蓮池薫さんへのインタビューを聴いて
NHKテレビ番組で、三宅アナウンサーによる蓮池薫さんへのインタビューを聴き、想像を絶する異国での苦難に満ちた人生に驚かされた。最近、蓮池さんは「半島へふたたび」(新潮社)という本を出版されているが、今回のインタビューはそれに関連したものであった。
今から24年前の学生時代、蓮池さんは、新潟県の柏崎に帰省していた折、交際していた女性(現在の奥さん)と海岸を散歩していた時、一緒に拉致された。拉致されたのは別々であったので、奥さんがどのようになったかはその時は分らなかった。
蓮池さんは4人組の頑強な男に襲われ殴られ、袋に入れられ、船に乗って連れ去られていく時の状況を克明に記憶している。陸の明かりが次第に遠ざかるのを見て一体何が起こったのか分らずパニック状態であったという。
北朝鮮に着いて驚いたのは、収容所近くのアパートの照明が非常に暗い(おそらく20W程度の照明)ということだった。
言葉が全く分らないので、相手が何を言っているのか理解できず、ここで生きて行くにはまず言葉を覚えるのが大切だと考えた。語学の教科書があるわけでなく、世話をしてくれる者に筆談で聞いたり、テレビを観たりして少しずつ覚えた。本音で話せる相手がいないので、表情を見て相手が何を考えているかを推察できるよう努めた。そうしている内に相手の表情が読めるようになって来たという。
一番の苦痛は、絆を失ったことだという。友人や家族などとの絆が全くなくなり、本音で話し合う者がいなくなったことは非常に辛かった。ある時、前触れなく誰かと結婚せよとの命令が下り、会ってみると一緒に拉致された女性(現在の奥さん)であった。ここで唯一の絆が回復し、生きて行く希望を持てるようになる。そのうち子供もでき絆が更に増えた。
子供が成長するにつれ、別の悩みが生じる。反日教育が徹底している当地で、自分が日本人であることを子供に知らせることはまずい。両親が日本人であると子供が苛められる。そこで自分達は在日の韓国人であり、仕事で当地にやって来たと、子供には言い通したという。
当地での生活は大変だった。特に食と住。食については、食糧不足や日本の食べ物(納豆や梅干など)への郷愁であった。納豆や梅干は自分達で工夫してつくった。冬の寒さも大変だった。暖房の燃料がなくなった時は家の中でも零下であった。蒔きを拾って来てはオンドルのようなものを工夫してつくり寒さを凌いだ。
そして一時帰国。続いて子供さんも日本へ。幸いに日本に帰って来たが、日本での生活が不安だった。市長さんが市役所への勤めを勧めてくれたが、最初は勤めるのが不安だった。北の回し者だと警戒されて苛められるのではないかと。しかし、皆親切に対応してくれ、その心配は間もなく払拭された。
蓮池さんは今、友人の紹介で翻訳の仕事にありつき、翻訳家として活躍されている傍ら、地元の大学で韓国語の講師をされている。初訳書は「孤将」。秀吉の朝鮮侵略戦争の時、勇敢に立ち向かい朝鮮を救った英雄・李舜臣についての物語である。この翻訳をする時も、日本との関係を考えて心配したという。秀吉のことを悪く書いてあるので日本人の反感を買うのではないかと。
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今後、拉致問題に関して、政府に望むこととして、絆を意識して問題を解決して欲しいと言っておられた。たとえば、ある一人の者を救出する場合、その者と絆を持つ家族とか友人のことも考えてやって欲しいと。人間は絆なしでは生きていかれないというのは蓮池さんの信条だ。
by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/
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