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2017年3月21日 (火)

「日本会議」が掲げる「国家神道」は日本古来の伝統である「神道」とは全く異なるもので、神道とは似て非なるものなのです

安倍政権を支える「日本会議」が掲げる「国家神道」は、日本古来の「神道」とは全く異なるもので、神道とは似て非なるものです。「国家神道」が「神道」そのものだと誤解され、神社参拝や神道そのものを厭われている方も多いと思います。そこで、神社で働かれている神職を始めとする多くの神社関係者の名誉のために、以下に記したいと思います。
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今、安倍政権を支える「日本会議」という極右団体が話題に上っています。この団体の中枢に「神社本庁」があり、「国家神道」を掲げ、皇国史観に基づく天皇を中心とする家族的国家の実現を目指しています。

この「国家神道」は、本来の、純粋な、自然信仰から生まれ八百万の神を持つ多神教である本当の「神道」、日本人が心の支えとして来た「神道」とは全く無縁のもので、似て非なるもの、すなわち「神道」そのものを冒涜するものなのです。「国家神道は」戦時中、軍国主義者によって捏造され、多くの国民は戦争に駆り立てられました。

Recently in Japan, “Japan Conference (日本会議) ”, Japan’s most powerful ultra-right nationalist group which supports the prime minister, Sinzo Abe Liberal Democratic Party is emerging rapidly. The main belief of “Japan Conference” is “State Shinto (国家神道) ” which brought Japan militarism and sent many young people to the war.   
By the way, genuine “Shinto(神道)” is the original religion of the Japanese people from ancient times. The followers of Shinto believed that the power of these goods resided in waterfalls, rocks, large trees and other objects of nature.
Like this, “Shinto” and “State Shinto” is quite different ones. “State Shinto”(国家神道)is a pseudo-religion, namely abominable fake religion which was created by the Meiji government in order to manage and manipulate the citizens into conforming with the convenience of the nation. Needless to say, this is not a true religion.    
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それでは、この「国家神道」を掲げる「日本会議」とこれを支える「神社本庁」との関係は如何なるものなのでしようか。後に添付した清州山王宮日吉神社の宮司・三輪隆裕氏の言葉も引用しながら述べますと、神社本庁は、明治政府がつくった「国体」を日本の伝統と思い込み、天皇を頂点とした家族主義的国家(右翼国家主義に基づく)の実現を目指しています。

多くの神職さんの名誉のために言っておきますが、多くの神職さんはこのような右翼思想に染まっていません。神社本庁の包括下にある神社で、皇国史観を持ち、右翼的な政治活動に積極的にかかわっている神職は、全体の1%にすぎないということです。年配の神職で、軍国主義に影響を受け、皇国史観を持つ人もいますが、次第に減り、若い人を中心にリベラルな考えをもった神職が増えてきているとのことです。

しかし問題は、神社本庁の主導する「伝統」にあらがえないのが事実のようで、その「伝統」を外部から鼓舞し、先鋭化させているのが民主主義を敵とする「日本会議」の思想の核をつくっている人たちです。日本会議は神社本庁の「伝統」を1%の「真性右派」を上手く利用することで、動員力と資金源を手にしました。全国に8万もの拠点をもつ神社本庁を取り組むことで、小さな組織を大きく見せることに成功しました。神社本庁の政治組織である「神道政治連盟」の政策委員の顔ぶれも、神職主体から、日本会議周辺の思想家中心に変わったとのことです。

三輪氏は語っておられます。「いつの時代も人々が従順であれば、一部の人間の意思で、いつの間にか極端な社会になるのが、全体主義(国家主義)の怖さです」と。
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昭和天皇、今上天皇ご自身が、戦争を忌み嫌われ、靖国神社への参拝を拒否され、現憲法の平和主義を尊重し、家族主義的国家を望まず、限りなく平和を希求されているにもかかわらず、安倍政権がこのような右翼国家主義を掲げている。それなのに多くの国民が、これを不思議に思わずにいるということは非常に危険だと思わざるをえません。
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次に本来の(「本当の」と言った方が適切です)「神道」とは、どういうものかについて少し詳しく述べたいと思います。お時間があれば読んで下されば幸いです。(参考文献:拙著「伝えたい細やかな日本のモノづくりの心」)
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「神道」は、我が国の、山、川、平野、海に囲まれた豊かな自然環境の中で生まれた自然信仰なのです。これは日本文化を形成する上での基盤となって来ました。しかし、残念ながら、神道と言う言葉は多分に誤解を招く怖れがあります。なぜならば、昭和初期の満州事変、太平洋戦争と続く我が国が犯した侵略戦争で叫ばれた「皇国思想=国家神道」が「神道」であると誤って連想されるからです。「皇国思想=国家神道」は、本来の「神道」とは全く無縁なもので、似て非なるものなのです。

日本は地球上の他の地域と比べてみても、豊かな自然環境に恵まれているといえます。日本の中にいれば、このことはごく当たり前のことのように感じるかもしれませんが、一度日本の外に飛び出して日本を見ると成るほどと納得するはずです。私も仕事や旅行で、中近東や西欧諸国へ度々行ったが、日本に帰って来るたびにそのように思いました。
このような特異な自然環境の中に、千年以上も暮らしていると、自然に対する感受性というものが特異に発達します。どこに行っても山野や海、川に囲まれ、しかも四季が訪れます。その中で、その恵みを受け、食べることにも、着るものにも、住むことにも、何とかそれ程苦労することなく自給自足の生活を送ることができます。このような自然環境では、人間は自然と楽天的になり、自然を敬うようになります。

『万葉集』の歌人・大伴旅人は、次のように詠っています。
「この世にし 楽しくあらば 来(こ)む生(よ)には 虫に鳥にも われはなりなむ」
 この世は楽しいので、死んだ後の世では、虫にも鳥にもなっていい、という意味であり、現世を限りなく肯定しているように見えます。

よく日本人は「生かされている」という言葉を使います。これは豊かな自然の恵みを受けて、自然の神にお世話になっていると意味です。これが自然信仰なのです。日本人の神は一神教の絶対神とか全知全能のような人間世界から超越した存在でなく、自然の中の身近な存在なのです。この現世を肯定する「生かされている」という思いが霊的な存在としての多くの神を生み出しました。人間も死んだら神となることができるのです。仏教でも人は仏になります。これは釈迦が説いた最初の仏教の思想にはありませんでしたが、仏教が日本の文化に溶け込む中で、神道化した姿なのです。仏教は神道化することによって日本人の宗教として迎え入れられたのです。霊的な存在である人間は死んで神となる。同時に身体的存在である人間は、死んで屍となるのである。人間の存在を生と死の両面で捉えるのが日本の文化の特徴なのです。

このように、我が国においては、この自然信仰=神道が人々の生き方や道徳の基となっているといいのです。
 いずれにしても、信仰というものを、ただ言葉として受け取るのでなく、自然の中で自然と身に染みた教えが日本にはあったということなのです。

お正月になると、大多数の国民が初詣をする。普段はまったく関心がないのに、その時だけは神社に行くというのは、日本人の遺伝子と呼んでもいいレベルで、潜在的に神道がその体の中に染み込んでいると説明できるかも知れません。それは自然信仰が基本となっています。日本人の信仰形態には、このほかに、人が死んだら御霊(みたま)になる、あるいは神になるという御霊(みたま)信仰と、組織の中の統率者に対する尊敬の念である皇祖霊(こうそれい)信仰があると思われます。この一番目の自然信仰というものが、日本文化をつくりだす上で大きな要素だったということが非常に大切なのです。

神道には教義がないといわれます。しかし大伴家持が詠っていたように、万葉集などの和歌の中に、その心が歌われています。このことからも日本人の宗教である自然信仰(神道)は、教義や経典の形でなく、日本人の感性、生き方の中に、祈りの姿として存在していることがわかります。

・・・・・・ここで、神道とも関係が深い『古事記』や「神話」について簡単に述べます。古事記は8世紀初めに編纂されたとされる現存する最古の歴史書であるが正史ではありません。少し後に、正史として日本書紀が編纂されていますが、古事記は日本書紀のようにヤマト王権の国家支配とその正当性・連綿として続く天皇制の正当性を示すために編まれたものではないのです。そのため、正史でない古事記は、主流から離れ、江戸時代に本居宣長に再発見されるまでは殆ど顧みられませんでした。

古事記は、神話の要素が強いと言われていますが、全くの虚構(フィクション)でなく、ある程度、事実に基づいた真実を述べているようです。神話というものは、ある事実から派生して紡がれていくものなのです。
古事記も、日中・太平洋戦争最中の軍国主義政権下、愛国を鼓舞するため、皇国史観的な偏った見方で国定教科書を通して教えられたこともあり、戦後、古事記を敬遠する動きもありました。しかし最近では、古事記は、それらの偏見を脱し、日本の歴史を知る、更には、素朴で純粋な文学的な観点から読まれるようになったのではないかと思います。読んでみたら意外と面白いと感想を述べる人も多い。私もその一人です。
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現役宮司が日本会議を批判 全体主義のこわさに警戒を

(清州山王宮日吉神社の宮司・三輪隆裕氏)https://dot.asahi.com/aera/2017011100219.html

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