今日、12月14日は赤穂浪士が討ち入りを果たした日の前日に当たる。箕面観光ボランティアガイドのオープンハイキングが毎年この頃、箕面市の萱野の地に誕生した萱野三平に因んで行われているという。私は今回初めて参加した。ガイドさんの萱野三平についての説明は大変興味深いものであった。
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元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で、吉良義央に切り付けた刀傷事件の時、築地鉄砲洲の赤穂藩上屋敷にいた三平は、事件を赤穂に知らせる使者として、早駕籠で昼夜の区別なく早駆けした。駕籠に乗るのは、一人は萱野三平、もう一人は速水藤左衛門。
出発して不眠不休の4日目、駕籠が三平の生家(箕面市萱野地区にある)を通りかかる。三平は溢れるような懐かしさの思いで、父上は母上は、その後どのようにお暮しであろうかと、我が家の方に目を凝らすと、偶然に母の葬儀が行われているところだった。それと気づいた速水藤左衛門が、ここから先は私一人で行くから、お前はここで残れと云うが、三平は主君の御用のためとこれを断り、そのまま駕籠を急がせ、赤穂に向かった。
その後、萱野に帰った三平は、大石内蔵助を中心とする仇討の一党に名を連ねていたが、江戸へ下ることを願った三平に対し、父は三平を浅野家に推挙した大嶋家へ迷惑が及ぶことを思慮して、これを許さなかった。
浅野内匠頭への忠義と、父への孝行の板挟みになり苦悩した三平は、元禄15年1月14日、自宅長屋門の一室で自刃し、27歳の生涯を閉じた。
辞世の句
晴れゆくや日ごろ心の花曇り 涓泉
涓泉は萱野三平の俳号である。三平は著名な俳人でもあった。
余談であるが、三平はその前日、自分を最も可愛がってくれた姉「こきん」にひそかな別れを告げるために訪れている。そして普段通りの世間話をして帰る時、ふと歩みを止めて振り返り、 「姉さま、とんとおさらばでございます」と最後に言い残したという。姉は胸がこみあげ、思わず溢れる涙に、両手で顔をおおって、その場にしゃがみこんでしまったという。その姉の「こきんの墓」も箕面にある。
三平が自刃した部屋

辞世の碑
萱野三平の墓(後ろは箕面の山々)
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