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2013年8月

2013年8月30日 (金)

マンドロ祭(万灯籠祭)

この夏、8月3日、地元、箕面・萱野地域で行われた「まんどろ 火祭り」を初めて観ました。地域の子供たちなど多くの人たちが、松明(たいまつ)や提灯を手に、かやの中央(ヴィソラ)の中を流れる千里川沿いの川道を練り歩きました。「マンドロとぼせ、マンドロ燃やせ・・・」と歌いながら、賑やかに、光の行列をつくっていました。

「マンドロ(万灯籠)」と呼ぶ行事は、愛宕信仰になぞらえた火祭りです。
昔、箕面のそれぞれの村落は、村を火災から守る防火の神として、必ずひとつの愛宕の祠を祀っていたそうです。愛宕という神は防火の神であり、それぞれの村は、京都の愛宕山から護符や分霊を頂いて持ち帰り、祠に収めて、その効験を祈りました。

しかしこの祭りは次第に行われなくなって来ました。この萱野地区では10年前に、この祭りを復活させ、今日に至っています。このような伝統ある祭が今後も続いて、後世に残して欲しいものです。


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2013年8月29日 (木)

緒方貞子さん・我が国が誇る外交官

緒方貞子さん、85歳。国連の難民救済機関・UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のトップを1991年から10年に渡って務めた。先日TV番組で紹介された彼女の活躍に、日本人として大変誇りを感じた。

緒方さんは、外交官や政治家の多い家系に育ち、また英語力に優れていることもあったにせよ、市川房枝さんの推薦と要請により国際連合の仕事に携わったのを契機として、実力で、東洋人として初めてUNHCRのトップに選ばれた。
選ばれた当時は、東洋人への偏見や女性に何ができるの...かという部下からの冷たい視線が彼女に注がれていたという。しかし、緒方さんは、持ち前の行動力と勇気ある決断力を武器に、アフリカや旧ユーゴスラビア・コソボなどにおける戦争が生み出した弱者である難民を救うために世界を駆け回り、信頼と人々の尊敬の念を得た。

特筆ですべきは、前例にとらわれない決断を次々に下していったことだ。これが男性ならば、組織の「しがらみ」にとらわれて周囲を気にし、優柔不断となり、物事が進まなかったかも知れない。緒方さんにはそのような「しがらみ」がなかったのであろう。我が国の政治の舞台を見ても、緒方さんのことを考えると、考えさせられることがある。女性だけの肩を持つわけではないが、遅々とした福島原発の復興などを見ていると、男性主体の政治には疑問が投げかけられる。

この番組で印象に残った点がもう一つある。このような緒方さんの必死の努力で命を救われた女の子たちの中に、「オガタ・サドコ」と名付けられた子供さんがいることだ。いかに緒方さんが、真に難民の人たちに尽くしたかを物語るものであり、感動した。
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2013年8月26日 (月)

番組「半沢直樹」は、現在の殺伐とした社会への警鐘である

最近、人気を集めている番組・TBS系の日曜劇場『半沢直樹』。一体どういうところが受けているのだろうと思って昨夜観てみた。原作は、元銀行員で直木賞作家である池井戸潤氏の企業エンターテインメント小説『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』で、バブル末期に大手都市銀行に入行した主人公半沢直樹の企業社会での奮闘を描いたドラマだという。番組では、バブル期に“東京中央銀行”に入行した堺雅人さん扮する半沢直樹が、社内外の「敵」と戦い、組織の「悪」と闘っている様子が映し出されていた。

理不尽な上司を戒めると共に、同僚や部下など、彼らの被害者たる者の側に立って奮戦している姿は、勧善懲悪の物語として、私も感動するところがあった。

さて、バブル期を経た現在の状況はどうであろうか。若い人の就職難、非正規社員の増加、ブラック企業の出現、等々、企業経営を巡る情勢は悪化しつつある。たとえば、かつては優良企業...の代表とさえ云われ、人を解雇することなく、従業員を大切にすることで名が知られていた関西にある大企業は、「追い出し部屋」などを設け、世間から非難を浴びている。これにより、この企業は地域の雇用を守り、社会に貢献するという経営理念のひとつを捨て去った。創業者M氏が築いた素晴らしい企業風土は今は過去のものとなった。近年の経営者層の品格の低下は著しい。

番組「『半沢直樹』は、このような状況の中で、今の社会に不満を感じている人々の鬱積の吐口として観られているケースが多いのではないかと思った。我が国としては、淋しい現象である。日本にも様々な企業があるが、世界的に見れば、今も尚、皆が仲良く、比較的平等な立場で、協力し合って、会社を営んで来たところが多い。このような我が国の良き伝統を守るためにも、この番組が、経営者や社会の枠組みを決める政治家への警鐘として受け止められればいいなと思った。

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2013年8月22日 (木)

高山右近の郷・高山 →望まれる村の活性化  

8月初め、箕面市の隣にある豊能郡豊能町高山を箕面ボランティアガイドの仲間と共に訪れた。高山は、かの有名なキリシタン大名・高山右近の出身地として知られている。箕面の北摂霊園から歩くこと約30分、そこには、のどかな農村風景が広がっていた。青い田圃が、棚田として山裾にも広がっており、目に爽やかで、歩行の疲れを癒してくれた。

高山は、棚田や野菜畑といった農業が主要な地区であるが、人口減少によって高山小学校が廃校になるなど、過疎高齢化が進んでいる。人口は59戸、17...1人。「若い人が流出し、村は殆ど年寄だけになった。何か高山再生のヒントが欲しい」と、お会いした自治会長のSさんが嘆いておられた。

高山には住吉神社などの寺社もあるが、やはりキリスト教関係の遺跡が多い。休憩した八幡神社がある丘には高山右近生誕之地の碑があり、近くには江戸時代、慶応3年(1867)設置されたキリシタン禁令の高札が残っていた。少し山に入った所には、高山マリアの墓と名付けられた隠れキリシタンの墓もあった。墓には江戸時代中期の元文・延亭・寛延の年号が刻まれていた。今から約90年前(大正時代)、ローマからはるばる使節団が訪れ、この隠れキリシタンを祝福したという記録が残っている。また宣教師・ルイス・フロイス(「日本史」を書いた)が戦国時代の混乱の中で、教会の祭具が略奪されるのを恐れ、この高山の山の中の石室に隠し置いたことから、毎年正月になると、その石室から聖霊を運ぶ金のハトが悲しそうに鳴くという、金の鳥伝説が生まれている。

現在、高山には住吉神社を主体とした祭はあるが、高山右近に関する祭などは行われていない。高山活性化のためにも、クリスチャン・高山右近に関する歴史をもっと活用すべきでないかと感じた。

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2013年8月16日 (金)

蝉の声

8月も半ばだというのに暑さは依然として衰えることなく続いている。ここ数年、暑さの関係か、蝉の世界に異変が見られる。大阪・箕面市でも、朝起きると、クマゼミのけたたましい鳴き声で目が覚める。庭の木にはクマゼミが何匹も連なるようにとまっているのを見かけることがある。私の子供時代には、当時、堺市に住んでいたが、蝉といえば、ニイニイゼミが多く、次に、茶色の羽のアブラゼミと続き、クマゼミが希少で子供にとっては価値のあるものだった

蝉の種類は気温によって変化している様だ。箕面でも、高温を好むクマゼミは平地で鳴いているが、より涼しい気温を好むアブラゼミやニイニイゼミは平地では殆ど見られず、山の中で鳴いている。アブラゼミやニイニイゼミの減少には淋しさを感じる。以前は、これらの比較的静かな?蝉の鳴き声を聴きながら、物思いに耽り、昼寝を楽しんだものだ。

芭蕉が詠んだ句に、「閑(しず)...かさや岩にしみいる蝉の声」 というのがある。この句は紀行「奥の細道」の中にあり、芭蕉が山形藩の立石寺(山形市山寺)という静かな山寺で詠んだものである。夕暮れの静寂の中で、蝉の声だけが、岩にしみとおるように聞こえてくる、という意味である。そして、この蝉の種類はニイニイゼミであろう、といわれている。

確かにそうであろう。クマゼミのようなけたたましい鳴き声はこの句には相応しくない。かぼそい声で鳴くニイニイゼミがぴったりである。今、立石寺でどのような蝉が鳴いているのか、わからないが、若しもニイニイゼミでないならば、芭蕉のこの句は現代では成立しない。

また、暑さの関係で、高齢者を中心として熱中症により亡くなられた方の悲しい話もニュースで伝えられている。昔は日射病という言葉があったものの、熱中症というような言葉がなかった。

自然が変われば、生活や文化も影響を受けることを感じてしまうこの頃である。

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2013年8月10日 (土)

西郷隆盛と勝海舟

<西郷隆盛と勝海舟>
我が国近代化の幕開けとなった明治維新は、戊辰戦争を経て成し遂げられた。この戦争は、官軍と旧幕府側との幾つかの戦い、彰義隊との戦い、「八重さん」が活躍するNHK「八重の桜」での会津藩での戦い、五稜郭での最後の戦い、などで数々の悲劇を生んだ。

しかし、戊辰戦争のクライマックスは、官軍による江戸城総攻撃が勝海舟と西郷隆盛の会談によって回避されたことである。江戸百万の人々の命をなんとか助けたいという気持ちが二人の合意に結びついたと言われている。若しもこの合意が...成立していなかったならば、我が国はイギリスやフランスなどの列強に侵略のきっかけを与え、その後の歴史が変わったものになっていたと言われる。

勝海舟と西郷隆盛の会談は、最終的に西郷が「それじゃ勝さん、全部あなたにおまかせしますよ、あとはあなたの思ったとおりやってください」という一言で決着が付き、江戸城の無血開城が実現した。談判の大詰めで西郷は勝の要求をすべてのんだ。総攻撃は中止された。
海舟の墓がある東京洗足池、海舟のかたわらに並ぶ西郷の留魂碑、西南の役で非業に倒れた西郷を海舟がひそかに弔っていたのである。海舟は碑文に次のように刻んだ。

 「嗚呼、百万の生霊を塗炭に陥らしめず、君すでに逝く。欽慕の情おのずからやむあたわず。嗚呼、君よく我を知り、君を知る我に如く莫し」

渋沢栄一は「子曰く、巧言令色には鮮(すくな)し仁」、という論語の言葉を引用し、西郷を次の様に評している:維新の三傑の随一といわれた西郷隆盛は、実に仁愛の深い同情心に富んだ人であった、また、西郷は剛毅なる大丈夫で平生いたって寡黙だったが、実に君子の趣があったと。そして薩南の健児三千人に担がれて明治10年に賊将となったのも、つまり仁愛に過ぎたためと見ることができる、と弁護している。

「子曰く、巧言令色には鮮(すくな)し仁」の意味するところは、次の通りである:
人に接するのに言語弁舌を巧みに使い飾り、あるいは顔色物腰をきれいにして、人に喜ばれようと努め、外面 の体裁にだけこだわるような人は、悪意はないにしても、この種の人には不仁者が多いものだ。仁は孔子の生命であり、孔子がその中心にすえた倫理規定であり、人間関係の基本となるもの。「他人に対する親愛の情、優しさ」と言える。

西郷は晩年、征韓論に破れて下野するが、西郷ほどの人が征韓を主張したことが彼の生涯の最大の汚点だったという人がいる。私もそう思う。明治維新に貢献したこの人物が何故、このような愚かな侵略戦争を主張したのか、西郷は本気でこのようなことを考えていたわけでないという説もある、また晩年、西郷が正常な判断をできなくなるような精神的病に冒されていたという説もある・・・確か司馬遼太郎氏がどこかでそのように述べておられたように思う。

余談だが、渋沢栄一は次のように西郷と大久保利通を比較している。
大久保利通は私の嫌いな人で、私もひどく彼に嫌われたが、彼の日常を見るたびに、立派な人物で感嘆の情を禁じえなかった。たいていの人はいかに識見が卓抜であっても、その考え方はだいたい外から推測できるものである。ところが大久保は、正体がつかめず、私のような不肖者ではとても測り知ることができない。これがなんとなく嫌な人だと感じさせた一因だと思う。
これに対して西郷は、ひとことにしていえば、大変親切な同情心の深い、一見して懐かしく思われる人だった。外から見たところでは、はたして偉い人であるのか、鈍い人であるのか、わからなかったくらいである。賢愚を超越した将に将たる君子の趣があった。

写真は、東京・芝にある薩摩屋敷跡に建つ会見碑である。

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