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2014年6月20日 (金)

二上山・當麻寺・大津皇子

今年の3月10日、予てからの願望であった大和にある二上山に仲間と登る機会がありました。後日、その旅の記録を地元の箕面観光ボランティアガイドの会報に投稿しました。今回、その内容を少し簡略化して(それでも少し長いですが)記したいと思います。
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二上山は古くは“フタカミヤマ”と呼ばれていた。大和側から見ると、二上山の二つの峰の間に日が沈む。大和の人々は、そこに西方浄土というものを連想したそうだ。...つまり大和の古代人は二上山を、現世とあの世の結界だと考えていた。五木寛之氏によれば、大和には「光と影」があるという。朝日がさす東の「山の辺の道」があれば、夕日沈む西の「葛城の道」がある。東の三輪山が朝日さす神の山なら、西の二上山は日の沈む浄土の山である。

この光が当たる大和を代表する歌と言えば、記紀にある次の有名な歌である。
「倭(やまと)は国のまほろば  たたなづく青垣
          山こもれる倭(やまと)し美(うるわ)し」

これは、東国に遠征した日本武尊(やまとたけるのみこと)が、その帰途伊勢で歌ったものだ。

彼はそこで病気になり亡くなるが、この歌は、ふるさとの倭(大和)を回想した時のものだ。この歌の意味は「倭はいちばん素晴らしい国。幾重にも重なって、青々とした垣をなす山々、その山々に囲み抱かれている倭は、なんと美しい国だろう」と云う意味である。このように大和の光の面が強調され続けて来た。

一方、大和の光の影の部分であるが、この二上山の向こう側は死者の国だった。現在の太子町などには王陵の谷と呼ばれる古墳地帯になっており、当時の権力者である、敏達天皇、用明天皇、推古天皇や聖徳太子、蘇我馬子などの墳墓がある。

つまり大和の側で生き、亡くなった人たちを河内の側へ送り出した。二上山の山頂には、反逆者の汚名を着せられて、24歳の若さで亡くなった悲劇の皇子・大津の皇子が葬られていて、彼の墓は大和側に、つまり飛鳥の都に対して背中を向けて建てられている。
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さて、3月10日は、まだ薄ら寒さを感じる時期だった。朝10時、近鉄當麻寺(たいまでら)駅にて、仲間3人と待ち合わせ出発。當麻は二上山の麓の町で、古代、竹内街道を通り、河内から大和へ向う人々にとって、この地は竹内峠を越えたところにある大和側の最初の要衝の地であった。

因みにこの竹内街道は、大和の都の東西の幹線道路である「横大路」の西の延長部分に当たり、横大路は日本書紀の推古21年(613年)に「難波(なにわ)より京(みやこ)に至る大道を置く」として初めて官道として整備された日本で最も古い国道だ。遣隋使や遣唐使が通り抜けた道である。

當麻寺駅前の美しい門前町を通り抜けて當麻寺へ向う。途中には旧家の古い建物が立ち並び、相撲開祖の當麻蹴速(たいまのけはや)の塚があった。暫く歩いて當麻寺の東大門に到着。當麻寺は當麻氏という豪族の氏寺である。白鳳・天平時代の大伽藍を多く残し、東塔・西塔という創建時の姿を二基とも残しているのはここだけだという。本堂は、威風堂々たるたたずまいで、中将(ちゅうじょう)姫(ひめ)伝説で有名な中将姫が蓮糸で、一夜で織り上げたという縦横4mもの大きな當麻曼荼羅を本尊として安置する。

この曼荼羅は姫が仏を深く信仰し、写経の功徳によって見えた極楽浄土の光景を壮大な規模で再現したものである。伝説では、中将姫は16歳で出家して29歳で浄土へ往生した。この伝説は世阿弥の謡曲などで多くの人々に知られるようになった。本堂からは二上山が間近に迫って感じられる。

  當麻寺の拝観を終え、左甚五郎作いわれる傘堂、大龍寺、石仏三体と裏向不動明王を経て、聖徳太子が拓いたという岩屋道を通り、岩屋峠に到着。かなり急勾配のある坂道なので少々息が切れる。少し休憩後、雌岳へ向う。この頃から晴れていた空が俄かに曇り始め、みぞれ混じりの雪がちらほらと。ようやく雌岳(474m)に到着。ここから見る大和の風景や河内の風景は素晴らしい。大和三山である畝傍、耳成、天の香久山が眼下に広がる。

ひと息ついてから、馬の背を経て、最終目的地の雄岳(517m)に到着。雄岳で記念撮影。念願の大津皇子の墓を拝観。大津皇子は、天武天皇の第三皇子として生まれたが、24歳の時に謀反の疑いをかけられて刑死した。日本書紀によれば、彼は容姿に優れ、性格は父に似て豪放磊落で、文武に秀でていた。大津皇子の母は、天武天皇の皇后(後の持統天皇)の姉だったが、早く亡くなる。
 
一方、大津皇子よりひとつ年上の皇太子・草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の間に生まれ、人柄は良かったが病弱で、大津皇子に比べると凡庸だったらしい。そのため、皇后(後の持統天皇)は、人望のある大津皇子が、我が子である草壁皇子から皇位を奪われるのではないかと危惧していた。

大津皇子には、2歳年上の唯一の実姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)がいた。伊勢神宮の斎宮であったこの姉と会うために、彼はひそかに伊勢を訪れている。そして686年天武天皇が亡くなる。その僅か8日後に彼は捕えられ、翌日処刑された。これは皇后の計略だったという説もある。彼の遺体は殯宮(もがりのみや)に納められることもなく、二上山の雄岳山頂に葬られた。その墓は大和に背を向けて建てられている。

彼の姉である大伯皇女が詠んだ歌で万葉集に収められているものは5首あるが、その中で最も有名なものは次の歌である。これは彼が処刑された後に、姉の大伯皇女が、伊勢から来て詠んだ歌だ。弟を失った彼女の思いが察せられる。

「うつそみの 人にある我や 明日よりは 
   二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む」

(この世の人間である私は、明日からは、この二上山を
 弟だと思って眺めていよう)

大津皇子には、石川郎女(いしかわのいらつめ)という恋人もいた。彼女は大津皇子の皇位継承のライバルである草壁皇子の求愛を受けながらも、これを退けたとも云われているが、大津と彼女の間で詠まれた歌もある。

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