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2014年6月

2014年6月28日 (土)

都議会 女性蔑視のヤジ・前代未聞の正義に反する決議案 

このような暗い記事を何度も書きたくないのですが、もう一度書きたいと思う衝動に駆られました。
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塩村議員に対する差別的ヤジ問題で、数人の議員によるヤジが飛んだことが明らかになった。その中の一人の自民党議員が名乗り出たが、他の自民党議員は名乗らず。

そのような中、「他のヤジの発言者を特定しない決議案」が自民党主導で決議された。この「驚くべく非民主的で、正義に反する決議案」は前代未聞であると云わざるを得ない。我が国のイメージを損なう決議案だとも云える。この決議案を主導した自民党のY幹事長自らがヤジを飛ばしたという噂がある。
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塩村文夏氏議員は、妊娠、出産、不妊に悩む女性への支援を訴えた。これに対して「自分が早く結婚すればいい」「産めないのか」「努力次第だ」などの心ない、女性の尊厳を冒涜するような差別的ヤジが浴びせられた。

先日、ニュースでこの時の声紋鑑定の状況を聞いた。立て続きに発せられるヤジ。一人の女性議員を弱い者いじめをするかのような状況だった。新人議員には耐えられない状態であると感じた。塩村議員は、「産めないのか」というヤジが最も心に痛く響いたと、後に語っている。
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これらのヤジ議員を特定し、政治の舞台から去ってもらわなければ、都議会、乃至は我が国の発展はない。

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2014年6月27日 (金)

箕面・池田 神功皇后伝説

<神功皇后伝説>
当地、大阪箕面には、如意谷と呼ばれるところがあり、神功皇后伝説によれば、神功皇后が朝鮮から持ち帰った如意宝珠が埋められたというのでこの地名があるのだという。因みに神功皇后とは、仲哀天皇の后で、3世紀の頃、古代朝鮮へ向っての帰途、九州の地で応神天皇を生んだという方である。大阪・住吉神社にも祭神として祀られているのは皆様ご存じの通りである。

さて、先日お隣の池田市に歴史探訪?に行った時、池田市にも、この神功皇后伝説があることを知った。行基が、神功皇后が新羅の国...王から献上され、持ち帰ったとされる釈尊の鉄鉢(僧が托鉢に持ちいる)が鉢塚に埋められているのを掘り起し、これを聖武天皇が受けられ、勅により多羅山・若王子という寺を創建、その寺の鎮守社として建てられたのが現在残っている五社神社だという。

この神社本殿の後方に、鉢塚が埋められていたという鉢塚古墳がある。古墳時代後期の古墳で、明日香村にある蘇我馬子の墓と伝えられる有名な「石舞台古墳」と匹敵するほど壮大な史蹟である。玄室の大きさはほぼ同じ、横穴式上円下方墳だと云われて来たが最近の研究では円墳だそうだ。

石室内には石造十三重塔があり、これは国の重要文化財に指定されている。被葬者は帰化人豪族の秦氏だといわれている。そう云えば、この鉢塚古墳は京都太秦にある蛇塚古墳(秦氏が被葬者)に似ている。池田にあるこの鉢塚古墳がそれほど、知られていないのは何故だろうか?


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2014年6月20日 (金)

政治家の本音

本音というものは、幾ら隠そうと思っても、無意識のうちに出て来るものだ。
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6月18日の都議会で、妊娠、出産、不妊に悩む女性への支援を訴えた塩村文夏氏に対して、「自分が早く結婚すればいい」「産めないのか」などの心ない、女性の尊厳を冒涜するようなヤジが浴びせられた。塩村氏は涙ながらに質問を続けた。ヤジを飛ばしたのは自民党議員だという。このような品格を欠く議員は即刻、政治の舞台から消えるべき。
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6月16日、石原伸晃環境相は16日、東京電力福島第一原発事故の除染で出た汚染土などを保管する中間貯蔵施設の建設をめぐり、首相官邸で記者団に対し「最後は金目(かねめ)でしょ」と語った。金さえ出しておけば国民は黙るだろうという、金で人の心を買うという最も卑劣な行為。今年1月行われた沖縄・名護市長選でも、自民党から沖縄振興資金を餌に、選挙民を懐柔する方策が前面に出されたことは記憶に新しい。自民党の体質は変わらず。

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二上山・當麻寺・大津皇子

今年の3月10日、予てからの願望であった大和にある二上山に仲間と登る機会がありました。後日、その旅の記録を地元の箕面観光ボランティアガイドの会報に投稿しました。今回、その内容を少し簡略化して(それでも少し長いですが)記したいと思います。
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二上山は古くは“フタカミヤマ”と呼ばれていた。大和側から見ると、二上山の二つの峰の間に日が沈む。大和の人々は、そこに西方浄土というものを連想したそうだ。...つまり大和の古代人は二上山を、現世とあの世の結界だと考えていた。五木寛之氏によれば、大和には「光と影」があるという。朝日がさす東の「山の辺の道」があれば、夕日沈む西の「葛城の道」がある。東の三輪山が朝日さす神の山なら、西の二上山は日の沈む浄土の山である。

この光が当たる大和を代表する歌と言えば、記紀にある次の有名な歌である。
「倭(やまと)は国のまほろば  たたなづく青垣
          山こもれる倭(やまと)し美(うるわ)し」

これは、東国に遠征した日本武尊(やまとたけるのみこと)が、その帰途伊勢で歌ったものだ。

彼はそこで病気になり亡くなるが、この歌は、ふるさとの倭(大和)を回想した時のものだ。この歌の意味は「倭はいちばん素晴らしい国。幾重にも重なって、青々とした垣をなす山々、その山々に囲み抱かれている倭は、なんと美しい国だろう」と云う意味である。このように大和の光の面が強調され続けて来た。

一方、大和の光の影の部分であるが、この二上山の向こう側は死者の国だった。現在の太子町などには王陵の谷と呼ばれる古墳地帯になっており、当時の権力者である、敏達天皇、用明天皇、推古天皇や聖徳太子、蘇我馬子などの墳墓がある。

つまり大和の側で生き、亡くなった人たちを河内の側へ送り出した。二上山の山頂には、反逆者の汚名を着せられて、24歳の若さで亡くなった悲劇の皇子・大津の皇子が葬られていて、彼の墓は大和側に、つまり飛鳥の都に対して背中を向けて建てられている。
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さて、3月10日は、まだ薄ら寒さを感じる時期だった。朝10時、近鉄當麻寺(たいまでら)駅にて、仲間3人と待ち合わせ出発。當麻は二上山の麓の町で、古代、竹内街道を通り、河内から大和へ向う人々にとって、この地は竹内峠を越えたところにある大和側の最初の要衝の地であった。

因みにこの竹内街道は、大和の都の東西の幹線道路である「横大路」の西の延長部分に当たり、横大路は日本書紀の推古21年(613年)に「難波(なにわ)より京(みやこ)に至る大道を置く」として初めて官道として整備された日本で最も古い国道だ。遣隋使や遣唐使が通り抜けた道である。

當麻寺駅前の美しい門前町を通り抜けて當麻寺へ向う。途中には旧家の古い建物が立ち並び、相撲開祖の當麻蹴速(たいまのけはや)の塚があった。暫く歩いて當麻寺の東大門に到着。當麻寺は當麻氏という豪族の氏寺である。白鳳・天平時代の大伽藍を多く残し、東塔・西塔という創建時の姿を二基とも残しているのはここだけだという。本堂は、威風堂々たるたたずまいで、中将(ちゅうじょう)姫(ひめ)伝説で有名な中将姫が蓮糸で、一夜で織り上げたという縦横4mもの大きな當麻曼荼羅を本尊として安置する。

この曼荼羅は姫が仏を深く信仰し、写経の功徳によって見えた極楽浄土の光景を壮大な規模で再現したものである。伝説では、中将姫は16歳で出家して29歳で浄土へ往生した。この伝説は世阿弥の謡曲などで多くの人々に知られるようになった。本堂からは二上山が間近に迫って感じられる。

  當麻寺の拝観を終え、左甚五郎作いわれる傘堂、大龍寺、石仏三体と裏向不動明王を経て、聖徳太子が拓いたという岩屋道を通り、岩屋峠に到着。かなり急勾配のある坂道なので少々息が切れる。少し休憩後、雌岳へ向う。この頃から晴れていた空が俄かに曇り始め、みぞれ混じりの雪がちらほらと。ようやく雌岳(474m)に到着。ここから見る大和の風景や河内の風景は素晴らしい。大和三山である畝傍、耳成、天の香久山が眼下に広がる。

ひと息ついてから、馬の背を経て、最終目的地の雄岳(517m)に到着。雄岳で記念撮影。念願の大津皇子の墓を拝観。大津皇子は、天武天皇の第三皇子として生まれたが、24歳の時に謀反の疑いをかけられて刑死した。日本書紀によれば、彼は容姿に優れ、性格は父に似て豪放磊落で、文武に秀でていた。大津皇子の母は、天武天皇の皇后(後の持統天皇)の姉だったが、早く亡くなる。
 
一方、大津皇子よりひとつ年上の皇太子・草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の間に生まれ、人柄は良かったが病弱で、大津皇子に比べると凡庸だったらしい。そのため、皇后(後の持統天皇)は、人望のある大津皇子が、我が子である草壁皇子から皇位を奪われるのではないかと危惧していた。

大津皇子には、2歳年上の唯一の実姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)がいた。伊勢神宮の斎宮であったこの姉と会うために、彼はひそかに伊勢を訪れている。そして686年天武天皇が亡くなる。その僅か8日後に彼は捕えられ、翌日処刑された。これは皇后の計略だったという説もある。彼の遺体は殯宮(もがりのみや)に納められることもなく、二上山の雄岳山頂に葬られた。その墓は大和に背を向けて建てられている。

彼の姉である大伯皇女が詠んだ歌で万葉集に収められているものは5首あるが、その中で最も有名なものは次の歌である。これは彼が処刑された後に、姉の大伯皇女が、伊勢から来て詠んだ歌だ。弟を失った彼女の思いが察せられる。

「うつそみの 人にある我や 明日よりは 
   二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む」

(この世の人間である私は、明日からは、この二上山を
 弟だと思って眺めていよう)

大津皇子には、石川郎女(いしかわのいらつめ)という恋人もいた。彼女は大津皇子の皇位継承のライバルである草壁皇子の求愛を受けながらも、これを退けたとも云われているが、大津と彼女の間で詠まれた歌もある。

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2014年6月13日 (金)

ホタルの観賞会

蛍の季節です!
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大阪・箕面においても6月中~末にかけてホタルの見頃です。 私も昨年、一昨年と箕面の滝道でホタル観賞を楽しみました。 今年も行こうと思っています。 この時期、幾つかの団体がホタル観賞会を行っています。 6月21日(土)には、「箕面の山パトロール隊」主催で、 ホタルの観察会が行われます。
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日時:6月21日(土)(雨天中止)

集合場所:阪急箕面駅前 18:00
解散:滝道 20:00頃
講師:自然観察指導委員
持ち物:懐中電灯・雨具など
申込み締切:6月18日(水)
    箕面の山パトロール隊
      電話:090-6974-0833    
           メール:info@minoh-pato.com

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2014年6月11日 (水)

独裁者の常

最初はやさしい笑顔を振りまいているので何事もないように見えるが、国民がその笑顔に騙されて安心している間に、国民が望まない方向に誘導していくのが世界歴史に見る独裁者の常である。(集団的自衛権容認の憲法解釈による変更)
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中国共産党独裁政権が世界記憶遺産に南京事件や慰安婦問題などを申請したそうだ。これらは事実であるので否定はできないが、それならば天安門事件、チベット弾圧、ウイグル弾圧などで多数の犠牲者を出した事件は何故申請しないのか?
(中国による世界記憶遺産申請)
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このふたつ。どこか似ていますね。

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2014年6月 9日 (月)

ホストファミリーと留学生との交流の集い

6月7日、箕面市国際交流協会が主催した、ホストファミリーと留学生(大阪大学)の交流を目的とした集いがあり、我が家でお世話しているタイ国からの留学生、O・P君を連れて家内と一緒に参加しました。行先は、池田市にあるインスタントラーメン発明記念館です。世界的に知られている日清ラーメンの歴史などを展示すると共にラーメンつくりが体験できるラーメン・ファクトリーを備えています。

今回留学生とホストファミリー併せて約35名が参加。ホストファミリーは皆我々よりも若い夫婦でした、小さいお子さん連れのファミリーもいました。留学生はインド、インドネシア、カメルーン、タイ、中国などからの学生です。 館内見学のあと、カップラーメン作りを楽しみました(カップのデザイン作成・具材とスープの選定・シール・パッキング)。

会場には、大勢の子供たちがカップラーメンつくりに励んでいました。いつも満員だそうです。 その後、池田城跡公園へ行き、カルタ取りなど、留学生の日本語研修を兼ねた遊びを留学生と一緒に楽しみました。若い人たちに囲まれて少し若返った感じがする一日でした。

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2014年6月 4日 (水)

中国はどこへ

今日は6月4日です。25年前の1989年6月4日、中国で天安門事件が起こり、民主化を求める学生を主体とした一般市民のデモが、中国共産党の長老派・保守派により武力弾圧され、多くの若い命が奪われました。
当時ソ連邦においては、ゴルバチョフ氏がペレストロイカを表明し、同国の民主化を進め、ソ連の共産党独裁政権が崩壊した時期に重なります。

中国においても、同時期の1986年、共産党の総書記に就任した胡耀邦氏は、「百花斉方・百家争鳴」を唱え民主化を進めましたが、鄧小平氏らの保守派の抵抗...に遭い1987年に失脚。後任者には、やはり改革派の趙紫陽氏が就任しました。

しかし1989年に胡耀邦氏が死去したのを契機として、民主化を求める学生デモ運動が激化。学生デモ隊に同情的な発言をした趙紫陽氏も失脚。天安門広場に集結した学生を中心とした一般市民デモ隊に対し、鄧小平を中心とする長老派の指示により、本来民衆を守るはずの中華人民解放軍が武力弾圧を行使し、民主化運動は鎮圧されました。ソ連の崩壊の様には行きませんでした。
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ソ連において共産党の独裁政権が崩壊する契機となったのは、政権内部にいた良心的・人間的なゴルバチョフ氏がいたからです。中国の場合も、胡耀邦氏、趙紫陽氏という良心的な人物がいましたが、もう少しのところで力及ばず独裁体制の崩壊に至りませんでした。

胡耀邦氏は1980年、チベット視察に訪れた時、チベットの惨憺たる有様を見て、涙を流したと云われ、チベット政策の誤りを認め謝罪し、直ちに政治犯を釈放したと云われています(胡耀邦失脚後チベット弾圧は復活)。中国共産党と云っても、内部には胡耀邦氏、趙紫陽氏のように人間的な立派な人がいるのです。両氏による改革が成功していれば、世界はもっと平和になっていたでしよう。

ゴルバチョフ氏や胡耀邦氏、趙紫陽氏の様な人の再来を願うものです。

写真は、戦車の侵入を阻止しようといて立ちはだかる若者です。彼の名はわかりません。どこへ連れ去られたかもわかりません。


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