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2010年1月 8日 (金)

五木寛之「親鸞」を読んで

昨年の年の瀬、正月に読もうと買い求めた五木寛之さんの「親鸞」を先日読み終えた。五木寛之さんのこの種の著書として、若者向きに書かれた「蓮如物語」についても以前読んだが随分感銘を受けた。

51eudqiefel__ss400_さて、この「親鸞」の読書後の感想だが、親鸞上人の生きたその時代が、現代の混沌とした世の中の様子と重なり、その中で仏道を極めるため苦労を重ねる親鸞の真摯な姿が想像されしんみりとした気持ちになった。親鸞が述べたことを記した「歎異抄」に書かれてある難解な内容が、これから再読すると少しは理解できるように思える。

この物語は親鸞の若い時代をとらえている。仏教伝来以来、仏の道は国を守る(鎮護国家)もの、朝廷の安泰を守るもので、所詮は貴族や権力者のためのものだった。豊年を祈ったり、流行病をとめたりすることも単に国家安泰のためであり、民衆の苦しみを和らげるためのものではなかった。そして僧や寺は国が管理し僧は官許の身分として任命された。

親鸞は、一度は比叡山に入山するが、その後、官僧としての栄達の道を捨て、下山。法然上人の門下に入り、末法の世(広辞苑:仏の教えがすたれ、修業するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る時期)にあえぐ人々を救うために立ち上がった。極悪人も本当に救われるのか、というような課題を抱え、悩みながら生きて行く。物語では妻である恵信と手を携えてお互いにいたわり合いながら仏業を極めていく姿も描かれており、殺伐とした物語の場面に花を添えている。他に架空の人物を数人登場させ、物語を面白くし、最後まで一気に読んでみたいという気持ちにさせられる。

私も一応は“仏教徒”であるが、仏教徒とはいいながら、もうひとつしっくりといかない“おぼろげな仏教徒”である。多くの我が国における仏教徒は、このように感じているのではないかと思う。キリスト教徒やイスラム教徒が信者の心をとらえているのとは、かなりの違いだ。我が国の仏教は、人の心の問題には答えることができず、葬儀のための宗教に成り下がってしまった。

親鸞や蓮如以降、仏教界において現代風に仏教を変え、時代に即応させていく、例えば経典の現代語訳などにより、分りやすい形にして伝えて行こうとする努力がなされなかったのはなぜだろうか。また、なぜこのようなことを行う人物が現れなかったのであろうか。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

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