クロアチアなど、バルカン半島を旅して
6月の中頃、某社のツアーでバルカン半島諸国を訪れた。
訪れた国は、クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェコビナ、モンテネグロの4ヵ国。セルビア、マケドニアの2ヶ国は今回訪れなかった。
これらの国は第2次世界大戦後樹立されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国の中に組み入れられた。ユーゴ―スラビアは当初東欧共産主義諸国と同様、ソビエト連邦の一員であった。しかし間もなく、ソ連の傘下から脱し、カリスマ性とバランス感覚に優れたチトーの指導の下、ソ連とは異なる自主管理社会主義体制を敷き、国造りを始める。
これにより、19世紀から20世紀初頭にかけてバルカンを支配していたオスマン帝国衰退後、バラバラになっていた諸民族は、形の上では何とかまとまり、国家としての体を維持した。チトーはネールインド首相などと共に非同盟主義を貫き、自由の面でも西側諸国とは大差ない国であり、良き国であった。そして多様な民族・言語・宗教・文化が錯綜する中で、人々はそれぞれのアイデンティティを維持しながらも、争いも少なく、仲良く暮らしていた様である。
しかし、チトーの死去(1980)及び東欧共産主義体制の崩壊(1989)を経て、様相は一変する。各民族が自立を求めて内戦が発生。クロアチア内戦、ボスニア内戦、コソボ紛争などが次々と起こり、1992年旧ユーゴスラビアは崩壊し、現在のように6つの民族国家が独立した、しかしコソボだけはまだ国際的に独立が認められていない。自国内に同様な少数民族問題を抱えるロシア、中国がコソボを承認していないからである。
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本記事では、観光地とその周辺で見たこれらの国の復興の様子の一部を紹介したい。
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*「ドブロヴニク(クロアチア国)」
ドブロヴニクはアドリア海の真珠と呼ばれ、ヴェネツィア共和国と覇権を争った海洋都市。長きにわたって独立を貫いてきた希少な町でもある。イギリスのバーナード・ショウは、「地上の楽園を求める者、ドブロヴニクに来たれ」と記した。
堅牢な城壁に囲まれた旧市街は、石畳の路地と褐色の屋根瓦が織りなす古色蒼然とした街並みで、この町の歴史の全てが詰まっている。街が誕生したのは8世紀頃、その後、街の発展に伴い少しずつ拡張され、16世紀にはほぼ現在のような姿になった。城壁の上は1周約2kmの遊歩道になっており、1時間程で散策できた。
1991年12月6日、突然この街に旧ユーゴ連邦軍による砲弾が浴びせられた、その後2000発。旧市街の多くの建物が破壊され、沢山の市民が犠牲になった。砲弾後、数年がかりで街は修復され、かつての姿を取り戻しているが、城壁の上から見ると屋根瓦の色が違うのに気づく。色鮮やかな瓦は、砲弾後に修復されたものだ。フランシスコ会修道院や旧総監邸も被弾した、現在、僅かにその傷跡が見られるものの修復は完了し、内戦があったことが感じられないほどだ。
ドブロヴニク市街
城壁上の遊歩道にて
内戦後の旧総監邸修復中の写真
現在の旧総監邸
銃弾の跡が見られる市街の建物
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ボスニア・ヘルツェコビナは、長い間オスマン朝の支配下にあったため、トルコの文化的影響が強く、東西の要素が交じり合う国である。モスタルは、国内の南西部を占めるヘルツェコビナ地方の首都。因みにサラエヴォはボスニア・ヘルツェコビナの首都。このサラエヴォでのセルビア青年による1914年のオーストリア皇太子の暗殺事件を契機として第1次世界大戦が起こった。
このサラエヴォには、1980年頃、私が会社に勤めていた頃仕事の関係で訪れたことがある(ブログ:サラエヴォの思い出)。モスタルはサラエヴォの南西にある都市である。このモスタルに、「スタリ・モスト」と呼ばれるネレトヴァ川に架けられた白い橋がある。1556年、オスマン朝下の時代に建てられた。ボスニア語で「橋の守り人」の意味をもつモスタルを象徴するような建築物だ。橋からネレトヴァ川に飛び込む競技がこの町の一大年中行事であった。
モスタルはクロアチア人とムスリム人の混住地域であった。クロアチア内戦時に両者の対立が生じ、ネレトヴァ川をはさんで両勢力が対峙した。1993年11月9日、クロアチア人勢力が橋を爆破した。爆破直後、下の写真にあるように、一時的に仮の橋が架けられていたが、2002年に、ユネスコ、世界銀行、ユニセフの支援を得て橋の再建が始まり、2004年に現在見られる白い橋が蘇った。
橋台を用いず、両岸からアーチ状にかかる橋は造形的な美しさと当時の建築技術の高さに驚かされる。橋の両端には塔が聳えていて、東岸の塔はスタリ・モスト博物館として使われている。その館内では橋の構造や歴史に関する解説の他、橋の再建調査時に偶然発見されたスタリ・モスト以前の2つの橋の遺跡、橋の再建の様子などがパネルや映像で紹介されていた。街角の石に、Don’t forget (忘れるな)という落書きがあり、内戦の悲劇を思い起こさせてくれた。
街角に見られた「内戦の悲劇を忘れるな」の落書き
内戦での爆破により仮に架けられた
「スタリ・モスト」橋(下)
現在の「スタリ・モスト」橋
(参照文献:バルカンの歴史 柴宣弘氏 河出書房新社)
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