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2011年11月

2011年11月26日 (土)

ブータン国王夫妻とグローバリズム

ブータン国王夫妻は爽やかな微風を我が国に残して帰国された。世界の中で、GNPでなく、国民総幸福量(GNH)という指標を掲げ、貧しいながらも、国民の幸福を第一に考えている国の国王だけあって、その振る舞いは実に謙虚さと優しさに溢れていた。

グローバリズムに翻弄されず、崇高な理想を掲げ孤高な地位を占めるブータンは、グローバリズムの潮流の中で、異色な存在である。

一方、この期間、我が国はTPP(環太平洋経済協定)というまさにグローバリズムの権化とも思われる協定への参加の是非を巡って慌ただしい毎日であった。

TPPという、アメリカ主導とも言える経済協定への参加は、アメリカの言いなりにならないように、我が国民の幸せを考えて、慎重にやって欲しいものだ。オバマ大統領の選挙のために手を貸すというような愚かな妥協は断じて許されない。

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2011年11月 7日 (月)

留学生と高野山へ

大阪大学の留学生ホームビジット制度を通じて、我が家でお世話している韓国からの留学生Kさんとその友人の香港からの留学生Cさんを連れて、11月6日、高野山へ行った。この高野山には先週、ダライ・ラマさんが訪れている。

当日は、四天王寺ワッソへ行く予定であったが、あいにくの雨で中止となったため、急遽、行先を高野山に変更したもの。高野山へ行くのは、これで3回目であるが、1回目は、中学の遠足の時。昔のことであるのでよく覚えていない。2回目は、最近旅行社のツアーで行ったが、高野山へは少しばかり立ち寄ったにすぎない。
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今回の高野山行は、一応は、留学生のお二人のガイド役も兼ねているので、予め高野山に関する情報を集め勉強した。最近、歴史について勉強し?仏教のことについても、興味を感じ始めたところなので、以前に比べ理解が容易であった。また、五木寛之さんの「百寺巡礼」を最近、読んでいたので、これも理解の助けになった。

南海線難波から約2時間で、千手院橋に到着。そこから一ノ橋へ、そこから奥之院弘法大師御廟まで、多くのお墓を見て歩く。

高野山は他の宗派に寛容であるので、宗派を超えて沢山の墓がある。織田信長、豊臣家、徳川家、浅野内匠頭、また法然や親鸞の墓、などがあるのには驚かされる。

奥之院から、雨も降って来たので、タクシーに乗り、大門、檀上伽藍、金剛峯寺を回った。タクシーの運転手さんは観光ガイドも兼ねていたので、案内もしてもらった。

ガイドさんより、通常、開山する場合は、地主神との争いが起こるが、庶民派である空海は、在来の地主神をきちんと祀って大事にして融和してやって来たことや、朝廷とも結びつき東寺を賜ったことで、東寺と高野山の間の生活の狭間で思い悩んだであろうこと、など、ガイドさんから分かりやすい説明を受けた。留学生にもわかるような上手な説明には感心した。

今回の小旅行を通じて、若い異国の二人と、お互いの国の文化や習慣について、車中で、かなりの時間、話しが出来たことは大変な収穫であった。


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教員に対する成果主義適用は問題だ

橋本氏が主導する「大阪維新の会」は、大阪府と大阪市の二重行政というムダをなくすため、「大阪都構想」を掲げている。ムダをなくすことによって財政的に楽になるということらしい。確かに私もそのように感じていた一人である。

大阪にかぎらず、我が国における行政は、進取の気風が不足しているところが多い。それに風穴を開け、新風を吹きこむという意味で、彼には大変期待していた。やり方によっては上手く行くのではないかと。

しかし、ここに来て疑問を生じるような気持ちになった。それは大阪府教育基本条例案を巡る問題である。

現在の教育委員会制度は決して優れた制度ではないが、橋本氏が主張するような、知事が教育の目標を決め、あとはトップダウン的に校長→教師と指示を流していくというやり方は多分に権威主義的であり、知事やトップが人間的に問題がある人物であればという心配がつきまとう。

また、特に問題だと思われるのは、教員の評価に成果主義を採り入れようとしていることである。この成果主義であるが、一時、企業社会でもてはやされたが、これを信奉するものは、少なくとも元気に頑張っている企業の中には皆無であり、時代遅れとなっている。このような成果主義を採用した企業は概ね衰退の一途と辿っているといってもよい。成果主義は、皆が助け合って物事を解決して行こうとする気風が強い我が国の社会風土には馴染まないのだ。

大阪府教育基本条例によると、教師を5段階で評価し、2年連続で最低の「D」を付けられた人は免職を含む処分の検討対象になるという。評価は給与にも大きな影響を与える。それに「D」評価は、必ず一定の割合で割り当てるという。誠に愚かな考えだ。

こんな制度を導入すれば、企業において失敗したように、自分だけが良くなればよいという教師が自然と増え、教員同士の協力がなくなり、ぎすぎすしたものになるだろう。そして、できる生徒を囲い込んで要領よく成果を上げる先生が得をして、問題のある生徒を何とか育て上げようとする地道な努力をする先生が損をするようなことになる。

教育とは学力の向上だけが目標でないはずである。人の生き方には色々あり、それによって学ぶ内容も異なるはずである。一律な学力基準を決め、それによって人を評価することには反対である。

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