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2012年6月

2012年6月30日 (土)

クロアチアなど、バルカン半島を旅して

6月の中頃、某社のツアーでバルカン半島諸国を訪れた。

訪れた国は、クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェコビナ、モンテネグロの4ヵ国。セルビア、マケドニアの2ヶ国は今回訪れなかった。
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これらの国は第2次世界大戦後樹立されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国の中に組み入れられた。ユーゴ―スラビアは当初東欧共産主義諸国と同様、ソビエト連邦の一員であった。しかし間もなく、ソ連の傘下から脱し、カリスマ性とバランス感覚に優れたチトーの指導の下、ソ連とは異なる自主管理社会主義体制を敷き、国造りを始める。

これにより、
19世紀から20世紀初頭にかけてバルカンを支配していたオスマン帝国衰退後、バラバラになっていた諸民族は、形の上では何とかまとまり、国家としての体を維持した。チトーはネールインド首相などと共に非同盟主義を貫き、自由の面でも西側諸国とは大差ない国であり、良き国であった。そして多様な民族・言語・宗教・文化が錯綜する中で、人々はそれぞれのアイデンティティを維持しながらも、争いも少なく、仲良く暮らしていた様である。

しかし、チトーの死去(1980)及び東欧共産主義体制の崩壊(1989)を経て、様相は一変する。各民族が自立を求めて内戦が発生。クロアチア内戦、ボスニア内戦、コソボ紛争などが次々と起こり、1992年旧ユーゴスラビアは崩壊し、現在のように6つの民族国家が独立した、しかしコソボだけはまだ国際的に独立が認められていない。自国内に同様な少数民族問題を抱えるロシア、中国がコソボを承認していないからである。

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本記事では、観光地とその周辺で見たこれらの国の復興の様子の一部を紹介したい。
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*「ドブロヴニク(クロアチア国)」

 

ドブロヴニクはアドリア海の真珠と呼ばれ、ヴェネツィア共和国と覇権を争った海洋都市。長きにわたって独立を貫いてきた希少な町でもある。イギリスのバーナード・ショウは、「地上の楽園を求める者、ドブロヴニクに来たれ」と記した。

堅牢な城壁に囲まれた旧市街は、石畳の路地と褐色の屋根瓦が織りなす古色蒼然とした街並みで、この町の歴史の全てが詰まっている。街が誕生したのは
8世紀頃、その後、街の発展に伴い少しずつ拡張され、16世紀にはほぼ現在のような姿になった。城壁の上は1周約2kmの遊歩道になっており、1時間程で散策できた。

1991126日、突然この街に旧ユーゴ連邦軍による砲弾が浴びせられた、その後2000発。旧市街の多くの建物が破壊され、沢山の市民が犠牲になった。砲弾後、数年がかりで街は修復され、かつての姿を取り戻しているが、城壁の上から見ると屋根瓦の色が違うのに気づく。色鮮やかな瓦は、砲弾後に修復されたものだ。フランシスコ会修道院や旧総監邸も被弾した、現在、僅かにその傷跡が見られるものの修復は完了し、内戦があったことが感じられないほどだ。

ドブロヴニク市街
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城壁上の遊歩道にて
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内戦後の旧総監邸修復中の写真
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現在の旧総監邸
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銃弾の跡が見られる市街の建物
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 *モスタル(ボスニア・ヘルツェコビナ国)

 

ボスニア・ヘルツェコビナは、長い間オスマン朝の支配下にあったため、トルコの文化的影響が強く、東西の要素が交じり合う国である。モスタルは、国内の南西部を占めるヘルツェコビナ地方の首都。因みにサラエヴォはボスニア・ヘルツェコビナの首都。このサラエヴォでのセルビア青年による1914年のオーストリア皇太子の暗殺事件を契機として第1次世界大戦が起こった。

このサラエヴォには、
1980年頃、私が会社に勤めていた頃仕事の関係で訪れたことがある(ブログ:サラエヴォの思い出)。モスタルはサラエヴォの南西にある都市である。このモスタルに、「スタリ・モスト」と呼ばれるネレトヴァ川に架けられた白い橋がある。1556年、オスマン朝下の時代に建てられた。ボスニア語で「橋の守り人」の意味をもつモスタルを象徴するような建築物だ。橋からネレトヴァ川に飛び込む競技がこの町の一大年中行事であった。

モスタルはクロアチア人とムスリム人の混住地域であった。クロアチア内戦時に両者の対立が生じ、ネレトヴァ川をはさんで両勢力が対峙した。1993119日、クロアチア人勢力が橋を爆破した。爆破直後、下の写真にあるように、一時的に仮の橋が架けられていたが、2002年に、ユネスコ、世界銀行、ユニセフの支援を得て橋の再建が始まり、2004年に現在見られる白い橋が蘇った。

橋台を用いず、両岸からアーチ状にかかる橋は造形的な美しさと当時の建築技術の高さに驚かされる。橋の両端には塔が聳えていて、東岸の塔はスタリ・モスト博物館として使われている。その館内では橋の構造や歴史に関する解説の他、橋の再建調査時に偶然発見されたスタリ・モスト以前の2つの橋の遺跡、橋の再建の様子などがパネルや映像で紹介されていた。街角の石に、
Don’t forget (忘れるな)という落書きがあり、内戦の悲劇を思い起こさせてくれた。

街角に見られた「内戦の悲劇を忘れるな」の落書き
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内戦での爆破により仮に架けられた
「スタリ・モスト」橋(下)
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現在の「スタリ・モスト」橋
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(参照文献:バルカンの歴史
 柴宣弘氏 河出書房新社)
 

 

 

 
 

 

 

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2012年6月26日 (火)

消費税法案に思う

消費税法案は、国民の全員が納得いくもので合意されることが望ましい、ということは言うまでもない。歴代の政権は、この不人気な法案を避けてきた。選挙で負けるのがいやだから。

今回の法案はもう少し所得が低い人たちや中小零細企業の人たちのことを考えてやるべきであったと思う。しかし我が国もいずれは消費税で財政を賄わなければ、現在欧州で問題となっている国家財政の破たんにいずれ直面する。 税金が高くても、社会福祉を充実し、国民が人間として幸せな生活がおくれる様な仕組みを作らなければならない。むつかしい課題だ

ところで、今回の消費税法案を巡って、「国民の声が我々の声と同じだ」と叫んでいる政治家がいるが、果たしてそうであろうか。今回の消費税に反対している人たちが、その政治家に多くの面で賛成しているとは到底思えない。権力者に擦り寄る政治家が多い。その様な姿を見るのは見苦しい。政治家は私利私欲を戒め、自分自身が正しいと思う道を歩んでもらいたい。

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2012年6月24日 (日)

箕面の滝道で蛍を観る

箕面滝道にも蛍が出て来ているという情報を得て、昨日6月23日、私も箕面滝道へ行って来ました。
 
午後7時頃、滝道に到着すると、昆虫館前から瀧安寺前の箕面川に沿って、既に大勢の人が詰めかけていました。お子さん連れの方の姿が目に付きました。
 
沢山の蛍が乱舞していました。私としては、こんなに沢山の蛍を見るには久しぶりです。箕面の滝道で蛍が見れるとは知らなかったので大変感激しました。
 
蛍が見れるのは、午後7時頃から9時頃までと思います。あといつまで見れるかわかりませんが、少なくとも、本日24日から数日間は見れると思われます。

まだ蛍を見ていない方は是非お出かけ下さい。

蛍の写真を上手く撮ることが出来ませんでしたが、下記の一番上の写真では蛍が写っているのが見られます。2番目と3番目の写真は蛍を見ている皆様の様子を撮らせて頂きました。
 

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2012年6月10日 (日)

新緑の吉野から宮滝まで歩く

5月の初め、6名の仲間と新緑の吉野を訪れた。万葉ツワーと称した小旅行である。吉野に来たのはこれが2回目だが、桜の季節に来た前回とは違い、旅行客も少なく、静かな雰囲気を楽しむことが出来た。

ところで吉野は桜の名所だが、これは1400年程前に信仰の山として開かれたことと深い関係がある。修験道の開祖、役行者が金峰山寺蔵王堂を創建後、参拝者がヤマザクラの苗を植樹し続けた。16世紀の中頃には豪商・末吉勘兵衛が1万本の桜を寄進、そして豊臣秀吉が5千人の家臣を従えて盛大な花見の宴を開くほど見事な桜の山となった。

吉野には悲劇的な話が残っている。吉水神社は兄頼朝に追われた源義経が隠れていた場所だ。南北朝時代には南朝が置かれ、後醍醐天皇ゆかりの寺社も多い。
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金峰山寺・蔵王堂:
ロープウエイの吉野駅を降り進むと、黒門から先に銅(かね)の鳥居と呼ばれる金峯山寺銅鳥居がある。金峰山入峰の第一門である。金峰山とは、吉野から山上ヶ岳に至る地域の総称であり、修験道の根本道場である大峰山(山上ヶ岳)頂上の大峰山蔵王堂までに、発心・修行・等覚・妙覚の4門があるが、その最初の門だ。二王門を抜けると蔵王堂がある。

蔵王堂は、吉野・熊野修験道を総轄する修験道の根本道場金峰山寺のシンボルである。
役行者が金峰山で難行苦行の末、感得した蔵王権現の尊像を桜の木で刻んで、これを修験道の悪魔降伏の本尊にしたという言い伝えがある。

金峰山寺は役行者によって開山され、行基によって創建されたと言われる。役行者によって開かれた大峰山(山上ヶ岳)山頂の蔵王堂への道は険しく、1年の内の半分以上が雪に覆われて参詣が困難なために、行基によって吉野山山下にもこの蔵王堂が建てられた。
尚、蔵王堂は山頂に向かって南面し、二王門は北面している。これは、吉野・熊野修験道には本山派(天台宗聖護院)と当山派(真言宗三宝院)の2派があり、その入峰順路が異なるために、蔵王堂を挟んで南北に相対した門が必要であったからである。
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吉水神社:
吉水神社は、吉野へ潜行した後醍醐天皇、源頼朝に追われた義経・静御前一行が潜んだ歴史の舞台である。豊臣秀吉が花見の本陣とした境内からは中千本や上千本の眺めが素晴らしい。
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花矢倉:標高600m辺りにある展望台からの眺めは素晴らしい。ここから上千本、中千本、蔵王堂などが見渡せ、金剛山も一望できる。歌舞伎「義経千本桜」の舞台としても有名。


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吉野水分(みくまり)神社:
吉野八社明神の一つで子守明神とも言われている。水を分配する神、天水分神を祀る。「みくまり」が「みこもり(御子守)」に転訛し、子授けの御利益があるとして信仰を集めるようになった。
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上千本の辺りより宮滝へ向う。
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その昔、吉野参詣の旅人が一息入れたという象(きさ)の小川の祠が途中にあり、本居宣長や葛飾北斎もここに来たと言う。ここから少し下ったところに「高滝」と呼ばれる滝があった。かなり大きい滝だ。説明文には、義経がここで馬を洗ったとある。

更に進むと、「象の小川」の説明掲示があった。象の小川は、今も喜佐谷集落の貴重な水源だそうである。万葉の歌の説明も添えられている。

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桜木神社:
天武天皇が近江から吉野へ隠遁した時、近江から派遣された刺客に襲われたが、桜の木陰に隠れて難を免れたという伝説から、天武天皇を祭神にしている。本殿の御神木の杉の木は見上げるばかりの高さである。
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宮滝:
象(きさ)の小川が吉野川に流れ込むところに「宮滝」がある。奇岩の間を流れる川は、万葉の古歌にもよく詠まれている。ここは古代の吉野離宮のあったところで、持統天皇はここに31回も行幸している。

柴橋を渡ると左側に、中庄小学校がある。校門の横に宮滝遺跡についての説明文がある。縄文・弥生時代の遺跡が発掘されており、古代の人が住んでいたところでもある。

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2012年6月 8日 (金)

一期家一笑・・・超ローカルスーパー

最近、大阪では、スーパーと云えば、イオンなどの大型スーパーが羽振りを利かせ、小さなスーパーが少なくなって来ている。我々は、このような大型スーパーから便利さなどの恩恵を受けていることは否定できないが、対面販売を主力とした、人間的は温もりを感じる小さなローカルなスーパーが徐々に消えていくことは淋しい限りだ。

しかし、このような状況にあっても、元気に頑張っている小さなスーパーも、全国的にみれば存在する。愛知県豊橋市にある食品スーパー「一期家一笑」もその一つだ。自らを超ローカルスーパーと称している。店長は杉浦さん。

「一期家一笑」の店舗は豊橋市にある一店舗だけだ。主なお客さんは近隣の約3,000所帯。手作りお惣菜やお寿司、青果部門や精肉・鮮魚コーナーに至るまで、地元で取れた食材をメインに使用している。

お惣菜は、天然だしや地元の醸造元さんのお醤油やお味噌を使い、旬の食材を使った日本一の美味しいお惣菜を目指している。このようなことができるのも、杉浦さんの息子さんが、元々はプロの料理人であり、彼の下で、スタッフが店内でお惣菜を作っているからだ。

小規模なスーパーだけに、店のスタッフとお客さんとはお互いに知り尽くした間柄であり、挨拶や声の掛け合いなどが日常的に行われており、ある種の地域のコミュニティーの場を提供している。

このようなスーパーが全国各地に生まれれば、日本社会はかつての人と人の触れ合いが多い、良き古い時代に戻ることができるのではないかと思う。

「一期家一笑」さんのHPもご覧ください。

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日本語の大切さについて思う

永年、英語が好きで、英語の勉強のために膨大な時間を投入して来た者として感じることは、国際社会を生きぬいていくためには、英語は必要であるが、

しかし、流暢な英語を話したり、書いたりすることは、外国人と複雑で、微妙なコミュニケーションを行わなければならない政治家やビジネスマンあるいは学者に求められることであり、それ以外の人は、普通程度に英語を学ぶことで事足りるのではないかと思うのである。

それよりも日本語をしっかりと勉強することが必要であると思う。公用語を英語にすべきだという馬鹿げたことをいう学者もいるが、これは日本文化を否定するものである。
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万葉学者である上野誠さんが、日本語の必要性について氏の著書で述べていた。説得性のある内容だと思った。

国際社会を生き抜くためには、英語は必要である。しかし、言語は生活世界そのものである。この千年以上をかけて蓄積して来たインフラを最大限に活用して、日本語で考え、話し、書くことを鍛えることの方が我が国にとっては必要である。過去の歴史と決別した言語文化など、世界中のどこにも存在しない。

文明の歴史とは、それぞれの民族の使う言葉と、それぞれの言葉を表記する方法を模索し、獲得していく歴史でもあった。日本人は漢字に加えて、ひらがな、カタカナを発明したことにより、我々の話し言葉を率直に文字に置き換えることができるようになった。

日本人が持つ文化を、微妙なところまで英語で表現することは困難である。文字とは数百年、数千年単位で蓄積されてゆく文化なのである。

紫式部が世界に誇る源氏物語を書けたのも日本語があってこその話である。夏目漱石は漢字塾をやめて英語に転向するが、しかし彼は英語を教えながら、日本語で小説を書いた。英語では全てを表現できなかったからである。

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2012年6月 5日 (火)

初夏の花・花菖蒲、ルピナス

万博公園の花菖蒲、ルピナスは見頃でした。

(花菖蒲)
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ルピナス
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2012年6月 4日 (月)

「育児休業なら退職を」企業の25%、 の報道に驚く!

女性の労働力を大切にし、これを積極的に活用している企業には、立派な業績を上げているところが多い。というよりは、感性や緻密な仕事のやりかたなどの点で、男性よりも優れた点を有する女性の力が発揮されているからこそ、業績もあげることができているとも言える。

フランスの新大統領・オランド氏が、閣僚の約半数を女性にしたというのも、単なる人気取りではなく、これからの時代、旧き政治から決別していくには、男性だけの思考では、政治をうまくやっていけないという想いがあるからなのだろう。

このような動きが、我が国でも、世界でも主流を占めていると思っていたが、先日の朝日新聞が伝える記事(2012.5.31)を見て驚き、我が国の後進性を感じた。
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「育児休業なら退職を」企業の25% 広告会社が調査、1439社回答

女性は妊娠したら育児休業を取得せず、退職して欲しい――。求人広告のアイデムが30日まとめた女性労働力に関する調査で、今なお企業の25%がそう考えていることがわかった。

2月にインターネットを通じて調査し、6人以上の正社員がいる1439社から回答を得た。

女性正社員の育休について聞いたところ、「どちらかと言えば」を含めて「取得せずに退職して欲しい」という否定的意見が25%あった。

この割合は女性管理職がいない企業では32%に達した。女性管理職がいる企業では19%だった。

一方、男性正社員の育休取得への考えでは、「1年程度は問題ない」が24%あった一方で、「許容できない」も16%あった。

また、育児・介護休業法では小学校入学前の子どものいる社員について、子どもの看護休暇をとらせることや長時間残業の制限などを企業に義務づけている。これらを就業規則で定めていない企業も4割あった。
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調査担当者は「不況で、子育て中の女性への支援を後回しにしている企業もある。本来は、女性を活用することで、企業の生産性の向上につなげていく必要があるのだが」と意見を述べているが、全くその通りである。

実際、優れた業績を上げている企業の多くは、この新聞報道には当てはまらない、即ち、女性労働力を重視している企業であると思う。

女性に対して思いやりのない、女性の力を軽視した経営者は今後、淘汰されていくであろう。

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