« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010年1月

2010年1月24日 (日)

JALの再生

JALは最終的には会社更生法の適用となったが、2006年西松社長が社長を引き継いでからは、親方日の丸的な体質を脱すべく大変な努力をされて来たことは確かの様だ。社長就任後、西松改革を実施。現場主義に基づき、自ら現場に出てJALの再生を図るべく、社員に再生への協力を訴えた。これに対して各現場ではQCサークル的な改善チームができ、改善が推し進められた。

しかし、不幸にも2001年の同時多発事件、2009年のリーマンショックに始まる世界不況により顧客が激減し、赤字に追いやられた。

西松さんは、年金の減額など、社員に協力を求め奔走した。しかし自民党政権時代に無理押しされた地方空港への採算を度外視しての運行などにより、経営を立ち直らせることができなかった。西松さんにとっては不幸なことであった。顧客のための経営を志向しながら道半ばにして去ることは無念であろう。引合いに出すわけではないが、JR西日本の旧経営者の態度を考えると非常な違いだ。

JALも意識改革を図り、何とか自分の会社のことは自分でやろうという意識のある方々が増えて来たようである。何とか立ち直って頂けるものと期待したい。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東大阪・まいど衛星・打上げ成功物語

昨年の1月23日、H-ⅡA人口衛星が打ち上げられ、東大阪がその喜びに沸いたのは記憶に新しい。打ち上げ後「まいど1号」と命名された。

先日、この人口衛星の開発に当初から携わって来られた㈱大日電子代表の杦本日出夫さんの講演を聴いた。講演会の主催は大阪販売士協会。テーマは、東大阪のおっちゃんと若者の夢・プロジェクト「まいど衛星」打ち上げ成功物語~「やりました夢の実現! 「まいど衛星」自社経営に活かす衛星開発」であった。杦本さんは現在、東大阪宇宙開発協同組合理事長をされている。

この宇宙からの雷雲観測という使命を担った人口衛星の開発過程は、弱小な中小企業の方が集まってプロジェクトをまとめていく難しさとそれを打破していく努力の連続であり、傾聴に値するものであった。

当初プロジェクトの話があって集まった企業は100社余り、最終的に残ったのは13社であった。そして自分達だけではできないと痛感し、宇宙航空研究開発機構に協力を依頼することから始まった。その後、大阪府大や龍谷大、大阪大学から協力を受けた。

杦本さんは、苦労したこととして、幾つかのことを挙げられていた:衛星についての勉強を約1年間、本業の仕事が終わってから夜、皆で勉強したこと、皆が親分気質をもった人なので調整が難しかったこと、宇宙環境(真空、高温、放射線、振動)に耐える部品の開発が大変で試行錯誤を繰り返したこと、それらの部品が高価であり失敗が許されなかったこと、等々。

Simg衛星に用いられたのは、既存の枯れた技術であったという話が興味深かった。実績のない新規の部品は人口衛星には向かないということである。

さて、このような開発を通じて、様々な経営的な成果が得られたという。各自のモチベーションアップ、整理・整頓・躾などの基本を徹底することによる仕事のムダの軽減、コミュニケーションの改善、等。 これらによって3K(感謝、気遣い、謙虚さ)の社内風土が醸成されたという。

最後になるが、杦本さんは、ものづくりの大切さを子供達に知ってもらうために「人口衛星まいど1号」の絵本を作られた(写真添付)。私も買い求めたが、なかなか上手くできていると感じた。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2010年1月19日 (火)

民主党の自浄力に期待

政権交代から3ヶ月経過した今、民主党は米軍基地問題、子育て支援策、等の重大な課題を抱えながら、一方では小沢問題も抱えて苦しんでいる。残念なことだ。

検察による捜査については色々と賛否両論がありそうであるが、小沢氏が何らやましいことがなければ、ちゃんと事情聴取に応じるべきではないか、そして国民に説明するべきであると思う。小沢氏は、国民が総選挙によって民主党を選んだので、そのことは解決済みであると発言しているが、そんなことはないだろう。国民は自民党の金権体質から脱却して欲しいからこそ民主党を選んだのであって、全面的に同党を支持したわけではないと思われる。

それはそれとして、一番の問題は民主党内の民主主義の問題である。組織にはワンマンが独裁的に権力を握り、幅を利かせているところもあるが、最近ではこのような組織は、はやらず、永続しないのが普通である。古代ローマのような時代にも、その帝政時代には、民衆の支持を得るべく、良心的な皇帝は必死で努力した様である。

渡部氏や仙谷氏、前原氏、等のごく一部の方が、一応自分なりの意見を述べているから、何とか民主党にもこのような人もいるんだなあ、ということで民主党の支持を継続している人も多いと思う。これが誰も異論を唱えなくて、小沢氏を批判すると干されるだろうとびくびくして、だんまりをきめこんでいる様だと、それこそ大政翼賛会に繋がり、国民は同党を見捨てるだろう。とにかく独裁者の存在は民主党のイメージを傷つける。

民主党の各々のメンバーが本来の良心と正義感を取り戻して、ひとりの人物の独裁を排して、自由闊達な雰囲気をつくり出し、早く本来の未来を築く仕事にとりかかって欲しいものだ。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

酒田市でのセミナー

昨年末、酒田市商工観光部から依頼頂いたセミナーの開催が近づいて来た。12月末から少しずつ内容を検討してきたが、ようやく資料の原稿ができあがり、本日、主催者に送付。

Simg_3

立派なチラシもつくって頂いた。山形県地方は雪が降り続いているそうで、若しも到着時間が遅れるとご迷惑をかけるので前日に当地に到着するようチケットを手配した。
現在、講義の進めかたについて色々と思案中。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

デフレスパイラル

今我が国は底なしのデフレが続いている。デフレスパイラルという状態だ。景気が悪く所得水準が下がってきたことや将来に対する不安もあり貯蓄を優先しモノを買わなくなっているからである。従ってモノが売れないから企業はこぞって?商品の価格を下げる。

そして大規模な企業が安売り競争に参入すれば、例えばユニクロやヤマダ電機のような大規模な企業が、従来は適正な価格(消費者も納得し、企業も利益を得る価格)と思われていた商品を格安価格で売り出すと、消費者は皆、それに群がり、今までの適正価格が下がり、それが適正価格になってしまう。大規模な企業であればそれで何とかやっていけるかもしれないが、小規模な企業は、その煽りをくってやっていけなくなる、倒産の危機に陥る。

デフレについて言えることは、我々は消費者として生きているだけでなく勤労者としての立場を忘れてはならないということである。モノが売れない→売れないから商品の値段を下げる→企業の利益が減り社員の給与カットや失業が増加する→更に景気が悪くなりモノが売れなくなる、という延々としたデフレスパイラルを断ち切るには、我々の意識を変えることが必要なのかもしれない。即ち余りにも格安に走る企業を戒め、大小の様々な企業が共存共栄できるような気運をつくり出せるような世論を形成できる我々の倫理的・文化的な高揚が求められるのではないと思う。

ところで、これはある経済専門家の方の話だが、国の借金(国債やその他の借入金:現在約864兆円)が増えるに合わせて消費者物価指数が上がっていけば経済のバランスがとれているといえるが、現在は急激な落下を続けているから問題だといっておられた。国の借金が年々増えているということは、政府はここしばらく随分お金を供給して需要を強制的に生み出してきたということだ。このように国が借金をしていなかったら、もっと深刻なことになっていたということだ。むつかしい問題だ。

 by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月10日 (日)

茶器に見る朝鮮半島と日本の文化交流

韓流ドラマが日本に受け入れられ、依然として人気を維持していることは両国の友好のために喜ばしいことである。このような文化交流が今後も引き続いて行われることにより過去のわだかまりを捨てて両国の関係が改善されることを願うものである。

ところで茶道の話になるが、日本の茶道は室町時代に「書院の茶」として始まったが、その後、室町時代の初期から安土桃山時代にかけて「わび・さび」を重んじる「草庵の茶(わび茶)」へ変化していった。それにつれて茶器も唐物(中国製)を中心とするものから高麗物(朝鮮半島製)や和物(日本製)がふさわしいというように茶道の価値観が変化していったと伝えられている。わび茶といえば千利休が思い浮かぶ。

高麗茶碗もこの流れとして日本に伝わった。その中の「井戸茶碗」は朝鮮半島では、李氏朝鮮時代に作られたもので、日常、庶民の食事用として用いられていたものらしい。それが「わび茶」にふさわしい素朴で力強い味わいがあるものとして注目された。お茶の「緑」が地味な褐色の茶碗の中で映えて見えるところがよいらしい。桃山時代の「山上宗二記(やまのうえそうじき)」には「井戸茶碗、これ天下一の高麗茶碗」と評されている。一方、朝鮮には茶道の習慣がなく青磁に代表されるような均整のとれた美しいものが好まれたという。

Ohido_kizaemon このように朝鮮半島では日の目を見なかった「井戸茶碗」が日本で脚光を浴びたということは大変興味深い。現在、韓国でもこのことが注目され、この茶碗の製造方法についての研究がなされているどいうことである。このように日韓両国がお互いの文化を認め合うことが今後とも必要である。

「喜左衛門井戸」
大井戸茶碗(国宝)
京都・孤蓬庵

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月 8日 (金)

世界市場における日本企業の強みと弱み

日本企業が生み出す製品の品質及び信頼性は、現時点においても総じて世界的にみて高いということは言うまでもない。日本企業は優れた部品や完成品(システム製品)を世界に供給している。しかし、部品と完成品の割合を見てみた場合、残念ながら完成品よりも部品の方を多く世界に供給している。

家電などの電気製品や自動車などは確かに完成品として多く輸出されているものの、日本企業全体として眺めた場合、部品として輸出されるものが多いのだ。

例えば、携帯電話については、世界の消費者の要求に応えられないような複雑・多機能な構造で、日本の消費者でも無駄な機能が多いと思うような製品をつくり、フィンランドのノキア社などとの競争に敗れ、世界市場から取り残された。しかし携帯電話に使われる振動版のような部品の多くは日本企業が供給しているものなのだ。ある意味では下請に甘んじているのだ。

また最近、環境保護で脚光浴びている風力発電システムにおいても、風車の回転を発電機に伝える増速用歯車に使用されるベアリングなどの部品は、日本企業は20%以上を供給している。しかし、完成品としての風力発電システムの割合は微々たるものである。

なぜこのようなことになるのであろうか。これは多分に政治との係わり合いがあるものと思われる。我が国としてどのように世界に貢献していこうかという政府のビジョンが欠如しているからである。風力発電にしても、世界的に優れた技術を誇る環境保護技術を育成して、世界に貢献しようとする意欲が政府のビジョンにまだ描かれていないということのように思われる。従って企業としての意欲が削がれる。このことは太陽電池パネルについても言える。2005年において47%を占めていた日本の世界シェアは、2008年には18%にダウンしている。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

五木寛之「親鸞」を読んで

昨年の年の瀬、正月に読もうと買い求めた五木寛之さんの「親鸞」を先日読み終えた。五木寛之さんのこの種の著書として、若者向きに書かれた「蓮如物語」についても以前読んだが随分感銘を受けた。

51eudqiefel__ss400_さて、この「親鸞」の読書後の感想だが、親鸞上人の生きたその時代が、現代の混沌とした世の中の様子と重なり、その中で仏道を極めるため苦労を重ねる親鸞の真摯な姿が想像されしんみりとした気持ちになった。親鸞が述べたことを記した「歎異抄」に書かれてある難解な内容が、これから再読すると少しは理解できるように思える。

この物語は親鸞の若い時代をとらえている。仏教伝来以来、仏の道は国を守る(鎮護国家)もの、朝廷の安泰を守るもので、所詮は貴族や権力者のためのものだった。豊年を祈ったり、流行病をとめたりすることも単に国家安泰のためであり、民衆の苦しみを和らげるためのものではなかった。そして僧や寺は国が管理し僧は官許の身分として任命された。

親鸞は、一度は比叡山に入山するが、その後、官僧としての栄達の道を捨て、下山。法然上人の門下に入り、末法の世(広辞苑:仏の教えがすたれ、修業するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る時期)にあえぐ人々を救うために立ち上がった。極悪人も本当に救われるのか、というような課題を抱え、悩みながら生きて行く。物語では妻である恵信と手を携えてお互いにいたわり合いながら仏業を極めていく姿も描かれており、殺伐とした物語の場面に花を添えている。他に架空の人物を数人登場させ、物語を面白くし、最後まで一気に読んでみたいという気持ちにさせられる。

私も一応は“仏教徒”であるが、仏教徒とはいいながら、もうひとつしっくりといかない“おぼろげな仏教徒”である。多くの我が国における仏教徒は、このように感じているのではないかと思う。キリスト教徒やイスラム教徒が信者の心をとらえているのとは、かなりの違いだ。我が国の仏教は、人の心の問題には答えることができず、葬儀のための宗教に成り下がってしまった。

親鸞や蓮如以降、仏教界において現代風に仏教を変え、時代に即応させていく、例えば経典の現代語訳などにより、分りやすい形にして伝えて行こうとする努力がなされなかったのはなぜだろうか。また、なぜこのようなことを行う人物が現れなかったのであろうか。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月 2日 (土)

人間的な絆のある社会を

前回の記事で、中東の国ドバイは、このままでは自らが手に染めた金融資本主義によって将来的には崩壊の危機に瀕しているということを述べたが、同じようにアメリカ追随の金融立国の道を選び国家崩壊の危機に陥った国がある。アイスランドである。

しかしアイスランドの対応は素早かった。賢明なアイスランド国民は、いち早く金融資本主義が国民の幸福をもたらすよりは、国民相互の絆を消滅させ、社会を崩壊させるものと断定し、新しい政府を選んだ。そして新首相は、新自由主義・強欲との決別を宣言。現在はまともな国家として再建途上であると聞く。

我が国においても、村上ファンドの村上氏のように、儲けることは悪いことですかと、法外な利益、いわゆる泡銭(あぶくぜに)を得ながら平然とこのように言ってのける強欲な人物も存在した。

今後、日本のみならず世界は、マイケルムーア監督が言うような一握りの富める者が殆ど全ての富を独占しているような社会から脱却することを目指すべきであろう。豊かであることに越したことはないが、最低限貧しくても皆が協力し合って生きて行く社会、絆で結ばれた社会が必要だ。例えばアジアにあるブータンは、国としては貧しい。しかし経済的に貧しいだけであって、皆が助け合って生きており、皆が幸福感を感じている。

ベルリンの壁の崩壊により自由を得た旧東ドイツ国民の中には、最初は歓喜で満ち溢れていたが、今は絶望的な状態であると、“昔は思想の自由がなかったが何とか生活できたので昔の方がましだ”と昔を懐かしむ人がいるという。淋しい限りだ。これらの人にこのようなことを感じさせるのは格差の存在だ。このような悲しい現実がないようにして欲しいものだ。

日本においても、若い人が希望をもって生きて行ける世の中、貧しくても努力すればなんとかなると楽観的に考えられる世の中。苦労はするが何とか学べ、適当な時期に結婚もでき子供を育てることができる世の中、になって欲しいものだ。民主党政権も、将来を担う若者に希望を与えて欲しい。

このような社会を実現できる社会システムは確立されていないが、今後、資本主義の枠組みの中で、政府がやるべきことと民間がやるべきことをしっかりとわけてやることが必要であろう。小さい政府か大きい政府とかいう議論があるが、少なくとも民間ではカバーできない陽の当たらないところには、利潤を度外視して、資本を投入すべきなのだろう。

その中で、最も大切なことは自分だけが儲かればよいと考えたり、自分だけが幸せになればよいと考えたりするような人間をなくすような教育。社会倫理の教育であろう。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »