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2010年12月

2010年12月27日 (月)

スペインにある高山右近のモザイク壁画

高山右近のモザイク壁画がスペイン・バルセロナ近郊の町マンレーサ(Manresa)にあるイグナシオ聖洞窟教会にあることはブログ(あの高山右近のモザイク画がスペインの聖堂に!)に記載した通りです。

その後、スペイン・バルセロナで建築事務所を構えておられる鈴木裕一さんより、そのモザイク画をお送り頂いたので掲載します。(写真上は全体画像、下は右近単独画像)

中央右側が右近。JUSTO UCANDONO (正義の人 右近殿)と書かれている。そうそうたるメンバーの中で刀を差し、草履を履き、祈りを捧げている。

中央左側はカール5世の庶子でレパントの海戦を勝利に導いたドンファン・デ・アストリア、一番左側は、ダルタルニャンの三銃士王様として有名なフランスのルイ13世。
(鈴木裕一さんのブログでの説明文を引用)
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2010年12月26日 (日)

文明の発展が文化を破壊しないように!

昨年から今年にかけて古代への想いに駆られてしばしば奈良を訪れた。昨年は明日香村を訪れ、高松塚古墳、橘寺、天武・持統天皇陵、石舞台古墳、飛鳥寺、更には藤原京や大和三山などを見て回ったが、感心したことは、明日香地区には高層建築や広告塔が見当たらないことだった。

これは村の条例でこれらのものが規制されているからだという。お蔭で万葉文化館が主催する万葉ウォークなどでは、古代にタイムスリップして、万葉の時代に思いを馳せることができた。

そして、今年は平城遷都1300年祭大和路まほろぼウォークに参加した。奈良の街を通り抜け、猿沢の池や東大寺、若草山などを見て20kmを完歩したが、この時も視界を遮る不愉快な建築物や広告塔を殆ど見かけなかったので、大変くつろいだウォーキングを楽しむことができた。

昨日、新聞を読んでいると、奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者である薮内佐斗司さんが次のように述べられていた。
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奈良は空襲や大規模再開発の経験がなかったゆえに、経済発展は遅れたかも知れませんが、景観を大きく変えずにすんだことが今後大きな強みになります・・・・・平城遷都祭は、奈良が我が国にあってよかったと沢山の人に気づかせてくれました・・・・・
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この薮内さんのコメントを読んで感じたことは、時々文明、文化とは何であるかということを考えさせられるということである。広辞苑によれば、両者はほぼ同義に用いられているというが、人間の精神的生活にかかわるもの、たとえば宗教、道徳、学芸などを文化と言い、技術的発展のニュアンスが強いもの、たとえば科学技術や物質的なものを文明と言うらしい。

これによると科学技術の発達により生活が便利になったりすることは文明の発達ということに通じる。デベロッパーによる無謀な宅地開発などもこの部類に属する。薮内さんが指摘されたように、経済の発展ということはすなわち文明の発展だ。文明の発展の陰で文化が疲弊しないように充分注意を払わなければ街の景観は損なわれる。

この記事は、みのお市民まちなみ会議のブログにも転載しました→タイトルは「奈良県における街の景観」 http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/

               (八木芳昭 記)

  平城遷都1300年祭会場にて  
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     奈良市内の街並み
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    畝傍山より香具山を望む
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2010年12月25日 (土)

様々な忘年会

今年も様々な忘年会に参加し、様々な忘年会の雰囲気を楽しんだ。
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先日12月19日、みのお市民まちなみ会議の忘年会が、箕面市にあるM亭であった。

M亭は、牧落駅と桜井駅のほぼ中間地点にあり、西国街道に面したプランドール百楽荘というビルの中にある大変小奇麗な造りのお店だ。店の紹介に、ビストロと記載されているように西洋風のレストランで、広々とした店内は明るく、アットホームな雰囲気で、小人数でも大勢でも楽しめる。メニューが豊富であることに加え、お値段も手頃であるのがよい。

さて、忘年会のことであるが、参加者は約20名。1年を振り返ってのまちなみ会議としての思い出や反省、更には個人的な出来事などをお互いに披露し合ったりして、食べて飲んで楽しいひと時を過ごした。

私は今年、入会したばかりであるので、まちなみ会議の忘年会は初めてであった。ビジネスの世界とは異なり、まちなみ会議という市民活動には、多方面から色々な考え方や得意分野をお持ちの方が参加されており、皆様のお話を聴き得るものが多かった。

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12月21日には、会社時代の友人3人と池田の「はたごや」で忘年会。この忘年会は4年ほど前から私が幹事役をして続けている。主として会社時代の思い出が話題になることが多いが、最近の近況を紹介したりして、人生を楽しく生きていくためのヒントをお互いに得て結構有意義である。

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12月始めには、大学時代からの親友であるHさんとの長年にわたる毎年の忘年会をした。いつも難波の法善寺横丁界隈でやっている。お互いに気心が知れた者同士なので自分の悩みなどを曝け出してのゆったりとした雰囲気の忘年会である。
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その他、同じような経営コンサルの仕事をしている仲間であるSAVS研究会の忘年会や、ここ3年ほど前から続いている大学同窓3人でのゴルフをしてからのゴルフ談義や哲学的な議論を交えた忘年会などがあり、毎年、人生を楽しく生きていくための糧を得ている。

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断捨離

先日、テレビを観ていると「断捨離」という言葉が最近もてはやされている?ことを知った。アマゾンを見ると下記のような「断捨離」に関する書籍が発行されている。「断捨離」とは思い切ってモノを捨てるということである。
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ビジネスの世界では5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)という言葉があり、企業経営の基盤をつくる根底となっており、経営改善を進めるにあたって、まず最初にやることで、その後の改善が円滑に進むかどうかを決する重要なものとなっている。

この5Sが実行されている企業には、優れた業績を残し、会社の雰囲気も明るく、従業員の士気も高い会社が多い。

私も、時々5S 構築のお手伝いをすることがあるが、5Sをやっただけで、見違えるように変身した企業もある。

たかが整理、整頓、清掃 に過ぎないと言うことなかれ、これは経営哲学に通じ、人の士気を鼓舞するものなのである。

ということで、「断捨離」であるが、これは実生活における5Sだ。「断捨離」を行うことによって、心の中がすっきりし、ストレスも解消し、明日への新たな希望も芽生えてくる安価な生活の知恵なのである。

私も年末、買ったけれど積読となっていた不要な書籍や何かの役に立つだろうと思い、とっておいた雑誌、書類などを思い切って捨てた。

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2010年12月16日 (木)

女優・李香蘭さんの回顧

山口淑子さんは1920年生まれというから今90歳だ。従ってかなり前の世代の方なのでよく知らない。おぼろげに覚えているのは、彼女が李香蘭と呼ばれていた女優であったということ、後年は政治家であったことぐらいである。

NHK番組「世界わが心の旅・はるかなる旅路」を観た。その番組は、山口さんが生まれ育ち、女優として生きてきた満州、中国を回顧しながら旅する番組であった。

Image_4 この番組で見る山口さんは、一世を風靡した華やかな女優という側面を脇に追いやり、過去を真摯に見つめ、回顧し、自省されていた。このような山口さんに親しみを感じた。戦争に翻弄された彼女の人生であった。

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山口さんは、戦前の満州国、中国、そして戦後の香港で李香蘭の名前で映画、歌などで活躍した。幼い頃から中国語に親しみ、奉天にいた時、幼なじみのロシア人女性リューバの母からの紹介で、イタリア人オペラ歌手のもとに通い、声楽を学ぶ。

その後、日本語も中国語も堪能であったことから、奉天放送局の新満州歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年には満州国の国策映画会社から中国人の専属映画女優「李香蘭」としてデビューした。そして多くの人々から中国人スターだと信じられていた。

日中戦争中には、「白蘭の歌」や 「支那の夜」などの映画に出演し、抗日から転向し日本人を慕う中国人女性を演じる一方で、「萬世流芳」(アヘン戦争で活躍した中国の英雄・林則除を描いた映画)など、中国民衆の抗日意識を鼓舞する映画にも出演した。

「萬世流芳」のヒットにより中華民国の民衆から人気を得た李香蘭は、ある記者会見で一人の若い中国人新聞記者から、「白蘭の歌」や 「支那の夜」などの日本映画に出演した真意を尋ねられる、「あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱している。それなのになぜあのような日本映画に出演したのか?あなたは中国人でしよう。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか?」と。

これに対し彼女は、「20歳前後の分別のない自分の過ちでした。今はあの映画に出たことを後悔しています。今後、こういうことは決して致しません。どうか許して下さい」と答えるや、記者会見会場に大きな拍手が沸いたという。
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その他、この番組では、終戦を上海で迎えた彼女が漢奸(中国人として祖国を裏切った)容疑で軍事裁判にかけられるが、親友である前掲のロシア人女性リューバの献身的な努力により、日本人であることが証明され無罪となったこと、そして二人の半世紀を経た感動的な再会シーンも描かれており、しんみりと感じさせてくれる番組であった。
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尖閣問題で日中両国がぎくしゃくしている今、この番組を観て、戦争というものの無意味さとそれに巻き込まれる民衆の悲しい運命について改めて考えさせられた。

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2010年12月14日 (火)

萱野三平と赤穂事件

今日、12月14日は赤穂浪士が討ち入りを果たした日の前日に当たる。箕面観光ボランティアガイドのオープンハイキングが毎年この頃、箕面市の萱野の地に誕生した萱野三平に因んで行われているという。私は今回初めて参加した。ガイドさんの萱野三平についての説明は大変興味深いものであった。
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元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で、吉良義央に切り付けた刀傷事件の時、築地鉄砲洲の赤穂藩上屋敷にいた三平は、事件を赤穂に知らせる使者として、早駕籠で昼夜の区別なく早駆けした。駕籠に乗るのは、一人は萱野三平、もう一人は速水藤左衛門。

出発して不眠不休の4日目、駕籠が三平の生家(箕面市萱野地区にある)を通りかかる。三平は溢れるような懐かしさの思いで、父上は母上は、その後どのようにお暮しであろうかと、我が家の方に目を凝らすと、偶然に母の葬儀が行われているところだった。それと気づいた速水藤左衛門が、ここから先は私一人で行くから、お前はここで残れと云うが、三平は主君の御用のためとこれを断り、そのまま駕籠を急がせ、赤穂に向かった。

その後、萱野に帰った三平は、大石内蔵助を中心とする仇討の一党に名を連ねていたが、江戸へ下ることを願った三平に対し、父は三平を浅野家に推挙した大嶋家へ迷惑が及ぶことを思慮して、これを許さなかった。

浅野内匠頭への忠義と、父への孝行の板挟みになり苦悩した三平は、元禄15年1月14日、自宅長屋門の一室で自刃し、27歳の生涯を閉じた。

辞世の句 

   晴れゆくや日ごろ心の花曇り  涓泉

涓泉は萱野三平の俳号である。三平は著名な俳人でもあった。

余談であるが、三平はその前日、自分を最も可愛がってくれた姉「こきん」にひそかな別れを告げるために訪れている。そして普段通りの世間話をして帰る時、ふと歩みを止めて振り返り、 「姉さま、とんとおさらばでございます」と最後に言い残したという。姉は胸がこみあげ、思わず溢れる涙に、両手で顔をおおって、その場にしゃがみこんでしまったという。その姉の「こきんの墓」も箕面にある。

三平が自刃した部屋
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辞世の碑
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萱野三平の墓(後ろは箕面の山々)
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2010年12月10日 (金)

あの高山右近のモザイク画がスペインの聖堂に!

最近、地元の市民活動を通じて、戦国キリシタン大名の高山右近に興味を覚えるようになった。というのは私が住んでいる箕面市と隣接している大阪府豊能郡豊能町高山というところが高山右近の生地だからだ。宣教師ルイス・フロイスも高山にやって来ており、そのことをその著「日本史」に記している。村民はことごとくキリシタンであったという。

さて、先日NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で高山右近についてのドキュメントを観た。
右近は父の勧めで洗礼を受けたという。この頃多くの大名がキリシタンとなったが、それは貿易を有利に進めるためなどが目的であったのに対し、右近は純粋な気持ちでキリスタンになったらしい。

その後、右近は信長・秀吉に仕え数々の武功を立てたが、一方では茶道にもすぐれ、千利休の高弟としても知られている。しかし、秀吉が禁教令を発した後も改宗を拒んだため領地を没収され放浪の旅に出る。一時は加賀の前田氏の世話になるが、1612年のキリスト教禁止令により国外に追放される。このような厳しい処置になったのは、徳川・豊臣両氏の前面衝突を控えたこの時期(大阪冬の陣、夏の陣)、家康としては、全国のキリシタンが豊臣方に結集するのを避けたかったからだった。ことに武勇に秀で、キリシタンから圧倒的な信望を集める右近は徳川方にとって脅威であったからだ。

右近はマニラに到着。その時マニラ市民は岸を埋め尽くし、総督も自ら迎えに出て、信仰を守り通して祖国を追われた英雄の到着を熱狂的に迎えたという。しかしマニラ到着後40日余りで右近は世を去った。彼を追悼するミサは9日間も続いたという。

ところで、右近のモザイク画が、はるか遠いスペイン・バルセロナの近郊マンレーサ洞窟内にある地下聖堂セント・イグナシオ教会にあり、キリスト教の普及に貢献した世界の偉人と一緒に描かれているという。

興味を覚えたので、ネットで調べてみたが、分からなかった。そうしている内に、スペインのアーティスト、マルタ・モンカーダさんという女性の方のブログあり、そこに、それらしい洞窟の画像が掲載されているのを見つけた。そして今日、問い合わせのメールを打ったところである。

(下の写真がそれらしき洞窟である)

彼女のブログの中には、次のように記されている:

この洞窟には500年前、戦争で傷ついたバスク貴族の兵士であったイグナチウス・ロヨラが、ここで傷を癒し、やがて彼が創設したイエズス会の原点といえる「霊操」についてインスピレーションを得て書いた有名な場所です。この洞窟を守るようにして、現在はその上にマンレーサの教会が築かれており、世界中からカトリック信者が訪れる聖地のひとつとなっています。
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2010/12/11追記:
後日、マルタさんから、次のようなメールを頂いた。

・・・・マンレーサの洞窟は、バスク人のイグナチオ・ロヨラがカタルーニャのマンレーサで「なぜ悟りを開いたのか」ということに興味があり訪れました。ご存知のように、いずれもスペイン語を話さない地域の話で、ロヨラは本来バスク語、マンレーサはカタルーニャ語を話す地域です。

マンレーサはバルセロナから車で北にわずか1時間のところにある、衛星都市(といっても人口1~2万)のような地域で、内陸なので埃っぽい、どちらかというと寂れた感じの町でした。

その地域は10キロ程さらに北にあるガウディのサグラダファミリア教会のモデルになった、モンセラート山がカトリックの聖地として有名です。そこに住む私の友人の画家や建築家を訪ねて行きました。

さて、お尋ねの件ですが、まさかあの高山右近の肖像がマンレーサにあるとは全く存じませんでした。もし事前に知っていたら、私も見たかったです。

マンレーサの教会はロヨラがモンセラート山を眺めながら天啓を得た洞窟の、まさにその上に建てられていますから、右近の肖像画がそこにあるのは間違いないと思います。

意外に日本では知られていませんが、細川ガラシャ(Gracia。カタルーニャ語読みでグラシア、バルセロナの私の家のある地域です)を洗礼に導いたコスメ・デ・トーレスという宣教師もカタルーニャ人ですし、時代は下って、明治期の日本の美術界の父を呼ばれたアーネスト・フェノロサもカタルーニャ系アメリカ人です。大津の三井寺に、フェノロサのお墓があります・・・・
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2010年12月 6日 (月)

明治維新後の坂本龍馬像について

今年は久しぶりにNHKの大河ドラマ「龍馬伝」を欠かさず観た。フィクションを少し採り入れ、面白く演出されていたこともあるが、それなりに楽しめた。

さて、明治の統一国家をつくるために尽くした龍馬の功績は大きいが、明治政府が龍馬が望んでいた様なレベルの民主国家といえるものには少し物足りないものにしかならなかったのはなぜだろうか? すなわち、封建制が強く残る体制にしかならなかったのはなぜか? という疑問を私としては持った。

その点に関連して、司馬遼太郎氏は、”歴史の中の日本”の中の「龍馬像の変遷」というエッセイの中で次のように述べている。

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龍馬の場合、明治国家における彼の歴史的位置というものは、ほとんど無きに等しかった。小学校の教科書でも、明治の元勲というのは木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の三人で、その後はいきなり伊藤博文、山県有朋という明治国家の作り手たちが登場する・・・・・龍馬という人物は、とくに国の枠の中で触れられなかったのではないでしようか・・・・・明治国家が薩長のものであり、明治政府をつくった人たちの利害の上に立って考えれば、この政府は自分たちがつくったのだと言いたかったのでしよう・・・・・だから、何もことさらに龍馬の名前を出す必要はない。という以上に、坂本龍馬の思想に危険性を感じていたんでしよう。

彼の思想については・・・・たとえば、彼のつくった海援隊を見ても、長という名のつくものがおらず、極めて民主主義的に運営していることに驚かせれます。すでに思想が基底にあることがよくわかります。・・・・・封建性を否定する思想がかなり濃厚に見られます・・・・・・どうしてこんな人物が出たのか、同時代の人たちからも、ともかくとびぬけた人物です。
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龍馬が明治の元勲とは違って、土佐藩の下級武士の出身であったということも、当時としては革新的な思想を持つに至った背景としてあるのではないかと思うのである。

写真は、京都にある坂本龍馬・中岡信太郎 の墓

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