ロシアへの旅(その2)
ロシアにおいて、イワン4世(雷帝と言われる)の治世の後は、1613年のロマノフ王朝の成立をもって引き継がれた。このロマノフ王朝で中心的な役割を演じたのは、ピョートル大帝と女帝エカテリーナ2世と言える。
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ピョートル大帝は、ロシアの近代化を進めた人物としてロシア国民から尊敬されているらしい。彼は家庭的には不幸な幼年期を過ごしたが、大帝に就任後、身分を隠して自らイギリスやオランダを訪れ、風俗や大砲の製造、造船などの技術を学び、西欧の科学や技術を熱心に導入した。
彼は1721年、スエーデンとの北方戦争を勝利に導き、ネヴァ河口に「西欧への窓」となる都市、ペテルブルグを建設し、ここに都を移した。この時、名実ともに大国となったロシアにふさわしい宮殿をという野心から生まれたのが「夏の宮殿」である。この宮殿の建設には彼自身も積極的に参画したという。1枚目の写真は、この夏の宮殿の中で「下の公園」と呼ばれる公園である。噴水群と光り輝く金箔の銅像が美しい。訪れたのは11月中旬であり、冬季への準備のため、木箱で覆われ、その煌びやかな光景を見ることができなかったのは残念である。
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ピョートル大帝の後、18世紀後半に登場した女帝エカテリーナ2世は、啓蒙専制君主として、ヴォルテールなどと親交があり、貴族との協力関係を維持し、都市にも自治権を与え、経済活動の促進を図った一方、治世の後半には農奴制を強化し、フランス革命後には反動的となり自由主義思想を弾圧したと言われている。
エカテリーナ2世は、ピョートル大帝を尊敬していたと言われる。大帝の後継者と自認し、デカブリスト広場に、大帝のために、プーシキンの詩で有名なピョートル大帝像「青年の騎士」を建てている。花崗岩の台座にはロシア語とラテン語で「エカテリーナ2世からピョートル大帝へ」という文字が刻まれている。
彼女は、ピョートル大帝がその妃・エカテリーナ1世のために建てたバロック様式の宮殿「エカテリーナ宮殿」を、彼女の好みに合わせ、一部をたクラシック様式に改装した。宮殿の外壁は、青い塗装が涼やかなロシア・バロック様式で、ロシアの曇った天候の中でも美しく映えていた(2枚目の写真)。
3枚目の写真は、エカテリーナ宮殿の大広間である。大きな窓から差し込む光が金色の彫刻や磨かれた床、鏡など、あらゆる角度に反射し眩しいばかりである。1791年6月、井上靖の小説「おろしや国粋夢譚」でも知られる大国屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、帰国の許可を得たのがこの広場であったと言われている。因みに大国屋光太夫は、ジョン万次郎ほどには知られていないが、江戸時代、海で遭難し、漂流の末ロシアに流れ着いた漁師さんである。
4枚目の写真は、着飾ったエカテリーナ2世の像である。ウエストが大変細いと思ってガイドさんに聞いてみたが、実際もそのようであった、とのことであった。
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