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2013年11月

2013年11月24日 (日)

自民党は何故、特定秘密保護法案の成立を急ぐのか?

自民党は、特定秘密保護法案の成立を急いでいます。この法案は外交、国防などに限定したものだと言われています。確かに、たとえば、急速に国力を増し、周辺諸国への影響を及ぼそうとして、また国内では少数民族を弾圧するなど、大国的な振る舞いを始めた中国の覇権主義に対して我が国を守ることは必要であると思われます。

然しながら、このような法案は、時の権力者によって恣意的に拡大解釈され、国民生活における言論の自由や知る権利が損なわれる危険性が大いにあります。何もない平和な時であればいいのですが、たとえば気候不順による世界的な食糧不安などがあれば、この先、戦争というような事態に発展しないとは誰も断定できません。

故司馬遼太郎氏は、「昭和の初めから昭和20年までの時期は、日本は異常な状態におかれていた、あれは本来の日本ではなかった」と嘆いておられました。その時代は、一部の軍部が、統帥権という名の下に、議会制民主主義を無視し、法令を完全に無視し、我が国を戦争に追いやったと云うことです。時の権力者は常に善良な人間であるとは限りません。また、人間は、困った時は、間違った指導者(日中、太平洋戦争における我が国政治家やドイツ・ナチス党のヒトラーなど)にでも当面の問題を委ね、すがりたいという気持ちを起こす弱い面があります。

そのようなわけで、特定秘密保護法案のような法案は、国民が十分納得した上で決められるべきです。このような法案が特別必要であるとは思いませんが、必要だとしても、急いで中途半端な法案の成立を急ぐ必要はありません。今の自民党を見ると、国民が十分に理解しない間に、こっそりと法案を通してしまいたいという意図が潜んでいるように思われます。我々国民は、過去の暗い時代を繰り返さないためにも、取り返しのない事態にならないように十分にチェックしなければなりません。

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2013年11月15日 (金)

島倉千代子さんの死を悼む

<島倉千代子さんの死を悼む>

島倉千代子さんがお亡くなりになった。また一人、戦後の暗い時代の中で、人々に生きる希望、喜びを与え続けて来た偉大な歌手が、また一人消えていく淋しさを感じた。私にとって年齢的にはお姉さんのような存在だった。

島倉千代子さんは、美空ひばりさんのような華やかさこそなかったが、庶民が共鳴できるような数々の歌を提供し続け、親しみを感じさせる歌手だった。美空ひばりさんと比較しても甲乙付けがたい歌手であったように思う。また歳をとっても可愛らしさ感じる方だった。...
デビュー曲「この世の花」や「カラタチ日記」「東京だよ、おっかさん」、最近では「人生いろいろ」などが今でも私の記憶の中にある。これらの歌は永久に歌い継がれていくことだろう。

亡くなられる3日前、自宅に機材を持ち込み、新曲「からたちの小径」のレコーディングを行ったという。肉声は、終了後に録音した島倉さんのお別れのメッセージだった:
「私の部屋の中にスタジオができて、それで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、もう二度と見られないこの風景を、見せていただきながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした」

島倉さんのご冥福をお祈り致します。
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2013年11月14日 (木)

神戸・中華街にあるヴェトナム料理店のこと

先日、久し振りに家内と神戸へ。プーシキン美術館展でフランス絵画300年を観るためだ。絵画を鑑賞する前に、神戸に来た時、よく行く中華街の中にあるヴェトナム料理店に入った。

入店した早々、店の方から、「この11月で店仕舞いをします。これまでどうも有り難うございました」と挨拶された。このヴェトナム料理店は、こぢんまりとした店で、料理が美味しいことは勿論だが、大変家庭的で、くつろげる雰囲気に満ちた楽しい店だけに、ずっと存続して欲しいと思っていた。それだけに、閉店の話を聞いて大変残念で、淋しく思った。

この店は30年前にヴェトナム戦争の戦火から船で逃れて、日本にやってきた兄と妹が、経営している。彼らはいわゆるボートピープルである。日本に辿りついた時は、それぞれ13歳と7歳であり、苦労を重ねて日本語を学び、日本社会で生きる術を得ようと必死に頑張って来られた。そして、兄さんの方は料理の資格を得、妹さんは兄を助け、店を開店。今日まで順調に歩んで来られた。今や地域社会に十分に溶け込んでおられる。そして、お二人とも日本人と結婚されて幸せな家庭を築かれているという。

店を閉じるのは、顧客の数が最近、減少し採算が合わなくなって来ているからだという。中華街を訪れる観光客は多いが、中華街の中で食事をする人は案外少なく、また最近は外食する人が減って来ているからだという。今後のことだが、住まいは長年住み慣れ、仲間も沢山できた神戸を離れず、別のもっと立地条件が良い所に移って店を再開したいと言っていた。彼らの今後の健闘を祈りたい。

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2013年11月 9日 (土)

四天王寺ワッソに往昔の交流を見た

<四天王寺ワッソ>

先日、11月4日、難波の宮跡で行われた四天王寺ワッソを見に行って来ました。『ワッソ』とは、現代韓国語で「来た」という意味だそうです。このワッソを、幾年か前から是非一度見たいと思っていたのですが、雨で中止になったり、自分の都合がつかなかったりして行けませんでした。ということで、今回初めてのワッソでしたが、来て良かったです。当日は途中でにわか雨があり一時中断しましたが、古代の近隣諸国、特に朝鮮との文化交流について多くのことを知り得て、楽しい一日でした。祭は、日...本に渡来した人々の巡行と、これらの人々を出迎える交流祭事から構成されていました。
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古代、大阪には、“なにわの津”と呼ばれる港があり、我が国における朝鮮や中国との交流の拠点でした。そして“難波の宮”は、その頃の首都または副都であり、渡来した使節団は、ここから迎賓的な存在であった四天王寺へと導かれた後、日本最初の官道・竹内街道などを通って、飛鳥へ旅立ちました。百済からは、漢字を伝えた王仁(わに)博士や、仏教を伝えた聖明王、新羅からは製鉄技術を伝えた天日槍(あめのひぼこ)などがやって来て、日本の文化や技術の発展に大いに貢献しました。

この四天王寺ワッソは、このようなかつての国際交流を現代に再現する祭として、未来を担う若者や子供たちに正しい歴史観を学んでもらい、受け継いでいってもらうために1990年に創設されたということです。その後、2004年からはNPO法人・大阪ワッソ文化交流協会が主体となって運営しています。

学校教育にはない、このような近隣諸国との交流の歴史を学ぶ機会として、四天王寺ワッソは、非常に優れたイベントであると私は感じました。是非今後も継続してほしいと思います。
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2013年11月 2日 (土)

東北の旅・バスガイドさんのこと

<バスガイドさんのこと>
10月末、東北地方を旅した。学生時代に友人とスリーピングバックを担ぎ、猪苗代湖から十和田湖、平泉へと旅して以来のことである。今回は某旅行社による3日間のバスツアーで、盛り沢山の日程で慌ただしかったが、楽しい旅であった。

旅を楽しくしてくれたのは、仙台在住のバスガイド、Tさんだった。彼女は、東北大震災の時、仙台のバス会社でバスガイドとして働いていたが、ある日、業務を終わりバスの掃除をしている最中に地震と津波に襲われた。バスは流され、会社も消失した。震...災後、仕事のあてもなく両親の家で無為に過ごし、将来どうしようかと考えていたが、そのうち、もう一度、バスガイドとして活躍したいという想いが昂じて来た。その時、神からのプレゼントというか、偶然に山形県のバス会社がガイドを募集していることを知人経由で知り、応募し採用されたのだという。

彼女のバスガイド振りは実に素晴らしいものであった。旅は仙台空港から、角館、田沢湖、発荷峠、十和田湖、奥入瀬渓流、平泉に至るものであった。彼女は、観光スポット地点や途中の移動中も、それぞれの地域の歴史、文化などについて、克明に勉強されていて、興味深い話を沢山聞かせてくれた。日本一人口の多い村・滝沢村のことや柳田国男氏によっていで有名になった「遠野」に関する民俗伝承など、語り部に成りきって説明してくれたことには感激した。
最後に彼女は、「皆さん、また東北へ来られた時、私に会ったら知らない顔をしないで下さいよ。しかし、もしかしたら、その時はお嫁にいっているかも知れませが」と言った。是非とも幸せな結婚をして欲しいものだと私は思った。
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旅の最後に訪れた平泉。学生時代の旅で、宿泊費用を倹約するため、中尊寺近くの小学校に、無理を言って泊めて頂いたことを思い出した。中尊寺に着いて境内を廻っていると、昔見た同じ光景が幾つか眼前に現れ、奥州藤原氏が三代にわたって築いた栄華の面影が偲ばれた。
松尾芭蕉が中尊寺で詠んだ「五月雨の降り残してや光堂」の句碑が銅像と共にあった。句の意味は、「すべてを朽ちさせるように、毎年降り続ける五月雨も、この光堂(金色堂のこと)だけは遠慮して降り残したのだろうか。長い歴史を伝えるように、光堂は今なお燦然と輝いている」ということである。

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地元の祭り・人と人の絆を深める

箕面市内の幾つかの神社では、10月20日、秋祭りが行われた。小野原にある春日神社、桜ヶ丘にある阿比太神社、牧落にある牧落八幡大神宮など。最近、地元の文化に触れようと、機会があれば出来るだけ祭りなどのイベントを見に行くことにしている。今年は、牧落八幡大神宮へ行った。

この神宮は、牧落村の氏神で、寛文2年(1662)石清水八幡宮(京都山城国)の分霊を勧請したのに始まる。八幡宮だから、言うまでもなく応神天皇が祀られている。江戸時代の末、安政6年(1859)に境内が整備され、現在の基ができた。境内には智慧の神様、久延彦命社もあり、石の知恵の輪が置かれている。

祭りの圧巻は何と言っても神輿である。ここでは、こども神輿と大人のための太古神輿があり、太古神輿には、大太鼓神輿(男性用)と布団太鼓神輿(女性用)、神社神輿の3つがあった。

子供神輿や女性用の神輿は、近年、設けられたもので、沈滞していた祭りを盛り上げるため、地元の有志が考え出したとのこと。子供たちが元気に担ぐ子供神輿や女性だけが担ぐ布団太古神輿を見物した。男性だけでなく、女性も主体的に参加するお祭りは、華麗で楽しいものである。普段は静かな佇まいを見せている神宮周辺はこの日ばかりは、多くの人で賑わっていた。ふるまい酒を頂きながら、屋台で買った焼き鳥の味は格別だった。

人と人との絆が次第に希薄になりつつある現代社会だからこそ、このような祭りによって、お互いの結びつきを深めることが必要であると改めて感じた。
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