« 天神祭 | トップページ | 蝉の声 »

2013年8月10日 (土)

西郷隆盛と勝海舟

<西郷隆盛と勝海舟>
我が国近代化の幕開けとなった明治維新は、戊辰戦争を経て成し遂げられた。この戦争は、官軍と旧幕府側との幾つかの戦い、彰義隊との戦い、「八重さん」が活躍するNHK「八重の桜」での会津藩での戦い、五稜郭での最後の戦い、などで数々の悲劇を生んだ。

しかし、戊辰戦争のクライマックスは、官軍による江戸城総攻撃が勝海舟と西郷隆盛の会談によって回避されたことである。江戸百万の人々の命をなんとか助けたいという気持ちが二人の合意に結びついたと言われている。若しもこの合意が...成立していなかったならば、我が国はイギリスやフランスなどの列強に侵略のきっかけを与え、その後の歴史が変わったものになっていたと言われる。

勝海舟と西郷隆盛の会談は、最終的に西郷が「それじゃ勝さん、全部あなたにおまかせしますよ、あとはあなたの思ったとおりやってください」という一言で決着が付き、江戸城の無血開城が実現した。談判の大詰めで西郷は勝の要求をすべてのんだ。総攻撃は中止された。
海舟の墓がある東京洗足池、海舟のかたわらに並ぶ西郷の留魂碑、西南の役で非業に倒れた西郷を海舟がひそかに弔っていたのである。海舟は碑文に次のように刻んだ。

 「嗚呼、百万の生霊を塗炭に陥らしめず、君すでに逝く。欽慕の情おのずからやむあたわず。嗚呼、君よく我を知り、君を知る我に如く莫し」

渋沢栄一は「子曰く、巧言令色には鮮(すくな)し仁」、という論語の言葉を引用し、西郷を次の様に評している:維新の三傑の随一といわれた西郷隆盛は、実に仁愛の深い同情心に富んだ人であった、また、西郷は剛毅なる大丈夫で平生いたって寡黙だったが、実に君子の趣があったと。そして薩南の健児三千人に担がれて明治10年に賊将となったのも、つまり仁愛に過ぎたためと見ることができる、と弁護している。

「子曰く、巧言令色には鮮(すくな)し仁」の意味するところは、次の通りである:
人に接するのに言語弁舌を巧みに使い飾り、あるいは顔色物腰をきれいにして、人に喜ばれようと努め、外面 の体裁にだけこだわるような人は、悪意はないにしても、この種の人には不仁者が多いものだ。仁は孔子の生命であり、孔子がその中心にすえた倫理規定であり、人間関係の基本となるもの。「他人に対する親愛の情、優しさ」と言える。

西郷は晩年、征韓論に破れて下野するが、西郷ほどの人が征韓を主張したことが彼の生涯の最大の汚点だったという人がいる。私もそう思う。明治維新に貢献したこの人物が何故、このような愚かな侵略戦争を主張したのか、西郷は本気でこのようなことを考えていたわけでないという説もある、また晩年、西郷が正常な判断をできなくなるような精神的病に冒されていたという説もある・・・確か司馬遼太郎氏がどこかでそのように述べておられたように思う。

余談だが、渋沢栄一は次のように西郷と大久保利通を比較している。
大久保利通は私の嫌いな人で、私もひどく彼に嫌われたが、彼の日常を見るたびに、立派な人物で感嘆の情を禁じえなかった。たいていの人はいかに識見が卓抜であっても、その考え方はだいたい外から推測できるものである。ところが大久保は、正体がつかめず、私のような不肖者ではとても測り知ることができない。これがなんとなく嫌な人だと感じさせた一因だと思う。
これに対して西郷は、ひとことにしていえば、大変親切な同情心の深い、一見して懐かしく思われる人だった。外から見たところでは、はたして偉い人であるのか、鈍い人であるのか、わからなかったくらいである。賢愚を超越した将に将たる君子の趣があった。

写真は、東京・芝にある薩摩屋敷跡に建つ会見碑である。

Img_20130708_0001


|

« 天神祭 | トップページ | 蝉の声 »

2.日記・随想・歴史紀行・音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/209617/57965351

この記事へのトラックバック一覧です: 西郷隆盛と勝海舟:

« 天神祭 | トップページ | 蝉の声 »