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2017年5月

2017年5月29日 (月)

民主主義が人文学や芸術を必要とする理由

マーサ・ヌスバウム(Martha C. Nussbaum)さん(69歳)、という人がいます。彼女は、社会的弱者に目を向けた独自の正義論を提唱する哲学者でアメリカ・シカゴ大学の教授です。知らない人が多いと思いますが、昨年には京都賞(稲盛財団主催)を受賞しています。

彼女はその著「Not for Profit、Why Democracy Needs the Humanities(日本書名:経済成長がすべてか?~デモクラシーが人文学を必要とする理由~」の中で次のようなことを述べています。
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「経済的には繁栄しているものの、民主主義のない国に住みたいと思う人がいるだろうか?・・・諸国家は、国益を追求するあまり、(技術教育を重視し)、民主主義の存続に必要な技能を放棄している。すなわち、芸術や人文学(哲学、歴史、文化、文学などのこと)が至る所で削減されているゆえに、民主主義にまさに必要不可欠な諸価値が深刻な損害をこうむっている」と。

彼女の主張は、人文学や芸術は、「批判的な思考能力」や「人に共感する能力」を人間に与えるには欠かせないもので、健全な民主主義の発展には不可欠なものであるということである。もっともなことです。

また、次のようなことを述べています。「タゴール(インドの哲学者)が言ったように、攻撃的ナショナリズムは、道徳的良心を鈍磨させることを必要とする。・・・個人というものを認めず、集団の名の下に喋り、従順な官僚のように行動する人間を必要としているのです」
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このことはまさに、我が国のことについて言っているように思われてなりません。文部科学省による大学教育における人文系学問の軽視の傾向についてはご存じの通りです。そして、右翼国家主義的色彩の濃い安倍政権下での森友学園や加計学園、共謀罪法などに関連した政府の答弁を聞いていると、

「言い包めや詭弁に慣れていつの間にか嘘に麻痺する症状怖し」というような短歌を読みたくなってきます。

最近の唯一の救いは、前川前文科次官の正義感に基づいた真実の告白です。辞めてから言うなという批判もありますが、これはおかしなことです。今の政治は「安部一強」で自民党内でも異論があっても表に出ない状態です。まさに「物言えば唇寒し」の状況です。こんな状態を生み出した当事者が、このように前川さんを非難するのは筋違いです。それにしても、日本に何とかかつての明るさが戻って欲しいものです。

備考:最初の写真はヌスバウムさん関連。後半は諷刺画
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六道珍皇寺

(English follows Japanese)
先日、オーストラリアから来られた日本の歴史・文化研究者で作家のJ・Wさんとお会いするために家内と一緒に京都へ。行先は、彼女の希望で、まだ訪れたことがない珍しいところがいいということで、建仁寺の近くにある「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」へ行って来ました。この寺は“六道まいり”で名が知れたところです。

六道とは、仏教の教義でいう地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六種の冥界をいい、人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生するということで、この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境の辻が、古来より当寺の境内あたりであると言われ、冥界への入口とも信じられて来ました。...
このような伝説が生じたのは、この寺が平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り」をしたことと、小野篁が夜ごと、冥府通いのため、本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたという言い伝えによるものです。

小野篁は、嵯峨天皇に仕えた平安初期の官僚で、文武両道に優れた人物でした。遣唐副使にも任じられましたが、大使と争い、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐に流されたこともあります。小野篁は閻魔王宮の役人と言われ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁に務めていたという伝説があります。尚、小野篁は、小野妹子を先祖に持ち、小野小町、小野道風の祖父にあたります。
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当日は住職さんに案内してもらうように予約していました。住職さんの詳しい説明は大変深く感じました。六道珍皇寺の歴史、小野篁のこと、寺宝の「熊野観心十界図」、小野篁が使った言われる井戸のこと、などなど。この後、木屋町通二条にある、がんこ寿司「高瀬川二条苑」の川床で鴨川を眺めながら料理を楽しみました。J・Wさんとの出逢いは大変楽しく感じられました。彼女は、これから暫く取材のため、九州方面に行かれる予定です。
This temple is a sub-temple of Kenninji Temple and is well known as Rokudo-san. Around here, people sent off the deceased to a burial mound known as Toribeno (the hilly area located in the southeast). It was called Rokudo-no Tsuji (the corner of Rokudo) and was believed to be the border between this world and the other world. Rokudo means the six Buddhist realms, one of which every living things is supposed to be sent  according to its deeds in this world.Legend has it that Takamura Ono, who served the Emperor in the daytime and Enma(Yama, the ruler of the underground in Buddhist mythology) at night, went to the other world through the well behind the main hall.

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京都・葵祭

今年も京都三大祭の一つ「葵祭」へ行って来ました。葵祭の中で最も知られていて華やかな行列「路頭の儀」を観るためです(5月15日)。葵祭は、世界遺産である下鴨神社と上賀茂神社の例祭で、今から1400年前欽明天皇の頃、長く続く凶作を鎮めるための祭りとして始まり、その後盛衰を経て、元禄7年に再興されたそうです。行例に参加する人、御所車、牛馬など、全てが葵の葉で飾られることからこの祭りの名があるそうです。
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今回は、スイスからの留学生、S・Rさんと一緒です。彼は今年の春、日本歴史や文化を学ぶために来日しました。既に日本に関する知識も相当持ち合わせています。丁度この時期、葵祭があるので、日本を知ってもらう絶好の機会として、家内と一緒に案内しました。

葵祭の行列が京都御所を10時半に出発するというので、10時15分頃に現地に着きましたが、もう既に沢山の人波。外国人の姿が目立ちました。葵祭のような文化があるからこそ外国の方が沢山、我が国に来てくれるのだとつくづく思います。

ところで、行列は平安装束を着た約500人が新緑の都大路を練り歩きます。行列は1kmにも及び、下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向います。行列の最後を飾る牛車が、紫の藤の花房を垂れ下げ、車輪を軋ませながら進む姿はことのほか優雅に感じられました。

行列を観終わった後、寺町通りを経て錦市場へ。そこの寿司屋さんで食事後、二条城へ向いました。二条城でも修学旅行の学生や外国人観光客で溢れていました。一年前来た時よりも、二条城の各部屋の説明が日本語も英語も充実し、分かり易く説明されていました。
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2017年5月 7日 (日)

嘘の発言に麻痺してしまう危険性

最近の世の中、何が本当に正しく、何が間違っているか、ということが一般の人にはわからなくなって来ているのではないかと、感じられる時があります。

一昔前には、それぞれの異なる意見の持ち主が、それぞれ比較的平等に意見を述べ、意見を戦わせた結果、間違った意見を述べた人も、ある程度その非を認め、双方が、お互いに適切な妥協点を探ったことが多かったように記憶しています。

しかし、最近のトランプ・アメリカ大統領の発言や日本においても森友疑惑事件や共謀罪法などに関して、国会での審議を聞いていると、権力を有する者が、権力を笠に着て、間違ったことを正しいと言いくるめ、そして何度質問しても同じような答弁を繰り返すというようなことが多く見られます。

このようなやりとりを聞いていると、その内、聞いている国民の中には、“嘘の発言に麻痺して”、それが正しいように思えてくる者も現われてくるのではないかと思えてなりません。

日本人は、やはり“長い物には巻かれろ”にあるような“ひ弱な”国民なのでしようか? いや、“判官贔屓(ほうがんびいき)”という弱者の立場に立って権力に立ち向かう正義感という資質も持ち合わせています。ある人の言葉を鵜のみにする人もあれば批判する人もいます。

人は集団の中で生活することは避けられません。その集団の中で、支配的な人、声の大きい人の言葉に誘惑されずに、その言葉が正しいかどうかを、一人一人が納得して決めることが人間として求められ道なのではないかと思いました。

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