頃、彼女の歌「夜明けのうた」が流行った。この歌はレコード大賞歌唱賞を受賞。一躍彼女の名が知られるようになった。今でも私の好きな歌だ。

・・・・・夜明けのうたよ あたしの心の きのうの悲しみ 伝えておくれ・・・・・・

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その後も「恋心」「希望」などの歌を世に出した。朝日新聞の記事によると、彼女は、故郷の自然を抜きに、私は存在しない、と述べ、心臓神経症?という難病を抱えながら、歌に生涯をかけ、求道者のように歌ったと、コメントされているが、今から思えばそのような歌い方だったなあ、と思い出される。





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2009年11月 6日 (金)

事業化交流マッチング総合展2009に参加して

今年も例年通り、11月初めの11月5日・6日、事業化交流マッチング総合展2009が行われた。この総合展は、経済産業省から認定を受けた企業(地域資源活用、農工商連携、新連携関連、等)を含む中堅・中小企業が新製品・新技術・新サービス等を一同に会し展示することにより、販路や取引先の拡大、連携先の発掘、人脈拡大などを促進し、ビジネスマッチングの成果に繋げることを目的としている。

今年の総合展は、副題として、「商売を創りこむ多彩なネタ・ジョイントコーディネーターが仕掛け人」というフレーズがついている。ジョイントコーディネーターとは、ビジネスマッチングの仲介をする役目をする者のことである。今回、私はその一人として、また出展者(事業化交流マッチングコーディネーター有志グループ)の一人として参加した。

コーディネーターとして参加していて思うのだが、毎年新しい発想を基にして、時の流れをうまく捉え、ニーズを敏感に察知した新しいビジネスの芽が生まれて来るのを見ていると新鮮な感じにさせられる。

今回、そのようなビジネスの芽と思われるものを展示している企業を探してみると、

1)健康志向という点では、オーラルケア用品、自然化粧品、消臭ソックス、抗カビ靴下、を製作する企業、 2)癒し志向という点では、インテリア掛軸、信楽焼と照明を合体させた屋外用照明、壁面緑化タイル、レーザー加工による装飾用ランプ、を製作する企業、ロハスなホテルを運営する企業、

3)多様なニーズに応えるという点では、種々の塗装に迅速に応える試作塗装ドットコムを運営する企業、市場リサーチなど販促支援ソフトを提供する企業、4)消費者のニーズを先取りするという点では、超極細筆、滑り止め塗料、等を製造する企業、5)その他、遊休農地を利用し、地域の活性化を図るため村民募集を行っている企業、などがあった。

これらの製品を見ていると、不況の中でも新規な製品を開発するために創意工夫している中小企業があるのだということを実感させられ、日本の将来もまだまだ大丈夫だという感じがする。

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事業化交流マッチング
コーディネーター有志
グループのブース

Simg_2298

事業化交流マッチング
総合展の風景

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2009年11月 4日 (水)

続・トルコの思い出

前回のブログでは、トルコの思い出として、親しく接してくれたトルコの人々について記したが、今回は現地のガイド・YAVYZさんが話してくれた内容を中心として印象に残ったことについて記す。

<トルコ全般に関すること>
トルコへの観光客は、年間2,500万人。ドイツ、ロシア、イギリス、日本の順に多い。国土は日本の約2倍で、人口は逆に日本の1/2。生育している植物については日本に見られるものが多い。特に松の木が多く、松に覆われている山が多かった。また、ピラカンサの木が多いのも目立った。チューリップはトルコが原産で国花となっている。チューリップといえばオランダが思い浮かぶが、トルから伝わったものだ。

絨毯はトルコが原産で、イラン(ペルシャ)絨毯はトルコから伝わったという。トルコ絨毯は、2重結びで自然彩色で編み目が細かいのが特徴だ。青いトルコ石は、ノアの箱舟で有名なアララト山が原産地。青(blue)は天の色を表し、イスラム化以前に原住民が空の神を崇拝していたことに通じるらしい。トルコ料理はフランス料理、中華料理と並ぶ世界3大料理のひとつ。料理の数も多い。茄子料理だけでも40種類あるという。

国民の約99%がイスラム教(スンニ派)であるが、宗教色はイランなどと比べると弱い。これは建国の父、ケマル・アタチュルクが定めた世俗主義に起因している。

トルコの歴史:現在、トルコが位置する地域には、紀元前6000年頃から人が住み始め、鉄を使ったといわれるヒッタイト人が、最初に王国を築いた。その後、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)に支配される。もともとは中央アジアの遊牧民(6世紀頃建国の突厥)であったトルコ民族は、9世紀後半に中央アジアに移動し、セルジューク朝を開く(首都はコンヤ)。そして小アジアにも進出してビザンティン帝国と対峙し、これを破った。その後、オスマントルコ帝国が覇権を握り、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、ウイーンにも及び大帝国を築いた。しかしオスマン帝国は次第に衰退し、第一次世界大戦の結果、領土を削られるなどしたが、オスマントルコの将軍であったムスタファ・ケマル・パシャの努力の結果、オスマントルコのスルタン制を廃止するなど、国内の民主化を進め、アンカラを首都とするトルコ共和国を樹立した。

<トロイ遺跡>
ホメロスの叙事詩「イリアス」に出てくる「トロイ戦争」で有名な伝説上の都市と信じられていたが、これを実在の都市であると、ひとり信じ続けてきたドイツの考古学者シュリーマンが私財を投げ打って発掘を続け、1870年、ついに遺跡を発掘した。(写真1)

Simg_1836

写真1:
トロイの木馬
(復元されたもの)

<エフェソス都市遺跡と聖母マリアの家>
小アジア最大の古代都市遺跡群。紀元前11世紀、ギリシャからやってきたイオニア人によって建設された都市。この都市の黄金期はローマ帝国支配下の紀元前130年頃。当時はローマ、アレキサンドリアに次いで3番目の都市として栄えた。この都市は、キリストの死後、使徒ヨハネが聖母マリアを伴って移り住み、余生を過ごした地としても知られている。聖母マリアの家は18世紀末、ドイツ修道女アンナ・カテリーナが天啓を受け、聖職者たちによって発見された。(写真2)

Simg_1856

写真2:
聖母マリア
の家

<カッパドキア>
カッパドキア地域には、非常に珍しい形のキノコ岩、谷、クレパスが見られる。他にこのような風景が見られるところは世界中にない。紀元後4世紀にビザンティン帝国の領土となってから、この地方に移住して来たキリスト教徒によって岩窟住居が作られた。11世紀に入るとイスラムの支配下に置かれたが、カッパドキアはアラブからの攻撃の砦となり、住民は身を守るために多くの洞窟を掘り、頑丈な石の扉の下に隠された地下都市なども建設した。
カッパドキアはきれいな「馬の国」という意味。紀元前13世紀、ヒッタイト人はここで最初にワインを作った。また、当地でカエサルが「来て・見て・勝った」という言葉を発したところだという。当地で、ガイドさんが知り合いの家庭に連れていってもらった時の写真は、前回のブログに掲載済み。数年前、ウルルン滞在記で竹内結子さんもこの家庭にお世話になったという。(写真3)

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写真3:
カッパドキア
の風景

<アタテュルク廟>
トルコ共和国創立者ムスタファ・ケマル・アタテュルクが眠る霊廟。随所にガードマンが配置されていた。霊廟の前面には「若者に告ぐ」の言葉が刻まれている。子供達を連れた先生の見学が絶えないそうだ。トルコ国民は彼をアタテュルク(トルコの父の意味)と呼ぶ。彼は独裁者でなく、国民に愛された。身内に私財を残さず、政治権力を引き継がなかった。(写真4)

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写真4:
アタテュルク廟:
霊廟を前にして
警備の人と
撮った写真は
前回のブログ
に掲載

<イスタンブール>
イスタンブールは、古来より歴史と文化の大舞台であり、アジアとヨーロッパにまたがる東西文明の接点であり、交通の要衝であった。トルコ最大の都市で、様々な人種、様々な文化が混ざり合っている。イスタンブールはボスポラス海峡で、アジアサイドとヨーロッパサイドに大きく分けられる。ボスポラス海峡は黒海とマルマラ海を結ぶ全長35kmの海峡。海峡沿いには、ブルーモスクやアヤソフィアなどの宮殿や寺院、城塞、別荘などが立ち並ぶ。アジアとヨーロッパの二つの世界を見ながらのクルージングは東西交流の歴史を思い出させ感動的だ。(写真5)

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写真5:
ボスポラス海峡:
左側はヨーロッパ、
右側はアジア、
この先を行くと
黒海がある

<アヤソフィア:イスタンブールにあり>
ビザンティン帝国の最盛期を統治した皇帝ユスティニアヌス1世の命により、537年に完成したキリスト教の大聖堂。震災や略奪、モスクへの改築など、その波乱に満ちた歴史はイスタンブールの変遷を物語っている。現在は無宗教の博物館として公開されており、2つの帝国(ビザンティンとオスマン)、2つの宗教が同居する不思議な空間である。モスクに転用された後、偶像崇拝を禁じるイスラム教の教えに背くことから、モザイクの数々は500年もの間、漆喰で塗りつぶされていたが、トルコ共和国になってからの大修復によって、現在は「キリストを抱いた聖母マリア」のモザイク画などが、昔の姿をほぼ取り戻した。(写真6)

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写真6:
アヤソフィア:
歴代のスルタン
によって建てられた
4つの尖塔が
異彩を放つ

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2009年11月 3日 (火)

トルコの思い出・親しく接してくれたトルコの人々

10月初め、トルコを旅した。イスタンブールよりスタートし、トロイの遺跡、エフェソス遺跡、パムッカレ、コンヤ、カッパドキア、アンカラを経て再びイスタンブールに戻るルートであった。その旅程を通じて感じたのはトルコの人たちの親日的な態度であった。旅行前からトルコが親日的であることは話に聞いていたが、トルコに来て見てそれを肌で感じた。

通常、私は旅行を終えた時、紀行から書くことにしているが、今回は先ずトルコと日本の友好的な関係と、つかの間のトルコ訪問であったが、旅行中快く接してくれたトルコの人々との触れ合いの一部を写真によって残しておきたい。

それでは、日本とトルコとの間には、どのような関係があって、トルコの人たちが日本を好いてくれるのであろうと思い、調べて見ると何人もの方が日本とトルコのそのような友好的な関係について触れられている。その中で、日本・トルコ協会の大曲さんという方は、次のように述べられている。
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トルコはフィンランド、ハンガリーと並び、世界一の親日国だといわれている。トルコでは日本関連の報道が多く、また、「世界で一番好きな国はどこか?」という世論調査では日本が必ず1位に選ばれるほどである。

このトルコ人の親日感情は、1980年のトルコ軍艦エルトゥール号の乗員に対する和歌山県串本町民の懸命な救助活動に対する感謝(注1)、トルコ人と日本人が中央アジアから東西に分かれて移住していった同じアジア系であるという同族意識(注2)、トルコの宿敵ロシアとの日露戦争での日本の勝利(注3)、敗戦国日本が世界の経済大国へ成長したことへの尊敬等が主な理由だといわれている。

<筆者脚注>
(注1)1980年のトルコ軍艦エルトゥール号の遭難事件:オスマン帝国皇帝が小松宮殿下のトルコ訪問の答礼として、オスマン提督らをエルトゥール号で派遣した。その帰途で台風に遭遇し、和歌山県串本町樫野崎沖で座礁した。串本の漁民は献身的な救助活動を行い、約600名の死者を出した大惨事であったが、生存者69名は日本軍艦によって送り届けられた。トルコでは今でもそのことが語り継がれており、トルコの学校教科書にも取り上げられ教材となっている。

(注2)中央アジアで暮らしていたトルコ人は、6世紀にモンゴル高原を中心とする遊牧帝国・突厥を築いた。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えている。

(注3)日露戦争における日本の勝利は、瀕死状態のオスマン帝国にとって、大きな希望を与えたといわれている。当時、東郷、乃木 等の名前を付けるトルコの人が続出したといわれている。

ところで、1980年のイラン・イラク戦争の時に、イランから脱出できずにいた日本人のために救援機を飛ばしてくれたのもトルコだ。明治維新に倣い国内改革を断行した、トルコ共和国建国の父である初代大統領ケマル・アタテュルクが、明治天皇を崇拝し、陛下の肖像画を書斎の机に飾っていたという有名な逸話もある。
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というようなわけで、このような歴史的な出来事が背景にあることを知った。

トルコ旅行中、幾度かトルコの人々に話しかけられたり、また、一緒に写真に収まるようお願いした時、気持ち良く応じてくれたが、下記にそれらの写真の幾つかを掲載しておきたい。

写真1→ バスで移動中立ち寄ったレストランで:可愛い3人の娘さんを連れた母親がおられたので、家内が一緒に撮影を依頼したところ応じてくれた。この時は英語での会話が成立した。

写真2→カッパドキアの洞窟家屋にて:ガイドのYAVUZさんが知り合いの民家にツアー一行を連れて行ってくれた。そこで、その家のおじさん、おばさん(中央)と懇談後、一緒に撮影。この家の奥さんは日本が少し話せた。

写真3→アンカラのアタテュルク廟で、警備隊員の男性と一緒に撮影。普通は一緒の撮影は駄目だそうだが、無理にお願いしたところ、応じてくれた。

写真4→イスタンブールのレストラントにて:女友達と一緒に食事をしていた一人のトルコ女性が、レストランの食事はどうだったかと、日本語で話しかけてくれた。それをきっかけに話が弾んだ。彼女は日本で9年間滞在し、立命館大学やトヨタで日本的経営を学んだという。現在、Kircilar社でマーケティングを担当している。彼女の名はZehra Yurdsever さん。帰国後、この写真を送った。最初日本語でメールを送ったが文字化けしたので、英語で再送したところ、上手な英語でのメールを返してくれた。

写真5→今回の旅行を通じてガイドしてくれたYAVUZ(ヤブズ)さん。アンカラ大学・日本語学科卒業の若者。トルコに関するあらゆること、社会・文化・歴史・産業・日常生活などを教えてくれ大変良い勉強になった。日本のことについても非常に良く勉強されている。


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写真1

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写真2

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写真3

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写真4

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写真5

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2009年11月 2日 (月)

小学校同窓会は楽しく閉幕

先日の土曜日、堺市立浜寺小学校のクラス同窓会が大阪・難波・法善寺横丁近くにある「フェローズ」で行われた。14名が参加。今回、幹事の一人として、同窓会の企画を行って来たが、無事完了してほっとしたところ。終了後の挨拶状も発送完了。

我々のクラスは全員で56人。その内、お亡くなりになった方が4人。住所や電話番号が判明しており、連絡が取れる方は42名である。遠方にお住まいの方や法事やその他の会合でお忙しい方などがおられて、もっと多くの方に来て頂きたかったが、少人数ながら楽しいひとときを過ごすことができた。

物故者への黙祷に続き、校歌の斉唱をO氏のリードで行った。皆様、校歌を忘れてしまっていたが、歌い始めると何とか思い出し、懐かしい思いに耽ることができた。もっとも我々の頃の校歌は旧校歌となっており、学校のホームページを見ると、今は時代を反映した新校歌に変わっているのが淋しい。

その後、懇談をしながら各人の近況報告と続いた。まだ現役として働いておられる方もおられるが、色んな趣味や旅行、孫の面倒などで忙しい人、ボランティアで頑張っておられる方、など、人それぞれ元気に活躍されているのを聞くと自分も元気を頂いたような気持になった。欠席者の多くの方からは、心のこもった近況を知らせて頂き、次回には是非出席したいという方もおられた。

Simg_2294c_2 今回、私の方で、昔の卒業写真に名前を付して、顔と名前を一致させて見やすくしたものや現在の小学校近辺の写真などを、プロジェクターで映してご覧頂いたが、皆様、なつかしくご覧頂いた様である。

カラオケでは、我々の時代に歌われたもの、例えば、越路吹雪や石原裕次郎、水原弘の歌、最近のものでは、「千の風になって」などの歌が歌われた。

最後に、幹事の一人、Yさんが昔、NHKのラジオ番組に出場し、皆で歌ったという童謡「みかんの花咲く頃」を全員で歌って締めくくり、次回2年後の開催日を決め、再会を約束した。

その後、心斎橋にあるコーヒー店「英国屋」で懇談。5時間半に亘る同窓会は、皆様大いに語り、大変思い出深いものになった。

最後になるが、フェローズというお店は、料理も立派で割安感があり、店員の方のサービスも行き届き、更にカラオケやプロジェクターを使えることもあり、次回も使ってみたいと思うような店で、皆様にも好評であった。英国屋も雰囲気が良く、皆で懇談するのに最適の場所であった。

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