2.日記・随想・歴史紀行・音楽

2009年12月12日 (土)

早すぎる赤星選手の引退を惜しむ

阪神タイガース・赤星選手の突然の引退を知って驚いた。まだ33歳、早すぎる引退である。中心性脊髄損傷と診断され、今度やったら命にかかわる、と医者に言われての決断だったという。

彼が阪神に入団した時は、俊足でこそあれ、非力な打撃からレギュラー取りが危ぶまれたが、当時の野村監督にその俊足という一芸を認められ、レギュラーに定着。打撃の方も人一倍の努力で腕力などを強化し、そこそこの打率を残せるようになり、阪神には欠かせない選手となった。当時、藤本選手、沖原選手らと共にF1トリオと言われて活躍していた頃が懐かしい。 
2009121000000007sanspobasethum000_2

彼は何回かの盗塁王をとったが、盗塁数に応じて車椅子を寄付する社会貢献活動を続けていたという。華やかに見えるスター選手である一方で、このような活動を続けていたことに対して感動を覚える。

今後、彼ならば、野球の指導者としての道もあるだろうし、あるいは他の道を選ぶかもしれない。彼がいなくなって淋しいが、後の人生を有意義に切り拓いていって欲しいものだ。

 by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2009年12月 5日 (土)

平山郁夫さんを悼む

画家・平山郁夫さんの美術館が“しまなみ街道”にある生口島・瀬戸田町にあるという話を聞いたのは、今年の6月末、尾道での仕事を終え、どこか近くに良いところがないかと、行き先を探していたところであった。

平山さんの絵には詩情が溢れている。それも東洋の悠久の歴史を感じさせるものが漂っており、見るたびに心が癒される思いにさせてくれる。是非、そこへ行きたいと思った。

平山さんは、その瀬戸田町で生まれ、瀬戸内の青い海や緑の木々でおおわれた島々からなる美しい自然の中で育ったという。平山さんは「自分の感性は、明るく温暖な瀬戸内の風土によって育まれた」と自ら語っておられる。

早速、行くことを決め、尾道から小船でたどり着いたのは、静かな佇まいが残っている瀬戸田の村であった。美術館には絵画とともに、平山さんの生い立ちや、少年時代の絵画などが紹介されていた。更にスケッチや下絵なども展示されていて興味深く鑑賞した。東京美術学校日本画科では、奥さんと同期で、奥さんが首席、平山さんが2番で卒業されたという話も始めて知った。奥さんは結婚後、平山さんの補助に徹し、その後は一切絵筆を握っていない。その奥さんの描いた絵画も少し展示されていた。

平山さんの画家としての原点には、15歳の時の被爆体験があるという。原爆後遺症に苦しみ、少しでも救いと平和を願う作品を描きたいとの想いから、唐の長安を旅立ち、17年間の苦労の末インドの経典をもたらした玄奘三蔵の喜びを描いた「仏教伝来」を昭和34年に発表し、これが大いに評価されたという。これを契機として勇気づけられ健康も回復、その後次々と仏教や仏伝をテーマとする作品を発表された。

日本文化に大きな影響を与えた仏教文化の源流を求めるうち、東西文化の交流へと視点も広がり、シルクロードへの取材も始められてという。

絵画活動と並行して文化財の保護活動にも注力。北朝鮮の高句麗壁画古墳の世界遺産登録への推進、アフガニスタンのバーミアン遺跡の復興など、多くの活動に参加された。

平成12年、奈良薬師寺玄奘三蔵院に収められた大壁画「大唐西域壁画」は平山さんの画家活動の集大成と言われるもののひとつといえるであろう。

平山さんはお亡くなりになられたが、後を引き継ぎ、芸術家の枠を超え、世界的に活動できるスケールの大きい若い画家が現れることを期待したい。

 by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

Simg_1167

平山郁夫美術館
の入り口付近
(「仏教伝来」
 の絵が掲げ
 られている)

写真撮影は
これ以降禁止

Simg_0002

「仏教伝来」
(作品集より)

Simg_0001

「楼蘭の月」
(作品集より)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月14日 (土)

奈良・桜井 纒向遺跡

今年になって、明日香での万葉セミナーを聴講したことをきっかけとして、古代への興味をもった。それ以来、遺跡発見などのニュースには素早く惹きつけられる。

先日、邪馬台国の有力候補地とされている奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半(弥生時代末~古墳時代初め)の大型建物跡1棟が見つかったというニュースを聞いた。

Img

11月14日、15日には現地説明会があるというので、行こうと思っていたが、残念ながら他に所用があり都合がつかなかったのは残念だ。このような現地説明会には数回行ったことがある。最初は、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳に近い黒塚古墳で三角縁神獣鏡が発見された時だ。1998年1月のことだ。この時感じたのは考古学ファンが思ったよりも多いということだ。寒中というのにJR柳本駅から現地まで延々と行列が続き、現場にたどり着いたのは4時間後であった。

新聞の報道によると、今回の現地説明会には1万人以上の人出が見込まれ、JRは巻向駅までの臨時電車を運行し、桜井市も職員50人を派遣するという。

さて、この纒向(まきむく)遺跡の発見を機に、邪馬台国の所在地論争がまた活発化するのであろう。邪馬台国は、3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝」に記載されている。宮殿や物見櫓、城柵があったと記載されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土されておらず、畿内説の弱点とされてきただけに、今回の発見により、どのような論争に発展するか面白い。

 by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

Photo_3

写真は
某新聞社
撮影
2009.11.14

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 4日 (水)

続・トルコの思い出

前回のブログでは、トルコの思い出として、親しく接してくれたトルコの人々について記したが、今回は現地のガイド・YAVYZさんが話してくれた内容を中心として印象に残ったことについて記す。

<トルコ全般に関すること>
トルコへの観光客は、年間2,500万人。ドイツ、ロシア、イギリス、日本の順に多い。国土は日本の約2倍で、人口は逆に日本の1/2。生育している植物については日本に見られるものが多い。特に松の木が多く、松に覆われている山が多かった。また、ピラカンサの木が多いのも目立った。チューリップはトルコが原産で国花となっている。チューリップといえばオランダが思い浮かぶが、トルから伝わったものだ。

絨毯はトルコが原産で、イラン(ペルシャ)絨毯はトルコから伝わったという。トルコ絨毯は、2重結びで自然彩色で編み目が細かいのが特徴だ。青いトルコ石は、ノアの箱舟で有名なアララト山が原産地。青(blue)は天の色を表し、イスラム化以前に原住民が空の神を崇拝していたことに通じるらしい。トルコ料理はフランス料理、中華料理と並ぶ世界3大料理のひとつ。料理の数も多い。茄子料理だけでも40種類あるという。

国民の約99%がイスラム教(スンニ派)であるが、宗教色はイランなどと比べると弱い。これは建国の父、ケマル・アタチュルクが定めた世俗主義に起因している。

トルコの歴史:現在、トルコが位置する地域には、紀元前6000年頃から人が住み始め、鉄を使ったといわれるヒッタイト人が、最初に王国を築いた。その後、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)に支配される。もともとは中央アジアの遊牧民(6世紀頃建国の突厥)であったトルコ民族は、9世紀後半に中央アジアに移動し、セルジューク朝を開く(首都はコンヤ)。そして小アジアにも進出してビザンティン帝国と対峙し、これを破った。その後、オスマントルコ帝国が覇権を握り、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、ウイーンにも及び大帝国を築いた。しかしオスマン帝国は次第に衰退し、第一次世界大戦の結果、領土を削られるなどしたが、オスマントルコの将軍であったムスタファ・ケマル・パシャの努力の結果、オスマントルコのスルタン制を廃止するなど、国内の民主化を進め、アンカラを首都とするトルコ共和国を樹立した。

<トロイ遺跡>
ホメロスの叙事詩「イリアス」に出てくる「トロイ戦争」で有名な伝説上の都市と信じられていたが、これを実在の都市であると、ひとり信じ続けてきたドイツの考古学者シュリーマンが私財を投げ打って発掘を続け、1870年、ついに遺跡を発掘した。(写真1)

Simg_1836

写真1:
トロイの木馬
(復元されたもの)

<エフェソス都市遺跡と聖母マリアの家>
小アジア最大の古代都市遺跡群。紀元前11世紀、ギリシャからやってきたイオニア人によって建設された都市。この都市の黄金期はローマ帝国支配下の紀元前130年頃。当時はローマ、アレキサンドリアに次いで3番目の都市として栄えた。この都市は、キリストの死後、使徒ヨハネが聖母マリアを伴って移り住み、余生を過ごした地としても知られている。聖母マリアの家は18世紀末、ドイツ修道女アンナ・カテリーナが天啓を受け、聖職者たちによって発見された。(写真2)

Simg_1856

写真2:
聖母マリア
の家

<カッパドキア>
カッパドキア地域には、非常に珍しい形のキノコ岩、谷、クレパスが見られる。他にこのような風景が見られるところは世界中にない。紀元後4世紀にビザンティン帝国の領土となってから、この地方に移住して来たキリスト教徒によって岩窟住居が作られた。11世紀に入るとイスラムの支配下に置かれたが、カッパドキアはアラブからの攻撃の砦となり、住民は身を守るために多くの洞窟を掘り、頑丈な石の扉の下に隠された地下都市なども建設した。
カッパドキアはきれいな「馬の国」という意味。紀元前13世紀、ヒッタイト人はここで最初にワインを作った。また、当地でカエサルが「来て・見て・勝った」という言葉を発したところだという。当地で、ガイドさんが知り合いの家庭に連れていってもらった時の写真は、前回のブログに掲載済み。数年前、ウルルン滞在記で竹内結子さんもこの家庭にお世話になったという。(写真3)

Simg_1985

写真3:
カッパドキア
の風景

<アタテュルク廟>
トルコ共和国創立者ムスタファ・ケマル・アタテュルクが眠る霊廟。随所にガードマンが配置されていた。霊廟の前面には「若者に告ぐ」の言葉が刻まれている。子供達を連れた先生の見学が絶えないそうだ。トルコ国民は彼をアタテュルク(トルコの父の意味)と呼ぶ。彼は独裁者でなく、国民に愛された。身内に私財を残さず、政治権力を引き継がなかった。(写真4)

Simg_2085

写真4:
アタテュルク廟:
霊廟を前にして
警備の人と
撮った写真は
前回のブログ
に掲載

<イスタンブール>
イスタンブールは、古来より歴史と文化の大舞台であり、アジアとヨーロッパにまたがる東西文明の接点であり、交通の要衝であった。トルコ最大の都市で、様々な人種、様々な文化が混ざり合っている。イスタンブールはボスポラス海峡で、アジアサイドとヨーロッパサイドに大きく分けられる。ボスポラス海峡は黒海とマルマラ海を結ぶ全長35kmの海峡。海峡沿いには、ブルーモスクやアヤソフィアなどの宮殿や寺院、城塞、別荘などが立ち並ぶ。アジアとヨーロッパの二つの世界を見ながらのクルージングは東西交流の歴史を思い出させ感動的だ。(写真5)

Simg_2204

写真5:
ボスポラス海峡:
左側はヨーロッパ、
右側はアジア、
この先を行くと
黒海がある

<アヤソフィア:イスタンブールにあり>
ビザンティン帝国の最盛期を統治した皇帝ユスティニアヌス1世の命により、537年に完成したキリスト教の大聖堂。震災や略奪、モスクへの改築など、その波乱に満ちた歴史はイスタンブールの変遷を物語っている。現在は無宗教の博物館として公開されており、2つの帝国(ビザンティンとオスマン)、2つの宗教が同居する不思議な空間である。モスクに転用された後、偶像崇拝を禁じるイスラム教の教えに背くことから、モザイクの数々は500年もの間、漆喰で塗りつぶされていたが、トルコ共和国になってからの大修復によって、現在は「キリストを抱いた聖母マリア」のモザイク画などが、昔の姿をほぼ取り戻した。(写真6)

Simg_4725

写真6:
アヤソフィア:
歴代のスルタン
によって建てられた
4つの尖塔が
異彩を放つ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 3日 (火)

トルコの思い出・親しく接してくれたトルコの人々

10月初め、トルコを旅した。イスタンブールよりスタートし、トロイの遺跡、エフェソス遺跡、パムッカレ、コンヤ、カッパドキア、アンカラを経て再びイスタンブールに戻るルートであった。その旅程を通じて感じたのはトルコの人たちの親日的な態度であった。旅行前からトルコが親日的であることは話に聞いていたが、トルコに来て見てそれを肌で感じた。

通常、私は旅行を終えた時、紀行から書くことにしているが、今回は先ずトルコと日本の友好的な関係と、つかの間のトルコ訪問であったが、旅行中快く接してくれたトルコの人々との触れ合いの一部を写真によって残しておきたい。

それでは、日本とトルコとの間には、どのような関係があって、トルコの人たちが日本を好いてくれるのであろうと思い、調べて見ると何人もの方が日本とトルコのそのような友好的な関係について触れられている。その中で、日本・トルコ協会の大曲さんという方は、次のように述べられている。
============================
トルコはフィンランド、ハンガリーと並び、世界一の親日国だといわれている。トルコでは日本関連の報道が多く、また、「世界で一番好きな国はどこか?」という世論調査では日本が必ず1位に選ばれるほどである。

このトルコ人の親日感情は、1980年のトルコ軍艦エルトゥール号の乗員に対する和歌山県串本町民の懸命な救助活動に対する感謝(注1)、トルコ人と日本人が中央アジアから東西に分かれて移住していった同じアジア系であるという同族意識(注2)、トルコの宿敵ロシアとの日露戦争での日本の勝利(注3)、敗戦国日本が世界の経済大国へ成長したことへの尊敬等が主な理由だといわれている。

<筆者脚注>
(注1)1980年のトルコ軍艦エルトゥール号の遭難事件:オスマン帝国皇帝が小松宮殿下のトルコ訪問の答礼として、オスマン提督らをエルトゥール号で派遣した。その帰途で台風に遭遇し、和歌山県串本町樫野崎沖で座礁した。串本の漁民は献身的な救助活動を行い、約600名の死者を出した大惨事であったが、生存者69名は日本軍艦によって送り届けられた。トルコでは今でもそのことが語り継がれており、トルコの学校教科書にも取り上げられ教材となっている。

(注2)中央アジアで暮らしていたトルコ人は、6世紀にモンゴル高原を中心とする遊牧帝国・突厥を築いた。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えている。

(注3)日露戦争における日本の勝利は、瀕死状態のオスマン帝国にとって、大きな希望を与えたといわれている。当時、東郷、乃木 等の名前を付けるトルコの人が続出したといわれている。

ところで、1980年のイラン・イラク戦争の時に、イランから脱出できずにいた日本人のために救援機を飛ばしてくれたのもトルコだ。明治維新に倣い国内改革を断行した、トルコ共和国建国の父である初代大統領ケマル・アタテュルクが、明治天皇を崇拝し、陛下の肖像画を書斎の机に飾っていたという有名な逸話もある。
===============================
というようなわけで、このような歴史的な出来事が背景にあることを知った。

トルコ旅行中、幾度かトルコの人々に話しかけられたり、また、一緒に写真に収まるようお願いした時、気持ち良く応じてくれたが、下記にそれらの写真の幾つかを掲載しておきたい。

写真1→ バスで移動中立ち寄ったレストランで:可愛い3人の娘さんを連れた母親がおられたので、家内が一緒に撮影を依頼したところ応じてくれた。この時は英語での会話が成立した。

写真2→カッパドキアの洞窟家屋にて:ガイドのYAVUZさんが知り合いの民家にツアー一行を連れて行ってくれた。そこで、その家のおじさん、おばさん(中央)と懇談後、一緒に撮影。この家の奥さんは日本が少し話せた。

写真3→アンカラのアタテュルク廟で、警備隊員の男性と一緒に撮影。普通は一緒の撮影は駄目だそうだが、無理にお願いしたところ、応じてくれた。

写真4→イスタンブールのレストラントにて:女友達と一緒に食事をしていた一人のトルコ女性が、レストランの食事はどうだったかと、日本語で話しかけてくれた。それをきっかけに話が弾んだ。彼女は日本で9年間滞在し、立命館大学やトヨタで日本的経営を学んだという。現在、Kircilar社でマーケティングを担当している。彼女の名はZehra Yurdsever さん。帰国後、この写真を送った。最初日本語でメールを送ったが文字化けしたので、英語で再送したところ、上手な英語でのメールを返してくれた。

写真5→今回の旅行を通じてガイドしてくれたYAVUZ(ヤブズ)さん。アンカラ大学・日本語学科卒業の若者。トルコに関するあらゆること、社会・文化・歴史・産業・日常生活などを教えてくれ大変良い勉強になった。日本のことについても非常に良く勉強されている。


Simg_1928

写真1

S

写真2

Simg_4448

写真3

Simg_4777_2

写真4

Simg_1907

写真5

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月 2日 (月)

小学校同窓会は楽しく閉幕

先日の土曜日、堺市立浜寺小学校のクラス同窓会が大阪・難波・法善寺横丁近くにある「フェローズ」で行われた。14名が参加。今回、幹事の一人として、同窓会の企画を行って来たが、無事完了してほっとしたところ。終了後の挨拶状も発送完了。

我々のクラスは全員で56人。その内、お亡くなりになった方が4人。住所や電話番号が判明しており、連絡が取れる方は42名である。遠方にお住まいの方や法事やその他の会合でお忙しい方などがおられて、もっと多くの方に来て頂きたかったが、少人数ながら楽しいひとときを過ごすことができた。

物故者への黙祷に続き、校歌の斉唱をO氏のリードで行った。皆様、校歌を忘れてしまっていたが、歌い始めると何とか思い出し、懐かしい思いに耽ることができた。もっとも我々の頃の校歌は旧校歌となっており、学校のホームページを見ると、今は時代を反映した新校歌に変わっているのが淋しい。

その後、懇談をしながら各人の近況報告と続いた。まだ現役として働いておられる方もおられるが、色んな趣味や旅行、孫の面倒などで忙しい人、ボランティアで頑張っておられる方、など、人それぞれ元気に活躍されているのを聞くと自分も元気を頂いたような気持になった。欠席者の多くの方からは、心のこもった近況を知らせて頂き、次回には是非出席したいという方もおられた。

Simg_2294c_2 今回、私の方で、昔の卒業写真に名前を付して、顔と名前を一致させて見やすくしたものや現在の小学校近辺の写真などを、プロジェクターで映してご覧頂いたが、皆様、なつかしくご覧頂いた様である。

カラオケでは、我々の時代に歌われたもの、例えば、越路吹雪や石原裕次郎、水原弘の歌、最近のものでは、「千の風になって」などの歌が歌われた。

最後に、幹事の一人、Yさんが昔、NHKのラジオ番組に出場し、皆で歌ったという童謡「みかんの花咲く頃」を全員で歌って締めくくり、次回2年後の開催日を決め、再会を約束した。

その後、心斎橋にあるコーヒー店「英国屋」で懇談。5時間半に亘る同窓会は、皆様大いに語り、大変思い出深いものになった。

最後になるが、フェローズというお店は、料理も立派で割安感があり、店員の方のサービスも行き届き、更にカラオケやプロジェクターを使えることもあり、次回も使ってみたいと思うような店で、皆様にも好評であった。英国屋も雰囲気が良く、皆で懇談するのに最適の場所であった。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

関西空港について思うこと

ここ2年間、海外旅行に何回か行ったが、日本に帰ってくるたびに関西空港の地味な装いが気にかかる。何も豪華にせよということではないが、成田と並ぶ日本の玄関口として、もう少し、ここは日本だなあと思わせる演出が欲しいところだ。

例えば、日本文化を代表するような花鳥風月をちりばめた絵画とか、日本建築の特徴を帯びた造形物とかにより、空港を彩ったりしたらどうかと思う。今のような彩の少ないコンクリートと鉄骨で固められた様子は殺風景そのものだ。

ドバイ空港などのように、オイルマネーの力を誇示するように必要以上に豪華なものは要らないが、せめてベトナムのサイゴン空港などのように、南国の花で美しく彩り、自国の特徴を表現している空港にすればいいのになあと思う。

しかし、そこには、世界でも珍しい株式会社が運営する関西空港の持つ限界があるのだろう。空港の建設費はいまだに、着陸料や空港施設の使用料などに跳ね返っている。ボーイング777の着陸料は仁川17万円、関空58万円という。経営努力だけではどうしようもない。空港の見映えよくするなどということは所詮無理なことであることは理解できる。

関西空港は、見映えは良くないが機能的には優れているという。日本で唯一、国内線と国際線の乗り継ぎができ、24時間使用でき、貨物便も利用できる空港で、空港としては良い部類に属するという。問題は高コストと都心へのアクセスの悪さだという。

そくで今後求められるのは、国家戦略としての航空行政なのであろう。最近羽田空港のハブ化とかいう話が出ている、また日本のハブは仁川とまで言われているが、このような問題も含めて、国が本格的に、関西空港、羽田空港、成田空港を含めて、他国との航空競争に立ち向かうことができる空港にするために知恵を絞る時が来ているのだと思う。

by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月29日 (火)

大和三山万葉ウオーク

万葉文化館主催の万葉ウオークに家内と一緒に参加(9月23日)。近鉄・大和八木に集合。一行約40名。講師は万葉古代学研究所主任研究員の井上さやか さんとガイドであるご夫婦の案内で秋のひと時を楽しむ。

我々はこのウオークには始めての参加であったが、毎年1回、この時期に行われているそうだ。そしてルートは、なかなか立ち寄ることの少ないところを結んだルートで、観光ルートからは外れている。

まずは耳成山へ。耳成山は大和三山では、139mと最も低い山である。もとはもっと高い山であったが、盆地の陥没で沈下し、山の頭部が地上に残された単調な円錐形で、人の顔にたとえれば耳がないような山なので耳無山→耳成山といわれるようになったそうだ。

麓に詠み人知らずの歌碑があるのを見て横大路(伊勢街道)を東へ向うと三輪神社があった。境内には、江戸時代、御蔭まいりの時、多くの人々の目印になった大欅(けやき)があった。現在はご神木として地域の人に崇められている。

そこを出て吉備池へ。吉備池の堤に大津皇子と大伯皇女の歌碑があった。ここからは大和三山の香具山、畝傍山、耳成山が一望でき、美しい眺めだ。辺りには彼岸花が沢山咲いており、のどかな気分にさせられた。

(大津の皇子の歌:皇子が謀反の疑いをかけられ死刑に処せられる時に詠んだ歌)

「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
      (百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、
                               私は雲の彼方に去るのだろうか)

この後、安部寺跡→磐余の道→安部文殊院→土舞台を経て、桜井駅へ。
桜井駅に至るまでに、「桜の井」という桜井の名の由来となっている井戸があった。

Simg_1756_4

耳成山
登山口

Simg_1771_3

三輪神社

Simg_1780_2

大津の皇子の歌碑
(吉備池の堤にある)
(遠方に見えるのは
畝傍山)



| | コメント (0) | トラックバック (0)

万葉恋歌・・・ああ、君待つと・・・新井満

今年に入って原始・古代文化への憧憬の念が強くなり、奈良県の明日香地方には幾度が足を運んだ。昨日の9月27日(日)にも奈良県の県立万葉文化館が主催する「万葉のこころを未来へ」というシンポジウムが、大阪厚生年金会館芸術ホールで開催されたので参加した。

このシンポジウムは、昨年から平城遷都1300年にあたる2010度にかけて全国主要8都市で開催されており、2009年は、大伴家持が日本最古の歌集「万葉集」の最終歌を詠んでから1250年を迎えるので、これを機に、万葉集に焦点をあてた事業を展開することにしているそうだ。

今回のシンポジウムの出席者は、奈良県立万葉文化館長・中西進氏、作家、作詞、作曲家・新井満氏、大阪大学総長・哲学者・鷲田清一氏、華道家・池坊由紀氏、国立国際美術館長・建畠氏の面々であり、約4時間に亘って感動的な話を聴かせて頂いた。

シンポジウムでは、中西進氏によるプレゼンターションの後、新井満氏と鷲田氏が講演されたがその内容は示唆に富み、感動的なものであった。その後パネルディスカッションが行われた。

新井満氏は皆様ご存知の様に、小説家としては芥川賞作家であり、最近では「千と風になって」を作詞・作曲された方である。本シンポジウムでは、万葉集の和歌にメロディーを付けて自ら歌唱したCD「万葉恋歌 ああ、君待つと」が生まれた経緯を、面白おかしく話された上、実際に歌唱された。この歌は歌手の小林幸子さんが、自分も歌いたいと名乗り出て、今巷で話題になっているそうだ。当日、新井満さんのCDが会場で販売されていたので買い求めた(下記の写真)。

Simg_1800 さて、この万葉恋歌の生まれた経緯であるが、中西進氏から、万葉集の和歌にメロディーを付けて、一つの楽曲を作って欲しいという依頼であった。

新井さんは万葉集など読んだことがなく、最初はこの依頼に当惑したという。

そこで3ヶ月かけて4500首もある万葉集を何とか読み通したという。そして未来へ伝えるべき万葉のこころとは、一体何なのだろう?と自問した結果、「それは多分愛のこころではないか」と自答した。そこで新曲のテーマを“愛の歌”とし、しかも女流作家の和歌のみで歌詞を構成することにした。

そして4500首の中から3ヶ月かけて最終的に5首を選んだ。その内訳は額田王が1首、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)が3種、播磨娘子が1首である。5首の和歌は、それぞれ独立していて関係性はない。これらの5首の和歌を5枚の白いカードに書き写し、それを様々な順番で並べては崩し、また並べ直すということを繰り返すうちに、ある配列に出会った。やがてそこからひとつの情景が浮かび上がってきた。それは、来てくれない恋人をひたすら待ち続ける女性の切ない横顔であった。そしてこのストーリーに作曲をほどこしたという。心がけたのは、万葉集の原文をできるかぎり忠実に生かすことだったという。

実際、新井さんはこの万葉歌を会場で歌って見せられたが、歌の上手さは言うまでもなく、万葉人のこころが1250年の時空を超えて伝わってくるように思われ、大変感動的であった。辺りを見回すと涙ぐんでいる方もおられた。この曲は、小林幸子版としても発売されているそうなので、後ほどこれも買い求める予定である。

歌詞の最初の部分は次のようである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ああ 君待つと わが恋ひをれば
わがやどのすだれ すだれうごかし
秋のかぜ吹く

ああ 君が行き けながくなりぬ
山たづねたづね むかえか行かむ
待ちにか待たむ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中西進氏は、この歌に対して次のようなコメントをされているが、
我々日本人の心の本質を見事に表現されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人を愛することとは、待つことだ。しかも白髪になるまで待つことだと作者は訴える。
欧米人の愛はどうだろう。出かけていったり、好きだ、好きだを連発するのではないか。

ところが日本人は「待つ」ことが愛だという。なぜなら愛は、その中で次第に濃縮され、
抑制されればされるほど蓄えられる力が大きくなる。この歌の中で「待つ、待つ」と
歌われるたびに、われわれに愛の激しさが伝わってくるのもそのせいである。

実は何にせよ、この抑止することで内容を濃くする方法は、日本人の得意技であった。
お能の動作もそうだ。お茶の仕草も同じ。柔道は相手の力を利用して勝つ。
仕方なく待つのではない。自分の愛を確実にするために待つのである。

ご参考:万葉集のサイトがあります。

 by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月10日 (木)

石見銀山紀行

8月半ば、世界遺産となった石見銀山を訪れた。ガイドさんの話しによると、世界遺産に登録された直後の熱気は一段落し、観光客で溢れるということにはなっていないらしい。私が訪れた時もそうだった。

石見銀山は戦国時代から江戸中期にかけて日本最大の銀山として栄えた。最盛期は江戸時代初期で、年間150~200トンの銀を産出したという。石見銀山の注目すべき点は灰吹法という原始的な精錬法で驚くべき生産高を上げたこと、採掘の技術者集団や精錬に使う鉛、燃料の木材、交通ルートなど、鉱山を持続的に運営する条件が整っていたこと、等が挙げられる。これらのことが高品質の銀を大量に生産・輸出できた大きな理由である。

石見銀山を巡っては、日本国内では、戦国時代、大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣秀吉による熾烈な争いが繰り広げられた。また、徳川家康が天下を取ってからは、いち早く幕府直轄地とし、銀山奉行(大久保長安)を派遣した。

世界史的に見ても、石見銀山の名は、大航海時代には世界に知れ渡り、当時のポルトガルの地図にもその名が載っている。また、かの有名なフランシスコ・ザビエルが手紙に「スペイン人が日本を銀の島・ジパングと呼んでいると記している。そして、多くの銀が明を経由して陸路ヨーロッパへ、あるいは海路で渡ったと言われる。

その他にも石見銀山にまつわる興味深い話がある。関が原の戦い後の大阪冬の陣では、徳川家康が石見銀山の堀子を使って地下道を掘り、難航不落の大阪城を地下から攻めたとか、大阪城の地下水を遮断したとか言われている。

また、ガイドさんが、ポルトガル人による種子島の鉄砲伝来に関連して、実は彼等は銀を求めて日本にやって来た途中、遭難し種子島に上陸した、と説明していたが、私もさもありなんと思った。そして若しこれがスペインであったなら、日本の運命は変わっていたかも知れない言っていたが、スペインによるインカ文明の破壊などを考えると、歴史の仮説とは言え、真実性も少しあるようにも思われた。

鉱山を支える住宅地域「大森地区」については、当日は商店街の休業日で、人通りはまばらだった。街の景観を維持するための色々な配慮が工夫されており、下記の写真にあるような木製の自動販売機が目に付いた。

 by 八木: http://homepage3.nifty.com/yagikeieioffice/

Simg_1711

石見銀山
初代奉行・
大久保長安
の墓

Simg_1722

龍源寺
間歩

Simg_1744

大森区
にある
自動販売機:

街並み景観
に配慮して
いる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

1.経営 | 2.日記・随想・歴史紀行・音楽