今世間は、新型コロナウイルス感染蔓延の話で持ち切りになっています。何とかこの騒ぎが早く収束し、政治的にも何かいい方向に向かってくれることを期待しつつ、テレビ番組を観ていると、「昭和は輝いていた」という番組で、一世を風靡した漫画『サザエさん』の作者・長谷川町子さんが取り上げられていました。娯楽が比較的少なかった昭和の時代、私も『サザエさん』をよく読んで楽しみを味わい、時には慰められ、またある時には、世の中はこのように回っているのだと教えられたこともありました。ある人が言っていました。『サザエさん』を書いた長谷川町子さんは、現代の「紫式部」にも相当する人物ではなかったかと。私もそのように思いました。彼女の漫画の影響力は令和の時代にも及んでいるように思います。
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さて長谷川町子さんは、1920年(大正9年)生まれで、1992年(平成4年)お亡くなりになった(享年72歳)。日本初の女性プロ漫画家として知られる。代表作に『サザエさん』『いじわるばあさん』『サザエさんうちあけ話』などがある。趣味で収集した各種美術品を活かすため私財を投じて「長谷川町子美術館」(東京都世田谷区桜新町)も開館。1992年には国民栄誉賞を受賞している。
佐賀県多久市生まれで、3人姉妹の次女。三菱炭鉱の技師であった父のワイヤーロープ事業開業に伴い、幼少時に福岡市に転居した。父の死後、一家揃って上京し、現在の山脇学園高等学校で学ぶ。小学校時代は“悪童”とか“お転婆娘”とかいう言葉が似あう、且つ正義感あふれた少女であったという。友人の女子生徒が男子生徒にいじれた時には、その男子を校舎の屋上に連れ出し諫めた。得意科目は図画と作文。悪童であったが成績は良かったので級長も務めた。
母は果断で、女性の自活が困難であった当時、女世帯を切り盛りしながら、子どもたちの躾に厳しかった。母は、漫画の才あった長谷川町子が、当時著名な漫画家・田河水泡(代表作『のらくろ』で有名)に憧れ、「田河水泡の弟子になりたい」と度々いう独り言に悩まされた。そこで彼女を田河水泡の弟子にしてあげようと決意、彼女の姉・毬子と一緒に、田河の家に出掛けるなどして奔走した。その甲斐あって、彼女は山脇学園高等学校在学中に田河水泡に師事することになる。田河水泡は彼女の天才性をいち早く見抜いたという。
そして、田河水泡の引き立てにより『少女倶楽部』への掲載などで漫画家デビュー。その後、西日本新聞社に就職し、絵画部校閲係などを経て、西日本新聞社の6コマ漫画掲載などを行っていた。
『サザエさん』の着想は、1946年、西日本新聞の姉妹紙「夕刊フクニチ」で連載漫画を頼まれた時に得られた。自宅の近所である福岡市百道海岸付近を妹・洋子と散歩している時に、海岸の風景を眺めていて、『サザエさん』の家族構成や名前(サザエ・ワカメ・フネ・マスオなど)を思いついという。その後、『サザエさん』の連載は別の仕事が入ったため、サザエの結婚で一旦打ち切りとなったが、登場人物を追加して上、再連載されている。また、後には朝日新聞の4コマ漫画としても登場した。
余談になるが、彼女は、東京の山脇高等女学校に編入した時、博多弁がおかしいと笑われるなどで友人が出来なく、次第に人見知りになり、人付き合いや表舞台に顔を出すことが苦手になったと言われている。姉や妹とは違い生涯独身を通した。縁談も多かったが、漫画家としての人生を全うするための選択であったようだ。
それにしても長谷川町子さんは、多くの人に夢を与え続けた人だった。






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