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2011年5月24日 (火)

箕面の街・桂侯爵別邸・新稲古墳・こきんの墓などを散策

5月21日、みのお市民まちなみ会議の皆様と箕面観光ホテルから平和台、アリーナ―を経て新稲古墳まで歩いた。

箕面観光ホテル入り口。写真にはないが、この近くに欅(けやき)とアラカシの指定保護樹木が大きな枝を張り、木陰を演出していた。
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エレベータで観光ホテルへ行く前に、山裾に残る箕面動物園の痕跡を見る。明治43年、箕面有馬電鉄の開業から半年遅れて、箕面動物園が開園した。山の地形を生かして動物を配置し、当時珍しかった噴水や観覧車、余興場ではおとぎ芝居を催していた。しかし大正5年に閉演し、多くの動物は前年に開園した天王寺動物園に引き取られた。
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観光ホテルの一角に桂侯爵別邸”松風閣”が建っている。この建物は、明治の中頃、北浜銀行頭取・岩下清周ら財界7人衆によって建てられ「関西財界人クラブ」として利用された。建物は桃山時代を彷彿とさせる数寄屋作りで、建物の土台は、地形をうまく生かした清水の舞台作りのような木組みで、釘や楔が一切使われていない。山県有朋、井上薫などの明治の元勲と呼ばれる方々も数多く訪れているが、特に桂太郎は関西を訪れる際、度々この屋敷で泊まったことから、桂侯爵別邸と呼ばれるようになった。大広間に掲げられている「松風閣」の扁額は、桂太郎が、景色の美しさに感動して揮亳したものである。
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平和台は昭和40年代初めに、箕面で最初に大規模開発された住宅地である。標高差70mほどの傾斜地に階段状に街並みが続いている。南北は坂道で、中には25%の急坂(100mの間で25m登る)もある。この平和台は「平和台まちづくり計画」によって環境が保全され、3階建て住宅や商店の混在もない。しかし、この地域も高齢化が進み、65歳以上の高齢者の割合は28.5%と市平均の20.5%を上回っている。写真は水道塔。
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平和台からアリーナ―へ。途中、右手の山麓部は、墓地建設の計画が持ち上がったが、市民の声で計画は頓挫している。写真はアリーナ―の展望デッキから見た箕面市西部の眺望である。眼下には3つのため池があり、新稲地区から下流部の重要な水源となっている。これらの池は明治10年に着工されたもの。アリーナ建設に当たり、遊歩道や噴水などを造って公園として整備された。
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アリーナ―への道路の山手、疎林の中に新稲古墳がある。上半部が露出して、石室が開口し盗掘されているが、数点の土器と耳環が採取されている。6世紀後半の横穴式円墳と推定されている。新稲地区を中心に箕面市の古墳の大部分が集中しているが、稲荷社古墳(桜2丁目)とこの新稲古墳の「2基のみが原型を留めている。古墳の被葬者は、6世紀に豊島郡内に大きな勢力を持った秦氏の一族と考えられている。
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新稲古墳の近く、大阪青山学園の校門入口の所に、吉田家の墓があり、その中に萱野三平の姉・「こきん」の墓がある。「こきん」は新稲村の庄屋吉田家に嫁いでいた。萱野三平は、自刃する前日、この近くにあった姉・「こきん」宅を訪れたという。ひそかに別れを告げるためである。三平は4男5女の末弟であった。3人の姉のうち最も可愛がってくれたのが、この姉であった。三平は普段通りの世間話をして辞去する。そして帰り際、門口に出て見送る姉に、帰りかけた三平は歩みを止めて振り返り、「姉さま、とんとおさらばでございます」といって再び歩き出した。こきんは胸がこみ上げ、思わず溢れる涙に、両手の手で顔をおおって、その場にしゃがみ込んでしまったという。

写真上:こきんの墓  写真下:吉田家の墓の全景
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(記:やぎ)

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