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2020年1月30日 (木)

後醍醐天皇~日本史に異彩を放つ型破りの天皇~

<後醍醐天皇~日本史に異彩を放つ型破りの天皇>                  
私の住んでいる大阪府箕面市の観光の目玉は箕面の大滝である。阪急箕面線・箕面駅から滝まで続く片道約40分の滝道は、昔、修験道の開祖と言われる役行者も歩いたという言い伝えがある。その滝道の半ばにある龍安寺は、この役行者が開いたとされている由緒ある寺である。この「龍安寺」の名付け親が後醍醐天皇である。この後醍醐天皇について、先日、私が所属している箕面観光ボランティアガイドの月刊誌に投稿した内容のエッセンスを紹介します。
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後醍醐天皇と言えば、鎌倉時代末期、その子・護良親王(もりながしんのう)の令旨を受け、龍安寺での修法が功を奏し、後醍醐天皇は無事隠岐を脱出できた。しかも帰還の祈祷がなされた早くも二日後に脱出に成功したという。そして、龍安寺の名は、「箕面(瀧)の寺で祈祷して戦乱が終わり、平(安)な世になった」というところから由来しているのだと伝えられている。
 後醍醐天皇は、型破りの天皇だった。自意識が強く自信家で、大きな野望を抱き、何があっ...ても望みを諦めない粘り強さを持ち合わせていたと伝えられているが、果たしてどのような人物であったのだろうか、後醍醐天皇の半生と彼の生きた時代を繙いてみよう。
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鎌倉幕府が約90年続いた頃のこと、天皇家は持明院統と大覚寺統の二派に分かれ、10年を規準として交代で、皇位を継承するという両統迭立を行っていた。実際に政治を行う幕府にとっては、実に都合のいい朝廷の分裂であったのである。

ところが、ここに予想外の、一人の聡明な天皇が出現した。後醍醐天皇(第96代)である。父は後宇多天皇で、その第二子、天皇になる前は尊治親王(たかはるしんのう)という名前だった。彼は大覚寺統に属していたが、後継順位が下位で、本来、天皇の位には縁遠い親王であった。
ところが、運命のいたずらかのように、1318年、皇位を継いだ後醍醐天皇は、思わぬ自身の巡り合わせに戸惑いつつ、時期が来れば譲らねばならないはずの皇位に執着心を持つに至る。理想の政治を貫けるのは、自分しかいない、との信念を持った。即位後、父の後宇多法皇を退位させ、院政を終わらせ、自己の政権を強化すべく、人材登用を行い、側近として、日野亮朝や日野俊基、その他、若手公卿を一躍高官に抜擢した。
 「延喜・天暦にかえろう・・・」それが政治スローガンとなった。「延喜・天暦」とは、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の時代をいい、この時期、朝廷にはいわゆる天皇親政が行われていた時代で、高徳な天子の君臨した理想の時代だという伝説があった。後醍醐天皇には自分たちが政治権力を掌握すれば、かつての古代国家における厳粛な社会が、再び訪れるとの期待があったようだ。醍醐天皇は、日本の歴史上、存命中に、醍醐天皇を慕って、自分で自分の諡(おくりな)をつけた唯一の天皇である。 やがて幕府の打倒、そして律令国家再興の夢を抱くようになる。しかし討幕計画はまもなく幕府の知るところとなり、六波羅探題によってあえなく潰された(正中の変)。その後も、側近の北畠親房らと共に、諦めずに討幕運動を続けたが、今度は裏切り者が出た。後醍醐天皇は、六波羅の兵が到着する前に禁裏を脱出。奈良から笠置山に落ちのび、ついに討幕の旗を挙げる。比叡山の僧兵も挙兵し、9月には河内赤坂城に楠正成が立った。しかし鎌倉執権北条氏の力は侮りがたく、討幕勢力は各地で鎮圧されてしまう。
 その結果、後醍醐天皇は、隠岐に流され、寵妃阿野廉子と側近千種忠顕ら僅かな者と共に幽囚の生活が始まった。一方京では、持明院統の光厳天皇が即位し、元弘の変は終息した。
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しかし、鎌倉幕府の倒壊は時代の要求でもあった。情勢はこの頃から急に大きく変化を始める。ひそかに計画を進めていた楠正成や護良親王らが動き始めた。後醍醐天皇は、隠岐にいながらも、全国の武将に討幕を呼び掛けた。これに呼応して、翌年には楠正成が再度、河内千早城で挙兵し、後醍醐天皇も隠岐を脱出した。隠岐脱出のための祈祷依頼が護良親王より龍安寺になされたのはこの頃である。

そして後醍醐天皇は船上山で挙兵し、各地の武士に討幕の綸旨を発した。各地の武士が討幕の兵を挙げ戦火は一気に広がっていった。そうしている内に、足利高氏(のちの尊氏)も寝返り、京都へ侵攻。更に、新田義貞の鎌倉攻略と続き、鎌倉幕府はついに崩壊に至る(1333年)。後醍醐天皇は初志を貫徹して京に凱旋するや、光厳天皇を廃し、自ら皇位に復して“建武の新政”を開始、これまでの政治を全面的に否定した。日本の歴史上、一度は失脚したのに復活した天皇は他にいない。
 しかし、新政の第一歩というべき、戦の論功行賞を実施する段階で、公家や僧たちだけが優遇される有様で、天皇方について戦った武士たちには、恩賞などの扱いに不平・不満が残った。後醍醐天皇と尊氏との関係も微妙であった。当初、後醍醐天皇は尊氏の功績を認めていたが、その後尊氏の尊大な振る舞いもあって両者は離反、このような中、後醍醐に味方するのは楠正成と北畠親房とその子顕家(あきいえ)ぐらいになってしまった。そして足利尊氏は公然と、後醍醐天皇に反旗を翻す。

 ここに至った時、名将・楠正成は尊氏と手を握ること、尊氏のライバルともいうべき、同じ源氏の新田義貞を切り捨てること、を天皇に進言する。だが、あくまで己の理想を貫く覚悟の天皇は、それを聞き入れなかった。一度九州に逃げ延びた尊氏は、そこからとって返して京都を目指して進み、兵庫・湊川の戦いで楠正成を破り、京都に入り、建武式目を発布し、足利幕府という新しい幕府の方針を示した(1336)。しかし不屈の後醍醐天皇は、まだ自らの敗北を認めていなかった。吉野の山中に南朝と称する小さな政権をつくった。しかし、その3年後、52歳の生涯を閉じた。いつの日か京都に帰り、天皇としての権力を取り戻したいという天皇の願いは儚く消え去った。天皇の死後、53年間にわたる南北朝の争乱は、この時幕を開き、1392年の南北朝合一まで続いた。
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思うに、後醍醐天皇が目指した“天皇親政”は古(いにしえ)の理想であり、武士が登場し、武力を代表して、幕府を開いてきた歴史の流れからみれば、時代錯誤とみなされるものだった。日本の政治は、大化の改新以来、象徴天皇としての天皇と、実権を握る天皇の代行者による二重構造の支配体制が暗黙の内に実施されてきた。摂関政治、院政、武士による幕府などと、名称を改め、スタイルを変えても、この法則は歴史の中を生き続けてきたのである。従って、後醍醐天皇をもってしても、このスタイルを破ることはできなったのである。しかし、後醍醐天皇は、日本歴史上、存在感のない天皇が多い中で、極めて存在感のある天皇であったことに間違いはない。

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