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2013年6月 3日 (月)

真田幸村の史跡を訪ねて

前回の大坂・上町台地散策記事で、難波宮跡の東隣にある玉造近辺には二人の悲劇の人物にまつわる史跡が残っていることを述べ、細川ガラシャについての話をしましたが、今回は真田幸村についての話です。

最初の写真は三光神社にある『真田の抜け穴』と呼ばれる遺構です。この辺りは大坂城の出城・真田出丸があり、大阪冬の陣の際、幸村が大阪城中からここまで掘ったと言われるものです。二枚目の写真は大阪夏の陣の際、真田幸村が戦死した安居神社にある戦没碑です。これは四天王寺近く、天王寺七坂のひとつ天神坂の丘の上にあります。後は、大坂夏の陣の写真と散策した近辺の地図です。
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関ヶ原の戦いで...家康を追いつめた勇猛な名将として語り継がれた真田幸村は、戦国時代最後の武将と言われていますが、その奮戦ぶりは東軍からも『真田日本一の兵(つわもの)』と称賛され、徳川幕府側も真田の名将ぶりの流布を、敢えて禁じることはなかったと言われています。家康と徳川幕府も武士道に基づく尊意を感じたのでしよう。幸村は後世、『真田三代記』や『猿飛佐助(立川文庫)』による真田十勇士の伝説などでも有名となりました。

私などは関東、関西の両方に居住したので、それ程でもありませんが、関西特に大阪では、今でも幸村人気は相変わらずです。かつて阪神の投手として活躍したあの江夏豊さんが、巨人・阪神戦ともなると関ケ原の戦いの再現だと意気込んで試合に臨んだと言われていましたが、幸村人気はこの様な関西人としての郷土愛に満ちた人たちに支えられて来たのだと思いました。
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さて真田幸村は、関ケ原の戦いには父・昌幸とともに西軍に加わり、信濃・上田城を死守。このため徳川秀忠軍は攻めあぐみ、関ケ原への到着が遅れたと言われています。戦いは西軍が敗れ、本来ならば敗軍の将として死罪に処せられるところでしたが、東軍についた兄・信之の嘆願で紀伊国九度山に配流を命じられるのみに留まりました(幸村33歳)。

真田幸村の武名を天下に知らしめたのは、その後の大阪冬の陣、夏の陣です。幸村は慶長19年、豊臣秀頼に招かれて大坂に入城、大坂冬の陣では、城の南東の玉造口外に真田丸という出丸を築いて空堀をめぐらせ、関東軍を悩ませました。その時、徳川家康から寝返るよう説得されたと言われていますが、豊臣家への忠誠を貫き通しました。
翌年の大坂夏の陣では、茶臼山に布陣し、家康の本陣へ突撃して家康を危機に陥れましたが(この時、家康は自害を覚悟したという)、最終的には兵力で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社で戦死しました(享年48歳)。その奮戦ぶりは東軍から『真田本の兵(つわもの)』と称賛されたそうです。
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