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2016年12月

2016年12月29日 (木)

保育園落ちた日本死ね」の反響について

<「保育園落ちた日本死ね」の反響>
善意の政治家ならば、世の中で起こっている不都合なことに関して、これを現実の真実として誠意をもって向き合い、これを解決しようとするはずです(フィクションだとは云え、江戸時代でさえ水戸黄門のように世の中の不正を行う者に対して印籠を出し、悪を懲らしめる人がいました)。
しかしながら、逆に不都合なことを、政権維持のために、意識的に隠ぺいしようとする人や組織が存在することは、この世の中で避けられません。そのような時、庶民(国民)が小さいながらも声を上げることが、民主主義を健全に保つために必要なことだと思います。
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その一つとして、今年、民進党の山尾志桜里さんが国会で取り上げた、「保育園落ちた日本死ね」のブログがあります。これは、待機児童問題という社会的矛盾をクローズアップする大きな発端となりました。そしてこの「フレーズ」が今年の流行語大賞を受賞しました。これに対して一部の心なき人たちから、山尾さんはブーイングが受けたと伝えられています。とんでもないことです。山尾さんの勇気ある行為...が世の中を動かし、様々な自治体が待機児童問題に真剣に取り組むきっかけになりました。
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歌人の俵万智さんも山尾さんの行動をツイッターで次のように弁護しています。
<俵万智さんのツイッターでのメッセージ文>
「死ね」が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。そこには言葉の力がありました。お母さんが、こんな言葉を遣わなくていい社会になってほしいし、日本という国も日本語も、心から愛しています。
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2016年12月22日 (木)

北野武さんのこと

北野武さんのことは、テレビでもよく見かけ、その飾り気のない、ずけずけと本音をしゃべってくれるところが大変好きです。この世の中の矛盾などについても、諷刺を交えて歯に衣着せぬ勢いで鋭く突いておられます。昨日、たまたま見たファミリーヒストリーという番組を観て、北野武さんのことがよりよく理解できたように思いました。

武さんにとって、母・さき さん の存在は大きいようです。母は、年少の頃から、身寄りもなく、孤独で、奉公人として必死に働かれました。手に職をつけようと、裁縫という技術を習得し店も持ちましたが、夫の無駄遣いなどがあり破産。それでも立ち直り、姉・安子さん、兄・大さんらを育てたそうです。貧乏から抜け出すためには教育が必要と感じた母は、粉骨砕身され、子供たちを大学まで進ませました。...

こうして育てた武さんでありましたが、大学工学部機械工学科に入学するも、工学の道は自分に合わないと、家出をしてしまいます。そして芸能に自分の道を見出しました。その後の武さんについては皆さんご存知の通りで、映画監督などで国際的な賞を受賞するなど、多方面でご活躍中です。

それにしても、武さんの勉強振りが凄いですね。お金がないので、古本屋であらゆるジャンルの本、文学とか時事、思想、時事、社会問題とかの本を、安く買って貪り読んだそうです。今日の武さんを見ていると確かに、物事を見る目が多面的で、且つ鋭いと思いますが、これは、知識への飽くことのない欲求に支えられているのだと感じました。
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京都嵯峨野:二尊院・小倉山・百人一首

先週、昔訪れた嵯峨野へ行って見たいと思い、家内と一緒に出かけました。目的地は二尊院(にそんいん)というところです。二尊院は、阪急嵐山駅で下車し、渡月橋、天龍寺、そして近年観光で有名になった竹林を通り、昔訪れた思い出深い大河内山荘を過ぎて、少し歩いたところにありました。この辺りに来ると観光客も少なくなり、嵯峨野の風情を楽しめます。
二尊院へ行くのは初めてです。五木寛之さんの「百寺巡礼」を書籍とテレビ番組で見て、興味を持ったからです。二尊院の裏山は小倉山で、藤原定家が『小倉百人一首』をこの二尊院で選びました。

  「小倉山 峰のもみじ葉 こころあらば ...
        今ひとたびの御幸またなむ」(藤原忠平)

二尊院への参道は、「紅葉の馬場」という名称で知られ、紅葉の美しさは素晴らしいそうです。本尊は右側に釈迦如来像、左側に阿弥陀如来像と、この二体が、本尊と脇侍という関係でなく、全く対等な関係で並んで立っていて、双子のように見えることから、「二尊の本尊」と称されています。二尊院の名もそこから来ています。

ここはまた、法然が再興した寺でもあります。本堂には法然を描いた「足曳きの御影」があり、また本堂横の階段を上ったところに法然廟がありました。そして直ぐ隣には「時雨亭」という庵の跡があり、藤原定家が『小倉百人一首』をここで選びました。

定家に思いを馳せ、拙い短歌を作ってみました。
  「二尊院 から小倉山 眺むれば 定家の編みし 歌偲ばれる」
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2016年12月13日 (火)

里山資本主義が日本の未来を救う!

今年5月に新著「伝えたい細やかな日本のモノづくりの心」を出版しましたが、その後、その内容を若干引継ぎ、何か社会に役立つ書物をもう一冊書きたいという思いが再び芽生えて来ました。その書物の構想は概ね出来上がりつつあります。

このような時、原稿を書くに当たって何らかのヒントを得たいということで手にした一冊の一つが、藻谷浩介著「里山資本主義」(写真参照)です。まさに目から鱗が落ちるような感動を覚えました。今、政府は“地方創生”などというスローガンを掲げてやっているようですが、日本国民はそのような公的な政策に頼らなくても、自力で将来を何とか生きて行こうと頑張っているのを感じました。

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本書では主に中国地方や瀬戸内海沿岸地方における事例が紹介されています。これらの地方においては、世の中の先端を走っていると自認してきた都会より、遅れていると信じこまされてきた田舎の方が、今やむしろ先頭を走っているのです。

“里山資本主義”とは藻谷さんが名づけた言葉で、「お金の循環が全てを決するという前提で構築された『マネー資本主義』の経済システムの横に、こっそりとお金に依存しないサブシステムを再構築しておこう」という考え方です。日本は山、川、野、という自然に恵まれています。そのため、地方の小さい町や集落であれば、生活に必要な水、食料、燃料などがその中で自給自足、地産地消費でき、いわゆる循環経済システムをつくることが可能だということによります。これによって日本全体のGDPや経済成長率といった指標は大きくなるよりはむしろ縮小する可能性もあるということです。
 
例えば、木材屑を使った木質バイオマス発電による地域電力の自給、小規模農家が供給する野菜を扱ったローカルな市場やレストラン経営、レストランで働く若いお母さんのための保育園経営、地元のミカン農家のミカンを使った少量多品種、画一化されていない個性豊かなジャムの製造、また地域通貨の採用による外部通貨に過度に頼らない仕組みの形成、等々です。
 
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このような里山資本主義の研究は世界の賢明な諸国の間では、すでにかなり前から進められているというのです。日本も21世紀を生き延びるために遅れないようにしなければなりません。例えば、日本とよく似た森林国・オーストリアなどでも進行中です。これについては追って記事を書きたいと思います。

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2016年12月 9日 (金)

奈良・忍坂街道

“ まほろば ウォーク”で訪れた石位寺は、近鉄・奈良駅から歩いた忍坂街道に沿った静かな集落の小高いところにありました。そこにあった「薬師三尊石仏」は、白鳳時代(644年〜710年)に製作されたと思われる薬師三尊で、わが国では最も古い石彫りの三尊仏として『国の重要文化財』に指定されています。精巧で美しい石仏で、慈愛に満ちた仏の心が伝わって来るように感じました。
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忍坂(おっさか)街道は、古事記、日本書紀で知られる古道です。神話の世界の話ですが、神武天皇が宇陀からこの道を通って奈良盆地へ向ったと伝えられています。石位寺(いしいでら)は、いずれの宗派にも属さない無住寺で、近隣の住民の方が交代で維持管理をされています。普段訪れる人は多くはありません。
薬師三尊石仏は、方形の台座に腰掛けた如来形で、三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく現れており、布の質感も巧みに描かれています。作られたときは彩色されていたらしく、そのあとが像の唇と着衣にわずかに残っていて唇に紅をさした美しい石仏です。 石...仏の願主は女流万葉歌人・額田王(天武天皇の妃)で額田王の念持仏として作られたのではないかとの説があります。
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この忍坂街道に沿って、鏡女王(かがみのひめみこ)の万葉歌碑がありました。

秋山の 樹の下隠り 逝く水の 吾れこそ益さめ 御思ひよりは(巻2-92)
(秋の山の木の落葉の下を、隠れてそっと流れて行く水のように、表には見えないけれど私の方こそ、より深くお慕いしています。あなたが私を思って下さるよりは)
・・・この歌の相手は天智天皇です。

鏡女王は、額田王の姉と言われています。最初、天智天皇の妃でしたが、後に藤原鎌足の正室となりました。

尚、このまほろばウォーク、約14km、少々疲れました。

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2016年12月 5日 (月)

立憲主義のこと

今、世界には、何となく将来に不安を感じさせるような動きが加速しているように思われます。皆様はどのようにお感じでしようか? 

アメリカの大統領選における排外主義を唱えるトランプ氏の選出、イギリスのEU離脱、ナチスの再来かとも懸念される西欧における右翼国家主義政党の台頭など、行き過ぎたグローバル主義の副作用かと思われるような現象が生じています。このような閉塞的な空気の中、“愛国主義”という美名の下、国民を煽る国家主義的思考をもった政治家が幅を利かすようになっています。

日本も例外ではありません。今、日本では、自民党が主導する憲法に関する議論が始まっています。
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この議論の中で一番大切なことは “立憲主義” が守られるかどうかです。改憲ということ自体悪いことではありません。国民の多くが“良い”と感じ、望むような方向、例えば自衛隊を専守防衛ののみの軍隊としてはっきりと位置付けることなどは、そのようにすべきだと私も思います(外国を攻撃することなく、我が国が侵略された時のみ日本を守ること)。
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さて、立憲主義とは何か?について、ある新聞に掲載されていた分かりやすく書かれた絵図 “憲法観の対立”(添付図)があるのでご覧下さい。立憲主義と国家主義の違いが大変分かりやすく示されています(手書きで書いたのは私が書き入れたものです)。

左側の “立憲主義” とは公権力(国家権力)を縛って、国民の自由や権利を守ることを重視するものです。これに対して、右側の “国家主義” は(自民党の憲法草案と同じ)は、国家の目標を掲げ、国民が従うべき(国民を縛る)ルールとしての役割を重視するものです。

右側の図は、ライオンが口を開けて国民を恫喝する様子が見てとれます。この自民党草案を読むと戦前の状態に戻ったような恐ろしさを感じる、とんでもない代物であると、普通の神経をお持ちの方なら、そう思うはずです。

昨年、安倍政権が強行採決した“集団的自衛権の行使”は、積み重ねた解釈を変えるもので立憲主義に反するものでした。民進党の枝野氏は、皆で憲法を議論しようとするなら自民党は、まず自ら作った自民党憲法草案を一旦破棄してから議論に望むべきであると主張しましたが、安部首相はこれを拒否しました。

この草案は“日本会議”という安部政権を取り巻く国家主義的思想を帯びた人たちによって作られたもので、多くの良識ある自民党の皆様は心の中では、これに賛成していないと思います。

何となく自民党を支持している皆さん、目を覚まして下さい。何となく安倍政権を支持した為に、日本が好ましく状態に陥ってしまうこと、最悪の場合、このようなことは想像すらしたくないのですが、ナチスドイツや北朝鮮、旧ソ連のような、左右の国家主義に蹂躙された不幸な世の中にならないように(そのようなことは平和な日本ではあり得ないと思っておられる方が大部分だと思います。当然だと思います。しかし冗談ではありません。油断していればそのようになることを歴史が教えています)。

政治には左右の国家主義に偏らない“中庸”、“リベラル”というものが一番良いと思うのです。

他の写真は、ヒットラーからのパリ解放に喜ぶパリ市民、ソ連共産主義政権によるチェコ・プラハ侵略に抗議する人々、ベルリンの壁崩壊を喜ぶドイツ国民の写真です。
いずれも左右の国家主義の無慈悲さ恐ろしさを伝えています。

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2016年12月 1日 (木)

輪島功一さん:プロボクシング元世界王者 のこと

この間、プロボクシング元世界王者・輪島功一さんが『わたしの半生』という読み物の中で、人生を振り返って述懐されているのを拝見して、輪島さんとほぼ同時代を生きて来たものとして、その時代を想い懐かしく感じるとともに、私とは異なった素晴らしい経験をして来られたことに尊崇の念を覚えた。
尚、輪島さんは ”炎の男”という異名を持ちご活躍された方である。
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輪島さんは家族と共に3歳の時、旧ソ連の支配下にあった樺太から引揚げ船に乗り、北海道士別市に移った。そこでの開拓村での生活は、「おやじが建てた家は、風がピューピュー入って来て寒くてよ」というような、着るもの食べるものに不自由する苦しい生活だった。「俺も熊笹を刈った。しんどくて両手で刈る。右でも左でもパンチを打てるようになったのは、そういうのが生きている。何が功をなすかわからんよね」。と語っている。...

また学校が遠かったので8kmを歩いて通った。5年生の時、先生が見かねて家に泊めてくれたことがある。その時、寝小便をしたが、先生は「功一、いいんだ、いいんだ」と。また、輪島さんは家で料理番をしていた時もあったが、自己流でつくったまずい料理にも、おやじは「功一、今日はうめえなあ」と褒めてくれたという。そのような時、輪島さんはみんなの力を借りたのだから、今度は自分が力を貸そうという気持ちになったという。
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ケンカなどはしない輪島さんだったが後年、友達をいじめたり暴れたりする上級生がいれば「許さん!」と立ち上がり、1対1でバスケットボールのゾーンで殴りあい、相手を負かして「正義の味方」と呼ばれた、という。決して乱暴者や不良ではなく、腕白だが友達思いの優しい少年であったという。

今、いじめの問題がクローズアップされているが、このような正義感に燃えた子供たちが増えて来てくれないかと思ってしまう。
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輪島さんは、農業や漁師の仕事、トラック運転手、住み込み土木作業員などの様々な仕事をしていたが、スタミナが十分にあったので疲労を感じないことに奇妙なストレスを感じていたという。そしてある日、作業現場からの帰り道にあったことから頻繁に練習風景を眺めていた三迫ボクシングジムに入門。「一所懸命稼いだ金を、酒や博打のような下らないことに使いたくなかった。道場に通えば、疲れてくたくたになるまで思う存分ボクシングに没頭できる。毎日見ていて面白そうだったし、丁度いいじゃないかと思った」と語っている。

輪島さんは、青少年の鑑になるような人である。

因みに輪島さんは今、輪島功一スポーツセンターを経営される傍ら、だんご店「だんご」を経営されている。

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