念仏信仰で庶民を癒した人「徳本(とくほん)上人」
先日、地元の観光ボランティアガイドの研究会で、箕面地域に伝わる「民話」についてお話をさせて頂く機会がありました。当日お話した幾つかの民話の一つが、「徳本上人」という江戸時代後期、念仏信仰の普及に力を注いだ人に関する民話です。
徳本上人と云う人がどのような人物であったか、簡単に紹介したいと思います。皆様の地域にも彼の足跡が残っているかも知れません。
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徳本上人は、空也や法然、親鸞とかいった、いわゆる教科書の中で教わった有名な宗教家ではありません。しかし彼のような、聖人ともいえる、徳に満ちた立派な人が、僅か今から200年ばかり前に、庶民の幸福を求めて念仏を称え、当時の恵まれない、不幸で、貧しい人々のために、我を忘れて献身的に尽くしていた姿を想い浮かべると、当時の世の中においては、貴重な存在感をもった人物であったと思わざるを得ません。
現代において、利己心が全てで、人のため世のために働こうという気持ちなど一かけらもない多くの政治家を見ていると一層そのように感じます。
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徳本(とくほん)上人は、江戸時代後期(1758年)紀州日高郡の生まれ。1801年から13年間、箕面市にある勝尾寺の松林庵に住んでいた念仏行者です。彼が書いた蔦(つた)文字と呼ばれる独特な六字名号(南無阿弥陀仏の六文字)には霊験があると云われ、人々は競って彼に六字名号(ろくじみょうごう)を書いてもらったそうです。勝尾寺を去った後は、江戸の小石川において一行院を再興しました。同所において61才で没しますが、その間、日本各地に出向いて庶民のために念仏行脚をしました。そのため、全国至る所に、彼の六字名号碑や供養塔が遺されています。
彼は9歳で出家を志し、18歳で父が死んで以来、「常坐不臥(じょうざふが)」、すなわち、常に坐禅をして、夜も横にならぬ生活を死ぬまで続けました。食は一日一合の豆粉と麦粉だけでした。岩室の断崖絶壁の岩の上で、昼夜不断の念仏の千日苦行を行ない、梵網戒経を感得し念仏の教義を悟りました。
ある日、不断念仏を行なっている時、老翁が訪れ、法然上人が書いた「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を託されました。「世のため、人のため、大切な知識になるぞ」と告げ、その老翁は、雪の中に消えたと言われています。そこで彼は、極楽往生の明らかな証拠はこれに過ぎるものはないと、以後、常に身に携え、生涯、法話の時も、この他のことは話さなかったと言われています。
彼は、宗義も学ばずして、わずかに「阿弥陀経」の句読のみで、自然と念仏の教えの要諦を得たと言われています。浄土宗の開祖法然の遺影を慕って44歳の時、箕面の勝尾寺に来て松林庵に住み、毎月15日には、法然が住んだ二階堂で別時念仏を行ないましたが、その日は、近在遠郷より老若男女が、その法会に連なろうと列をなしたと云われています。彼が書いた六字名号を人々は護符とし、名字碑を立てて、念仏講の標としました。
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