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2015年8月

2015年8月29日 (土)

夏のある日

8月の初めから始めた早朝の1時間ばかりのウォーキング。今日も行った。この頃は、随分涼しくなり、凌ぎやすい。巡礼道に沿って家々に植えられたサルスベリは、相変わらず美しいピンクの花を咲かせている。栗の実が早くも毬からはじけ出しているのが見える。もう秋なのだ。

青々とした稲田は、順調に育っているようだ。この辺りの田圃は、子供たちが体験学習で植えた稲だ。子供たちが作った案山子や看板が大変可愛い。

昨日は、久し振りに男子留学生のYさんと、阪急・石橋駅近くにある「がんこ寿司」で会食。彼は我々がお世話した最初の留学生である。今年の春、再度来日し、大学院で学んでいる。研究一筋で、お若いながら尊敬すべき人物である。がんこ寿司は、民家を買い上げて営業している店で、素晴らしい庭の景色を眺めながらの食事はなかなかよいものだ。...

ところで、3月中頃より始めた執筆の方、先日で、原稿を書き終えた。これから推敲に入る。当初予定していた220頁をかなりオーバーしたので、ムダな部分を削る作業も必要だが、とにかく、一応書き終わってほっとしたところである。Img_5479


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サウジアラビアの思い出:アラビアのロレンスが居合わせた歴史的な現場)

添付した写真は、若い頃まだデジカメがなかった時代に、サウジアラビアに滞在していた頃撮影した大切な写真を、デジタル化して保管しておこうと先日スキャナーしたものです。

最初の写真は、オスマン帝国が建設したビジャーズ鉄道の残骸の前で仕事仲間Sさんと一緒に納まったもの(アラビアのロレンスが率いる反乱軍によって破壊された機関車)、 2番目の写真はサウジアラビアで一緒に仕事をしていたオーストリア人の家庭を訪問した時のもの、 3番目と4番目は、それぞれサウジアラビアの地図と、かつて存在したビジャーズ鉄道の路線図の写真です。私はYanbu というところにいました。

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40歳の前後、約4年間、中近東のサウジアラビアに、電化プロジェクト管理の仕事のため滞在していました(紅海沿岸のYanbuという所)。 国土を殆ど砂漠で覆われた所ですから、仕事以外の楽しみはあまりなく、同じプロジェクトで仕事をしていた外国人キャンプにある家庭を訪問したり、自動車を使っての沙漠探索などが、主な楽しみでした。

サウジアラビアには、大昔の居住者が残した石碑や文字を刻んだ岩などが、何ら管理されずに放置されています。ある時、長期に滞在しているドイツ人から、昔、1914年の第一次世界大戦頃の鉄道の遺骸がどこそこにあると聞いたので、自動車で探索に出かけました。その時、発見した鉄道の遺骸が放置された現場で写したのが最初のものです。

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映画「アラビアのロレンス」を見られた方もおられると思いますが、アラビアのロレンスはアラブ反乱軍を支援して、オスマントルコが建設したビジャーズ鉄道をゲリラ的に破壊するよう指導したと言われています。アラブ反乱軍とは、第一次世界大戦中に、オスマン(トルコ)帝国からのアラブ人独立と、アラブ国家の樹立を目指してメッカの太守・フサイン・イブン・アリーが起こした戦いです。

しかし皆様ご存じのように、このフサインが主導するアラブ諸部族は、イギリスの支援を受けてオスマン帝国軍と戦い、その支配からの脱却には成功しましたが、世界大戦の終盤に、イギリスやフランスの利権を巡る争いから、これらの国の委託統治領となり分断され、統一国家として独立することはなく現在に至っています。また、イスラエル誕生により、アラブとイスラエルの新たな争いにも発展しました。
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2015年8月17日 (月)

日本とドイツとの違い?・過去の戦争に対する反省と悔悟

過去の侵略戦争への反省と悔悟を述べた演説として有名なものに、統一ドイツの初代大統領ワイツゼッカー氏が、ドイツの敗戦40年にあたる1985年5月8日に、連邦議会で行った次のような格調高い演説があります。

この演説でワイツゼッカー氏は、ドイツ国民に対し、ナチス・ドイツの過去と正面から向き合い、ありのままに見つめる勇気を持つよう求めました。
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・・・罪の有無、老若いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に係り合っており、過去に対する責任を負わされているのです。心に刻み続けることが何故かくも重要であるかを理解するため、老若互いに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。

後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはいきません。しかし過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。ユダヤ民族は、今も心に刻み、これからも常に心に刻み続けるでありましよう。我々は人間として心からの和解を求めています。

・・・災いへの推進力はヒトラーでした。彼は大衆の狂気を生みだし、これを利用しました。 脆弱なワイマール期の民主主義にはヒトラーを阻止する力がありませんでした。・・・暴力に訴えたのはヒトラーであります。第二次大戦の勃発はドイツという名前と切り離すわけにはまいりません。この戦いの間、多くの民族がヒトラーによる国家社会主義の統治の下に苦しみ、汚辱にまみれてきたのであります。

・・・ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたて続けることに腐心していました。若い人たちにお願いしたい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにして頂きたい、・・・・・若い人たちは、互いに敵対するのではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んで頂きたい。
・・・今日、5月8日に際し、出来る限り真実を直視しようではありませんか。
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このワイツゼッカー氏の演説から学ぶことは、過去を意識的に変えることは断じて許されない、過去の真実を正視しなければならない、諸外国の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられてはならない、ということです。
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一方、先日の我が国・安倍首相による戦後70年談話を見てみましよう。ワイツゼッカー氏の演説との違いに唖然とします。安倍首相の演説は極めて不十分で空疎なものです。しかも、ワイツゼッカー氏の演説の内容とは相いれないところも多く見られます。
各界の人々から指摘されて、侵略や植民地支配、反省とお詫び、などの言葉を談話に入れはしましたが、彼自信が、本心で反省やお詫びを述べたということが伝わってきません。何故でしよう。安倍首相の本音は、日本が侵略し、植民地支配を行ったことを、全面的に否定する気持ちがないからです。

無理もないことです。本音は、国家主義者である祖父・岸元首相が加担した満州への侵略と満州支配を、正当化し、侵略とは言いたくないからでしよう。

また、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません、というくだりは言語道断です。首相は我が国の被害者意識のみを重視し、加害者としてのアジアの人々に対する謝罪の念が希薄です。被害者は加害者のことを真実の謝罪がない限り許さないでしよう。
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我が国が、村山談話、小泉談話を世界に幾ら発信しても、中国や韓国からの非難がやまないのではないか。中国や韓国の方に問題があるのではないかという意見があります。
それは、間違っています。日本が誠心誠意、謝っていないからです。政府として反省や謝罪を示しても、自民党の閣僚を始めとして、国家主義的思考に染まった人たちが、それを疑わせる発言を繰り返す、靖国神社に参拝する、といった行為を繰り返すからです。

この点、ドイツはワイツゼッカー氏の演説を端緒に、ナチス・ドイツが犯した誤りを一切、肯定することを禁じました。ナチスを賛美するようなことを言うと罰せられる法律も作りました。我が国の良い点でもあり、良くない点でもある、何事も曖昧にしておくという性向が、このような明瞭な形での法律化を拒んでいるのかも知れません。

ですから、我が国が本当に世界から平和を愛する国民として認められるには、まず第一に、我が国が犯した過去の侵略戦争に対する真摯な反省とお詫びが欠かせません。そういう意味では、今回の安倍談話はそのチャンスを逃がしたともいえます。
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2015年8月16日 (日)

リヤカーを引き徒歩で日本一周の旅人・鈴木康吉さん、その後の現況(6)

前回に続き、鈴木康吉さんの中学生時代の友人である女性「U・Kさん」からの6回目のレポートを下記に記します。

今回は、7月25日(浜鬼志別道の駅~宗谷岬)~8月12日(蘭越道の駅~弁慶岬)までの記録です。

鈴木さんの更なる旅の、安全、成功をお祈りします。

 前回の記事は⇒ここをクリック

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我が家のスズムシが盛んに鳴き始めました。待ちに待った秋のかすかな気配です。お変わりなくお過ごしでしょうか。昨夜は瀬棚町あたり、江差まで80㌔のところまできました。北海道といっても暑く、日焼けの肌にはテリが出てきたようです。

 

鈴木康吉君からのリヤカーで日本一周のレポート、送付します。宜しくお願いいたします。

(U・K)

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7月25日(浜鬼志別道の駅~宗谷岬)

今日は宗谷岬と思うだけで足取りが軽くなる。北上は今日が最後だ。追い風に力をもらって午後3時くらいに着いた。途中変わった地形を見た。緑一色の丘陵、遠くに風車が何本も立っている。地中の水分が凍結や融解を繰り返えすことによって形成される地形で宗谷周氷河地形と呼ばれる。牧草地として活用され、ウィンドファームにもなっている。

夕方になると観光バスも一斉にいなくなり、駐車場には2台ほどの車。無料休憩所の二重扉の間の三畳ほどのところでテント張る。これがわが天国なり。絵はがき買って、最北端到達の知らせを書く。至上の時を過ごす。霧でサハリンが見えなくとも、温泉がなくとも、この足でここまで来たという実感が感激となって迫ってくる。

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7月28日(稚内温泉童夢から2㌔の山の中~牧草地)

霧がだんだん濃くなって、蒸し暑くなって来た。天塩町30㌔手前の牧草地で野宿。サロベツ原野は木もなく電柱もない。冬は地吹雪がすごいんだろう。勿論人間も住んでいない。途中コオホネ無料休憩所で、ニュージーランドからの旅人、自転車で稚内へ向かうペアと交流。片言までもいかない語学力ではラチあかず。廻りにいっぱい若者がいるのに誰も助けてくれない。

ツメタイもんだ。みつ豆の缶詰をプレゼントしたら、バナナ一本くれた。コオホネの説明をしだしたら「もう結構」と逃げて行ったワ、はっはっはーー!立派に国際交流したじゃん、

康吉くん!今夜は外燈なし。真っ暗やぞーっ!

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8月1日(羽幌温泉~小平町の海岸)

朝から快晴、太陽と追い風、坂なし。風景は単調やけど、これがいいののー。気温226℃。ちなみに名古屋は38、4℃。昨日濡れた靴が、夜、新聞紙を入れて湿気を取ったので、大丈夫だった。途中鰊御殿花田邸が保存されており、その横に北の道の駅があった。いわゆる鰊の番屋。

小平(おびら)町の入り口のトンネルの手前、海岸砂地で野宿。日没が7:02、ばっちり。稚内から狙っていたシャッターチャンス到来。雲の切れ具合もよく、遮る物なく空と海が真っ赤に染まって行く様をじっくり見ていた。至福の時、、、ただリヤカーにビールの在庫がないこと以外は。(写真1参照)

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8月4日(浜益~古潭漁港)

浜益からの道は相変わらずトンネルが多い。最初のは3㌔の登り。それを過ぎれば下りのトンネルばかり。途中トンネル内の避難場所で休息。冷蔵庫のなかにいるようで涼しく、虫も来ない。疲れていると車の音など気にせずに寝られる。厚田の町を流れる川にも鮭が登ってくる。厚田には3時に到着。運動公園など適当な野宿場所はあったが、ちょっと色気を出してコタンの漁港まで来たのはいいが、刈りっぱなしの牧草地(寝にくい。虫の関係)しかなく、建設現場を選んだ。

途中坂道を登っていたら、サイクリングの札幌の青年が「おじさん!田中陽輝さんと出会ったおじさんですね」「そうだよ」「これから札幌に帰り、近々余市へ行くので、余市で会えますか?」

ざっと計算したら、函館まであと540㌔ほど。小樽、余市は目と鼻の先、その後は景勝地のシャコタンブルーの積丹半島など目白押し。地球岬(室蘭)、襟裳岬、納沙布岬。知床岬(知床峠)、宗谷岬に神威岬、みんな「歌」に歌われてる岬。歩いて制覇とは、、、すごい!それ以上の言葉がない!"

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8月5日(古潭~石狩市)

「望来」で「ほうらい」と読ませる。その望来のコンビニでのこと。朝7時頃、80歳ほどのおじいさんが「昨日は車から見たよ。今朝は我が家の前を通った」と話しかけて来た。普通の格好じゃないから目立つのか!そこへ2台のバンが両脇に止まり、またいろいろ話しかけてきた。丁寧に応対するも、自分の朝食の時間が気になり、コンビニの店内へ。

出て来たら、リヤカーのベニヤ板の上に、小缶のビール3つ、酒の小ビン2本、スナック菓子にバナナ、アンパンに菓子パンが山のように置いてあった。お供えか!有難い、有難い!石狩市中心に向けて暑い中、歩いた。ふと見ると2台の車の中から若い女の人がこちらを両の手を合わせて拝んでた。これにはびっくりこいた。康吉くん、いよいよその域へ入ったかっ!石狩川の長い橋を上は川風が心地よかった。それ以外は♪「たいやきくん」の一日だった。

稲穂駅近くのコンビニでビールを買った。そこで石狩に仕事をしにきてる自転車に乗った青年に出会った。山登りが趣味で大切にしている記念のバッチをリュックから出して記念にくれた。野宿場所の行き方を尋ねたが、教えてくれるのはいいが、またこれがなにを言ってるのか理解不能!青森出身の青年だった。あっちゃー!イオンの横の公園を探し当てるのに苦労した。衣類を水洗いしてたら、歩くのに興味のあるお兄ちゃんが話しかけて来た。発心から修行に到る話で「康吉流」の時間が流れたことは言うまでもない。
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8月8日(余市~積丹町の入り口「山の天辺」)

6時に出発。一時間ほど歩いた所に野菜の出店。おおきなトマト4個で150円。食べてみたらトマトらしい味がした。おまけに茹でたトウモロコシを2本もくれた。これがまた甘くて美味しい。R229、上り坂の400Mのトンネル。そのあと2000Mのトンネルが3つ。歩道がしっかり整備されてた。積丹の町から2㌔のほどの峠の天辺で野宿。さすが涼しい。先ほどまで熊脅しの鉄砲の音がしきりにしていた。民宿が2、3軒あったから、きっと安全のためにしているのだろう。

トンネルの中では細長い蠅が頭の周りから離れずに付いて来た。外に出るとスズメバチが、手ぬぐいでは、たいてもはたいても仲間を増やして付いて来た。ほんまにあいつらはしつこい奴や!汗や臭いに寄ってくるのかも。仮眠していたら、声をかけられた。話しているうちに「海岸でバーベキューしてるから、ご一緒にどうですか?」って誘われ、「それは結構なことや」(写真2参照)

積丹町のトンネル崩落事故現場がここだって初めて知った。

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8月9日(積丹町入り口~神威岬から4㌔)

積丹半島の海岸線は海水浴客で賑わっていた。道路には多数の駐車で場所がなく、昼寝もままならず、歩き通すしかなかった。おまけに昨夜スマホで地図を検索した後、スマホの電源を切るのを忘れ充電切れ。そこで役立ったのがウーさんからもらった乾電池の充電器。今まで充電の容量が少なくあまり役に立たないと使わなかったが、今回だけは初めて有難いと思った。

海岸の監視員が言うには、昨日野宿した場所は熊出没危険度が一番高い所という。今更言うてもうても後の祭りやけど、民宿の鉄砲脅しは山から下りてこないようにとの脅しだった。そこに俺が寝てるんやぞ!それにしつこかった蜂の正体が分かった。アブだと監視員。

峠が暑かったのでシャツを脱いで歩いた。その汗の臭いに寄って来たんだ。あいつらの爪が背中にあたると痛いんやぞ。朝もテントの周りをうろついていた。

積丹灯台へは山登りのようなもの。リヤカーは積丹川のほとりにおいて、空身でキャンプ場へ。それから又、山の中腹を歩くイメージで灯台へ。50~60m の断崖の下には積丹ブルーの海が広がる。神威岬へも歩を進めた。岬の高さは80m、突端には灯台。眼下に広がる数々の奇岩と青い海を充電したスマホで撮りまくった。遊歩道からは300度くらいの視界で楽しめた。神威岬でも言われた。 

「昨日の野宿場所は一番熊が出るとこやぞ。今日はこの先の3っつ目のトンネル手前にトイレがあるからそこで野宿がええよ」おかげで今夜は安心や。トイレには「ご自由にお使い下さい」って書いてある。ちょっと洗濯もさせてもらいますわ。ーーーそれがいい!熊よりもアブに注意だよ、康吉くん!

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8月10日(神威~兜トンネル)

神恵内(かもえない)の町を通り過ぎ、泊原発8㌔手前まで来た。立派なトイレがある場所を教えてもらって野宿を決めた。朝から食料が底を尽き、足取りも重く、トンネルを5本。2500mのがあった。やっとの思いで神恵内の岡田食料品店へ飛び込んだ。そこで地元の10人ほどの団体さんに出くわした。その中の会長さんらしき人がリヤカーの伊能忠敬を見て、興味を示してくれた。ご自分も測量に関心があるとのこと。

そこでどのような会話がなされたかは、別れ際に会長さんが食料店で買い求めた地酒「神威」を一本激励にと手渡してくれたことで充分想像がつく。積丹半島の西側は絶景の連続。故郷の二見の夫婦岩しか知らない

自分にとっては、感動の連続。ビューンビューンスピードを出して車を飛ばす若者たちよ!お前達は勿体ない時間の使い方をしている!函館まであと364㌔弱。 見えて来たぞ、北のゴールが。

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8月12日(蘭越道の駅~弁慶岬)

8:40ケイタイが鳴った。「昨日の晩なあ、業務連絡を終え、テントで♪月の砂漠をうととったんんや(歌っていた)。そしたら外人さんが来て、なあ、、はあ、、最高の夜になったあ」と弾んだ声。 彼はTodd Wilkinson 4年半前に来日。茨城県鹿島市の小学校で英語を教えてる。今夜はこの蘭越(らんこし)の道の駅「シェルプラザ」で野宿。

リヤカーの絵を見せて伊能忠敬の話から始まり、岡倉天心六角堂の美術館で買い求めた「広重」「北斎」「歌麿」の絵を広げながら、夜の更けるのも忘れて話に花が咲いた。Toddはあまり流暢ではない日本語で話してくれたおかげで、それが自分の会話のスピードに近く、助かった。

夜が明けて、彼は函館から船に乗って帰る由。別れ際にトマトを差し出したら、青いバナナをくれた。この前のニュージーランド人もそうだったけど、味覚の違いでかたくで歯ごたえのあるバナナの方を好むらしい。

Todd
からのメッセー ジ:

To Mr.Suzuki 、
Thank you for your lesson about INOU
さん.I could understand your story and I was happy to know that he was your inspiration. Inspiration is very important Have a safe trip and please return to 名古屋 safely.

今日は弁慶岬の突端、目の前に真っ黒な弁慶の像が立ってる。無風で日中暑かった。テントの中は自分の体温で暑くなる。外へ出て涼むのはいいが、中へ入る時に相性のいい蚊が付いてくる。それが難儀じゃー! 

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写真1:8月1日 小平町からの夕日

写真2:8月8日 バーベキューにご招待される。

その他:
写真3:8月15日 R229海岸沿いの奇岩
写真4:8月16日 大成町近辺

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2015年8月10日 (月)

蝉のこと

先日、早朝のウォーキングを兼ねて、久し振りに近くにある箕面の裏山に登った。登るといっても僅か350m程度のところである。歩行途中にある大阪府野外活動センターでは、子供たちがキャンプ場で元気に走り回っていた。

暑いので自然と歩行が遅くなる。山に登ると、街中では主流であったクマゼミの鳴き声が少なくなり、蝉の生態系は一変する。クマゼミの鳴き声からアブラゼミやニイニイゼミの鳴き声に代わる。また早くもツクツクボウシの鳴き声が聞かれた。

自宅から約45分で、写真にある「わくわく展望台」に到着。ここに来るといつも眺めるのは、眼下、真正面に見える大阪国際空港の滑走路と右側の六甲山系。甲山が直ぐ近くに見える。

ところで蝉の鳴き声のことだが、我々日本人にとって夏に蝉の声を聞くのは当たり前のことで、風情としてとらえているが、蝉がいない欧米人にとっては、雑音として感じるのだろうか。
先日、今書いている本に、万葉集から引用しようと、上野誠氏の著書を読んでいると、蝉ではないが、鈴虫の鳴き声を風情としてとらえるか、雑音としてとらえるかは文化によって差異があるという。雑音か音楽か、文化によって、特定の景色や音と、情操とが結びついているそうだ。成程と思った。
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2015年8月 8日 (土)

本音は自然と出るものだ

人は、自分が信条としていること(価値観、人生観、政治的見解など)は、幾ら日常、「たてまえ」的な言葉でごまかしていても、自然と「本音」として口に出て来るものだ。

最近、安部政権の側近が、安保関連法案(戦争法案)を巡って、「法的安定性は関係ない」とか、安保法案反対デモに参加する人々に対して、「戦争に行きたくないのは、極端な利己主義考え」とか、言って問題となっている。しかし、これは安倍首相の「本音」を代弁したものであろう。

安倍政権になって、国家の権力を重視し、国民の自由や権利を制限しようとする国家主義的な傾向がますます強くなってきている。多くの国民の反対にもかかわらず、憲法を時の政権が恣意的に解釈して変えることを可能にして、国民の不安を増長させた。 私の知る限りでは、戦後、安倍首相のような国家主義者は、安倍首相と祖父の岸元首相だけである。歴代の自民党首相、池田、大平、中曽根、橋本、田中、小泉、等、ほとんど全ての首相は、国家主義的な思想は全く持ち合わせていなく、彼らはこぞって『集団的自衛権は憲法上行使できない』と述べてきた。

安倍首相が、人に幾ら言われても、過去の侵略戦争や、植民地支配に対して、反省と謝罪を渋るのは、明らかに満州支配に協力し、A級戦犯に処せられた祖父・岸元首相を庇うためなのだと思うのである。このような祖父を庇うという個人的我欲のために国民を犠牲にしてはならない。政治の私物化は、断じて許されないのだ。

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早朝ウォーク

夏だからといって家の中にいては体がなまるので、外出しない時は早朝、1時間程度ウォーキングをして汗をかくことにした。ということで、今日もいつものコース、巡礼道を歩く。巡礼道とは、西国三十三カ所巡礼道のことで、当地・箕面にもその道がある。

道に沿ってさるすべりのピンクの花が民家の庭に咲いているのが、青空に映えて美しい。この花を見るとインドネシアに短期間滞在していた頃、よく見た夾竹桃を思い出す(花が少し似ているので)。路傍には庚申塔の碑が。時々近所の方が、手を合わせて拝んでいるのを目にする。やはり日本人は信心深いなあと、こういう光景を見ていると時々思う。栗の木には、もうすでに青い大きな毬がついており、まだ夏の盛りなのに早くも秋を思わせる。

散歩から帰って、シャワーで汗を流し、本の執筆に励む。本の名は仮称「ものづくりの心」。9月末の最終原稿に向けて、あと少し。今日は、昨日読み直した、芭蕉「奥の細道」からの流用文を考えることからスタート。
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2015年8月 2日 (日)

全体主義(国家主義)への警告・歌手が発信するメッセージ

「制服向上委員会(略称:Ski)」という1992年秋に結成されたアイドルグループが、最近活躍しているのが目に付く。学生服をコスチュームにし、“名門女子校のお嬢さん生徒”的に行動するのが特徴だという。恋の悩み、学校生活、脱原発、安保関連法案などについてのメッセージを歌詞に込めて歌う。

このような「制服向上委員会」による社会性を帯びた活動を知って、若かりし頃聴いた歌を思い出した。「風に吹かれて」「花はどこへ行った」「ヘイ・ジュード」という歌である。

これらの歌を唄った歌手は、マレーネ・ディートリッヒ(ドイツの女優であり歌手)とマルタ・クビショヴァー(チェコスロバキアの女性歌手)。このお二人の歌手は、全体主義政権の下で、自由を奪われ暗い毎日を送る人々に希望を与え続けた。
以下は、これらの歌についてのエピソードである。時間があれば読んで頂きたい。

ところで「制服向上委員会」には今後も世の中を明るくしようというメッセージを込めて歌い続けてほしいものだ。
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★「風に吹かれて」は、ピーター・ポール・アンド・マリーによってよく歌われ有名になった歌だが、歌の原作はボブ・ディランである。この歌は、世界的に広がり、ナチスドイツに反抗を呼びかけた、マレーネ・ディートリッヒにより、「答えは風だけが知っている」というタイトルで、東西ドイツ分断下のドイツで歌われた。

★「花はどこへ行った」は、これもピーター・ポール・アンド・マリーによって歌われ有名になった。この歌を作ったのは、フォークソングの父、ピート・シガーと彼の仲間との共作である。ピート・シガーはロシアの作家、ショーロフの小説「静かなドン」の中のコザックの子守唄からヒントを得て、この曲を作ったと言われている。

そして、この歌は、やはりピーター・ポール・アンド・マリーの後、同じくマレーネ・ディートリッヒによって東西ドイツ分断下のドイツで歌われ、ベルリンの壁で隔てた東ドイツの人々に希望を与え続けたと言われる。

★「ヘイ ジュード」は、ビートルズの代表的バラードである。この歌は、チェコスロバキアの女性歌手、マルタ・クビショヴァーにより、1968年のプラハの春の時代(ドプチェク第一書記が政治指導者として活躍していた時代)、「マルタの祈り」という歌と共に共産党独裁政権下のチェコの民主化運動を鼓舞するために歌われた。当時、マルタは25歳、であった。

しかしその後、ソ連軍のチェコ侵入によってチェコは暗黒の時代に戻った。だが、彼女は初心を忘れず、体制に批判的立場を維持、その後、大統領になった民主化運動指導者ハベル氏を助け、ベルリンの壁崩壊後のビロード革命(1989年)に貢献した。

その当時、学生達がマルタを集会に招いて彼女に「ヘイ ジュード」を歌うよう頼んだと言われている。しかし、長い年月を経ていたのでマルタ自身、その歌の歌詞を忘れていた。だが学生達は言った「忘れていても口ずさんで下さい、歌詞については、僕達が覚えていますから」と。彼女に信念を守り続けた人間としての魅力があったからこそのエピソードである。

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