空気を読む、という危険性
今年も今日で終わり。フェイスブックへの投稿は久し振りです。
出版社から送られてきた初稿の校正を昨日終えました。今回の書籍(仮称:日本人のモノづくりのこころ)は、古典や現代の文化人などからの引用部分が多く、どれが自分の意見で、どれが引用かを明確にする作業に多くを費やしました。表紙のデザインもほぼイメージしたものが出来上がり満足しています。来年3月初めには出版できそうです。
写真は、今月26日、枯山水庭園で有名な京都の龍安寺を訪れた時、鏡容池の廻りを歩いていて撮った写真です。かつてはおしどりが群れ遊んだところからおしどり池と呼ばれました。池の堤防から龍安寺全景の山々が眺望され、四季それぞれの風景に定評があります。
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ところで、今年は「空気を読む」という言葉の危うさに気づかされた一年でした。
今までこの言葉は、「その場の空気を読んで行動する」というように、人間社会において、皆がお互いに協調して生きていくための生活の知恵として、大きな役目を果たしてきたと言えます。
しかし、この言葉は、他の方々が述べているように、使い方を誤れば大変危険だと改めて感じるようになりました。特にこれが、組織集団や政治の世界で使われる場合です。たとえば、誤った権力者によって描かれた未来図に従って、皆が大した疑問も抱かずに、ただ他の人が賛成しているからというだけで、これは大丈夫だから自分も賛成しようと、世の中の空気を見て行動すると大変なことになります。
人間って弱い者です。何も問題がない平穏な状態であればいいのですが、国際情勢が流動化し、食糧難やエネルギー難などで、自分の国が窮地に陥れば、突然、自国中心主義となり、悪いナショナリズムが台頭し、誤った、いわゆる強い独裁的な指導者に煽られる危険性が増大すると思うのです。今、フランスやアメリカの政治の舞台で起こっていることをみると、一層そのように思います。我が国も例外ではありません。
ですから、「空気を読む」必要がある場面は、各人が慎重に選んで決める必要があると思うのです。
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